エピローグ 海兵隊任官式

 天正十一年三月。安芸国呉。


 拡張された呉城の前に、そろいの萌黄の小袖と股引を着た二百三十四名が整列している。


「……番、田野伝兵衛を海兵に任ずる」

「ありがたき幸せ」


 訓練頭児玉就英から任命書を受け取る訓練生、いや海兵第一期。彼が手にした任命書の上には祝い金の入った袋、そして彼が鎮守府海兵隊の一員である証が乗せられている。


 海兵隊の部隊章イングシアは小早船をかたどった台形に交差する鉄砲と艪が彫り込まれた意匠だ。縁が折り曲がり小袖の襟に挟むように出来ている。裏には番号が刻んであり、認証票ドッグタグを兼ねている。


 戦国武将の兜の前立てとは全く違う小さな徽章だが、彼ら海兵が誇りを抱くのは部隊そのものに対してである。


 ちなみに鎮守府将軍の名のもとに偽造は重罪だ。まあ偽装したいと思わせるほどの部隊になるのはこれからだが。


 祝い金は一人当たり二百文で、現代の価値なら二万四千円くらいか。専業兵士となる支度金だから高いとは思えないが、この時代の基準では結構な額だ。最初にここに来た時の彼らなら銭袋に目が釘付けになっただろう。しかし今隊列にもどっていく海兵の姿勢と歩行は一切崩れない。


 隊列全体としてみても、すでに任命されたものもこれからの者も直立して微動だにしない。それでいて何かあったら即座に戦闘態勢を取るだろう柔軟さを集団全体として持っている。


 この九か月の調練の成果はこの隊列が雄弁に語っている。特にあの演習の後、年が変わってからの三ヶ月は充実していた。


 冬季の海難事故は命にかかわるので、この三ヶ月は主に鉄砲の訓練をした。鎮守府鉄砲頭の重朝は雑賀衆より訓練しやすいと感心していた。その熱心さは勘定方の榎本元吉をして「鉄砲から銀の弾丸が飛び出す夢を見ました」と言わせるほどだ。


 ちなみにあの草津城演習の後で、もう一度演習が行われた。就英率いる川ノ内警固衆が冬の荒海を押し渡って呉城に襲来、城を守る訓練生に攻めかかるという、攻守逆転バージョンだ。ちなみに呉城は落ちた。指南役にも面子というものがあるのだ。おかげで三ヶ月の訓練は大いに引き締まった。


 海兵隊はそのコンセプトから攻性の軍で訓練もそれに合わせたものだ。ただ味方の城に援軍に入るという想定もあるので、国衆の兵とどう連携するかを含めて課題だな。


 私の想定より順調とはいえ、いまだ実戦経験をしていないのだからまさにこれからだ。


 ちなみに中国平定も完了した。備前美作はもちろん伯耆と因幡も毛利のものになった。最後の因幡なんて吉川軍が国境を越えるや、ほとんどの国衆が出迎えた。


 秀家はまだ幼いので出家で許すことにしたが、忠家は切腹となった。ちなみに忠家は直家の弟で、兄の前では常に鎖帷子を着ていたという逸話で有名だ。戦国の三大悪人宇喜多直家のドン引きエピソードの一つなのだが、実際には忠家は兄の家臣すら切り捨てる狂犬だった。兄を恐れていたのは、いつ成敗されてもおかしくない所業を積み重ねていたからだというのが真相らしい。


 吉田郡山城での今年の正月は元春と隆景と元清の三人の叔父が、新しく服属した五ヶ国の衆をずらっと連れた壮観なものだった。狭い吉田に互いに遺恨がある国衆が詰め込まれた結果、刃傷沙汰が二つほど起こったが。


 これを見てもわかるように戦国大名の領土拡張というのは、土地が増えるというよりも子分が増えるに近いものだ。まあ備前美作に関しては宇喜多の直轄領と重臣の大半を潰したから、私の蔵入地も数万石増えたが。


