第二章 代理戦争

第一話 発端

 天正十一年四月。本能寺の変から十ヶ月後。伊予国岡本城。


そま争いに鉄砲を持ち出すとは前延めは何をとち狂った」


 敵陣を見た土居清良は吐き捨てるように言った。間道を通って自ら物見に出た清良が藪越しに見たものは、数十丁の鉄砲を装備した法華津兵、三百人だった。


 土居清良の居城岡本城は土佐との国境に近い地にある南伊予の山城だ。清良は南伊予の小大名西園寺家の重臣で、武勇をもって知られる。四年前に攻め寄せてきた長宗我部の重臣久武信親を打ち取ったことで勇名をとどろかせた。


 だが今清良の城に鉄砲を撃ちかけているのはその時共に戦った隣の国衆、法華津前延の軍勢だった。


 法華津前延は岡本城の西隣にある海城法華津城主で、清良と同じく西園寺家重臣だ。清良ほどの武名はないが、豊後水道に面する港により西園寺傘下で最大の動員兵力を誇る。


 同じ主を戴く国衆同士の諍いの発端は些細なものだった。清良の領地である村の一つが隣接する法華津の村と里山の境界をめぐって争ったのだ。それを聞いた清良の反応は「またか」だった。二つの村は件の山をめぐり過去に何度も争っている。


 とはいえ村からの訴えを放置はできない。領地であり領民である村の保護を怠ればあっと言う間に年貢が滞る。


 その時点では清良は法華津前延も同様に考えており、話し合いで解決すると思っていた。だが清良が法華津城に出した使者は追い払われ、代りに兵三百が攻め寄せてきたのだ。


 唖然とした清良は主で西園寺公広に法華津の無道を訴える使者を出し、岡本城に二百の兵で籠城した。


 とはいえ所詮は示威行為。城を守っていれば主君の停止を名目に引き上げるだろうと考えた。ところが法華津勢は数十丁の鉄砲を打ち込んできた。兵三百を動かしただけで物入りである。さらに鉛玉と弾薬を使っては、争いに勝ってもまったく割に合わない。


「殿、敵勢に動きが。どうやら我らに気が付いた様子」

「分かった。物見は十分だ。急ぎ城にもどる」


 老臣の言葉に清良は即座に引き上げを決めた。彼が城への裏道に入った時、背後で大量の銃声がした。追ってきたのは簡素な鎧兜ながら俊敏な動きを見せる兵だ。あのような者が法華津にいただろうか。


「丸串からはなしのつぶて。これは念のため湯築の御屋形様に後詰を要請するか」


 清良は主君の主君である河野通直に救援を求めることを決心した。通直は伊予守護であり、南伊予を押さえる西園寺家の中でも親河野である自分を見捨てないはずだ。





 天正十一年四月。呉鎮守府。


 鎮守府海兵寮では二期生三百人が訓練を開始している。二期生が一期生と同じ数なのは、指南役の数が足りないからだ。何しろ川ノ内警固衆は、晴れて海兵となった一期生部隊の大組頭なども務める。


 一期生が実戦経験を積めば指南役に回し、三期生は倍の六百まで増やすとしよう。指南頭の就英は二期生は九か月で仕上がるといっているから海兵隊が千人になるのは一年半後、さらに訓練生を倍にすれば予定の二千人に達するのが二年後の天正十三年か。


 最初の楽観的な予想よりだいぶ遅れるが、悪いペースではない。天正十三年と言えば豊臣秀吉が四国を平定した年だ。その基準なら今年十一年は賤ケ岳だな。土岐光秀が柴田勝家と開戦したから、土岐と柴田で賤ケ岳が発生する可能性がある。


 冬の内に織田信雄が滅んだから、柴田は本来の歴史よりも不利な状況だ。とはいえ光秀の方も秀吉が持っていた備前美作、播磨半国に因幡が毛利に切り取られている。


 勝家からは土岐の後背を突いてほしいと要請されたが、形の上では義昭を戴く毛利が、旧織田勢力の柴田勝家と共闘する名分はない。というか鎮守府設立と広島築城を進めている私としては、現時点で光秀との全面戦争は避けなければいけない。


 光秀からは将軍の名のもとに私に中国探題就任を打診してきた。いわば室町幕府の中国道長官だ。書状によると四国は長宗我部、九州は大友と島津に探題職を任せたいと書いてあった。


 光秀は管領代として畿内五ヶ国を管轄すると言っているので、いわば畿内探題だ。丹後、近江、美濃、伊勢など畿内周辺は土岐の五家老と呼ばれる宿老を守護に任じている。いわば探題守護制だな。


 播磨と淡路の守護は空席だから、一応毛利と対立するつもりはないようだ。ただし、北陸の柴田が滅びたらどう出てくるか。


 光秀の勢力は予想以上なのは確か。歴史通り甲斐と信濃を獲得した徳川家康に、まだ土岐に抵抗している尾張を奪ってほしいくらいだ。


 ただ肝心なところ、つまり国家体制という意味では予想通り迷走しているとみていい。


 名目上の将軍の下で管領代、いや宰相として日ノ本の中枢を固めつつ、数ヶ国の規模に勢力を拡大した遠国の戦国大名の既得権益を認め、その緩やかな連合を作る。これは結局のところ設立以来一度もまとまったことがないと言っていい室町幕府の焼き直しだ。


 もちろん短期的には私たち戦国大名にとっても意味心地いい体制だ。ぶっちゃけて言わせてもらえば私に限らず戦国大名は戦なんてしたくない。それぞれの国家が守られていればそれでいいのだ。


 だが探題に守護なんて古臭い仕組みでそれを維持するのは無理だ。九州北探題の大友と九州南探題の島津が仲良く九州を分け合うことはあり得ない。南北の境界はどこに置くんだ? 肥前の竜造寺はどちらに所属する?


 彼らがそうしたくてもそれを許さない状況がある。大友と島津はそれぞれ多くの傘下国衆、つまり自治権を持った小国家を傘下に抱える。


 それらの国衆は自家の存続をかけて島津と大友、そして竜造寺を乗り換えるという命がけの玉乗りをするのだ。戦国大名国家の境界はそういう流動的なものだ。きわめて乱暴な比較だが、室町幕府が国連で、戦国大名が大国、国衆が小国と思えば間違っていない。


 織田家ですらそれら国衆を統制するために、検地や城割といった中央集権的政策を進めていた途中で倒れた。太閤検地や全国的な刀狩りを経て、江戸幕府が全国規模の統制を作り上げるまでまだまだ遠い。その江戸幕藩体制すら親藩、譜代、外様という構造は戦国大名の一門、譜代、外様の延長だ。


 光秀の国家構想は必ず破綻する。しかも光秀は未だ管領代であり、その上には名目上の武士の棟梁である将軍がいる。


 光秀には時代に抗ってもらう。彼がたとえ私の十倍の能力を持とうと時代には逆らえない。どれだけ有能でも出来ないことをすれば失敗するのだ。


 その間に私は時代に追いつき、そして越える。とりあえず本来の歴史と比べて倍の石高と、九年早い広島築城、そして海兵隊の原型は出来た。


 当面の問題は鉄砲の生産だな。鎮守府鉄砲頭の重秀には本家直轄とした備前長船を鉄砲生産地に出来ないか視察させている。あそこは古くから日本刀の生産地で、鉄砲鍛冶は刀鍛冶から派生した。


 鉄砲の自給体制さえできれば毛利水軍を使って瀬戸内海や日本海を封鎖、鉛と硝石が土岐の勢力に渡ることを阻止することで軍事的優位を作れる。


 ただしこれらの体制が整うためには。海兵隊が今の数倍の規模になり毛利水軍や陸軍と連携する体制が必要だ。最低でも二年、大きな戦はしたくないというのが本音だ。


 まあこの時代の平和とは努力して必死に取り繕うものだ。戦無しなんて贅沢は言わないから、せめて小規模なものに押さえるために努力する。というか小規模で抑えるための海兵隊だ。


 私が浜を走る二期生に期待の目を向けたとき、城門の方向から馬蹄が近づいてくるのが聞こえた。門が開き、複数の騎馬武者が入ってくる。一団は本曲輪前でやっと馬を降り、近づいてくる。


 先ぶれもなく前に乗り付けるなんてどんな大物だ?


 中央にいる老若の二人を見て納得した。こちらに来る家中序列でも最高ランクにある二人だ。六十を超えた老武士は吉田郡山城を預けている義父宍戸隆家。二十歳前後の若い男はその孫である元続だ。


 宍戸家の当主と継嗣がそろってくるとはどんな大事だ?






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2024年2月19日:

お待たせしました。第二章開始です。

次の投稿は明後日です。

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