 来年の正月は広島城でやらなければ駄目だな。広島築城は張元至を元良に遣わした後、順調に進み始めた。おかげで懸案だった鎮守府本部と船溜まりに人数を使えた。


 船溜まりには改装された安宅船と新大型小早船がそろっている。それぞれ船腹に隊章と同じ紋が描かれている。海兵隊遠征艦隊の形だけは出来たわけだ。


「御屋形様。全員任命を終えましてございます」

「ではこれより鎮守府海兵隊の心得を告げる。皆、私の後に続いて唱和せよ」


 私は全員を見渡してから、自分で作った隊訓を口にする。


「一つ、海兵隊は毛利国家の大事においては真っ先に駆け付ける」

「「「一つ、我ら海兵隊は毛利国家の大事においては真っ先に駆け付ける」」」

「一つ、海兵は戦場では心を一つにして決して朋輩を見捨てない」

「「「一つ、我ら海兵は戦場では心を一つにして決して朋輩を見捨てない」」」

「一つ、海兵隊の一員であることに常に誇りを抱き、その規範を示すべし」

「「「一つ、我ら海兵は海兵隊の一員であることに常に誇りを抱き、その……」」」


 綺麗にそろった隊列、ぴったりと一致する唱和、これが出来る軍隊はこの戦国のどこにもないと断言できる。


 将来の士官候補も見いだされてきた。例えば草津での演習の時、就方の出現で崩壊しそうになった状況で、城の焔硝蔵に火をつけるという奇策で乗り切った者。確か村田余吉とかいったか。


 こういう者が育っているのは心強いかぎりだ。海兵隊において組頭かしかんの役割は非常に大きい。海兵隊は戦場の霧の最も濃い場所で活動する。現場指揮官の裁量は極めて大きなものになる。


 未だ二百半ばの小さな軍だが、これから実戦経験の中で磨き上げていく。それこそ本家アメリカ海兵隊が日本軍との戦いの中で成長したように。そしてその戦訓を訓練や装備に反映させる。このループを回し続ける。


 私が後世に残すべきは個々の技術や戦術ではない。決して完成することのない組織が最強であるという理念だ。鎮守府海兵隊とはそれを形にして、歴史に刻むためにある。


 もちろんその為にはまず最強であることを日ノ本統一という形で証明しなくてはいけないのだが。


 中国に毛利の敵はいなくなったが、九州豊前の門司城から大友家が勢力を盛り返してきていると報告が来た。あの家の復活はにとってとても良くない。まあ背後で島津が大きく成っているから大丈夫だろう。島津と毛利は対大友の同盟者だ。本来の歴史では島津に滅ぼされるところを豊臣に縋って生き残ったのだ。……ちなみにその時毛利は手のひらを返して秀吉に従って島津を攻めた。


 予想外だったのは畿内情勢だ。正月明けに土岐光秀が織田信雄を滅ぼした。北陸の柴田勝家は残っているが美濃、尾張、伊勢まで土岐領となっただけでとんでもない大勢力だ。


 もちろん今のところは土岐は友好国だ。互いの軍事行動が一段落したから、播磨で正式な国分を取り交わそうという話になっている。


 播磨等分、因幡と但馬の間に国境はいいとして、問題は淡路だ。あの島は首都圏きないを望む大阪湾の制海権の要、現代風に言えば不沈空母だ。


 もし淡路をめぐって争いになれば土岐との無事へいわなどあっと言う間に崩れかねない。村上武吉が淡路の領地はまだかと催促してきているしな。


 九州と近畿、鎮守府海兵隊が瀬戸内海を東奔西走する未来は予想以上に近いのかもしれない。目の前に並んでいる海兵隊のどれだけが死んだり傷ついたりするだろうか。


 そもそも日ノ本統一の戦の中、私が勝ち残る保障なんてどこにもないのだ。そう考えるとまさにこれからが正念場だ。


 だが今は鎮守府海兵隊の門出を言祝ぐとしよう。


「皆、今宵は酒と餅を食いたいだけ食うがよい。それが毛利の祝いの形だ」

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