閑話 京
天正十年十一月。山城国、二条城。
「そうか信雄めは大河内城に引きこもっておるか。流石管領代よ」
再建された二条城の本丸御殿、将軍足利義昭は扇子で口元を覆いながら笑った。光秀は無言で小さく首を垂れて見せた。光秀の背後に控える藤田行政は、深く伏せた顔で憤りを隠す。
織田信雄の領国伊賀では各地で反乱がおこった。織田家の伊賀国平定の際には根切と言われるほど徹底的な掃討が行われたが、かろうじて隣国の大和に逃れた地侍も多かったのだ。
それら地侍は筒井順慶の援助により秘かに伊賀にもどり、信雄に対して反乱を起こした。その後順慶が軍を率いて入るや、信雄の勢力は伊賀から追い出された。
現在順慶は伊賀福地氏城に駐屯して伊勢を睨んでいる。本国の首筋に刃を突き付けられた信雄は尾張に侵攻していた滝川一益を北伊勢に戻し、信雄自身も本拠大河内城の守りを固めざるを得なくなった。
信雄の勢力が南に後退したことで、斎藤利三の美濃平定が進み始めた。北陸の柴田勝家が動けぬ冬に明智秀満の軍勢も併せて美濃を完全に抑え、信雄と勝家を分断するという戦略は思惑通りに進んでいる。
「公方様は管領代の推挙通り筒井殿を伊賀守護職に任ずるとのことです」
将軍側近の真木島昭光が言った。光秀は「祝着この上なく」と言って再び小さく義昭に頭を下げる。
これで先月丹後守護職を与えらえた細川忠興に続き光秀の傘下大名が守護職を得たことになる。畿内五ヶ国の守護は管領代の兼任として光秀が帯びている。室町幕府の正統なる手続きをもって日ノ本の中心は土岐家の支配に置かれつつある。
まさに天下静謐。すべて主光秀の戦略と行政たちの働きだ。だがこの将軍御所にはそうは思わない、いや思いたくない者たちが溢れている。
「公方様がご帰洛により織田家も形無し」
「逆賊信長の最後の息子の首を見るのもそう遠くない。公方様の御威光ですな」
畠山と一色、かつての名門守護家の人間が嘯いた。自分たちが手柄を立てたかのようだ。存在することだけで価値があるという名家特有の感覚は西国に落ちても治らない。
彼らの安全と生活を守っているのが誰なのかまったく考えていない。鞆にいた時もこうだとすれば、毛利が幕府をさっさと手放したのもわかる。ただ、それでも彼らは物の数ではない。
「ところで管領代。実は朝廷より一つ要望が来ておるのじゃ」
「朝廷より。いかなることでございましょう」
「叡山復興じゃ。もともと叡山は国家鎮護の大道場。その長である天台座主は代々親王殿下が就かれる由緒ある門跡であるからのう」
「なるほど。いかなる手立てがあるか検討させていただきまする」
義昭の言葉に主は顔色一つ変えずに答えた。だが伏せたままの行政の表情はこわばった。
「そうそう、あともう一つじゃ。武田信秋が己を安芸守護にと願っておる。管領代の意見はどうじゃ」
「信秋殿は若狭武田家一門。武田元明殿の元に戻られたのでは」
「どうにも折り合いが悪いようでのう。あれの父信実は余に最後まで忠義を尽くした者ゆえ不憫なのじゃ。分郡守護という形でもなんとかならんか」
「公方様のお望みとあらば無下にできませぬな。ですが毛利との国分も今だ落着しておらず。時を戴きたく」
「むろんじゃ。うむ、管領代に任せれば安心よ。のう昭光」
義昭はそういうと扇子を振った。流石に反論せねばと思った行政だが、真木島昭光の抑えてほしいという目線に言葉を飲み込んだ。
管領代土岐光秀の京屋敷は西洞院大路にある。屋敷の奥書院には土岐家の宿老が集まっていた。
「というわけでござる。織田が少し弱るや我を出し始めた」
将軍御所でのやり取りを説明した藤田行政は最後にそう言ってため息をついた。
「叡山復興などされてはたまらん。土岐家の本拠坂本を坊主どもに返せるわけがなかろう」
左手を布で吊った男が憤懣やるかたないという顔で言った。明智光忠。光秀の従兄弟で、本能寺で鉄砲を受けるほど奮戦をした。京の知恩院で療養していたが、回復したのちに丹波亀山城の留守居を務めている。
いわば土岐の本領である丹波を預かる宿老だ。
「武田の安芸守護に至っては呆れてものも言えませぬ。ようやく織田をという時に毛利と戦などできるはずがない」
三沢茂朝が板間に拳を叩きつけた。京の喉元を守る勝竜寺城を預けられる宿老だ。
先日坂本城で評議をした斎藤利三と明智秀満が東方担当なら、ここにいる明智光忠と三沢茂朝は西方担当ということになる。行政を合わて土岐五家老と呼ばれている。
義昭の要求は要するに土岐の本拠地である坂本、そして西国政策への介入なのだ。もちろん義昭もこんな要求がおいそれと通るとは思っていないだろう。しばらくしたら真木島昭光あたりからより現実的な要望が行政の元に来るだろう。要するに政の駆け引きだ。
ただその駆け引きに自分を京に戻した彼ら土岐、それまで世話になった毛利を使う態度には辟易とする。将軍とはそういうものだといってしまえばそれまでだが、この調子でかき乱されては実害もでるのだ。
もし「御所で武田信秋を安芸分郡守護に任ずるという話がでた」という噂が流れただけで、毛利は間違いなく警戒心を高める。現在織田と戦をしている土岐にとっては迷惑極まりない。
「将軍あっての管領とはいえ、まるで腹中にしこりを抱えたようなもの。いっそのこと今の公方様には引いていただき義尋様に……」
全員の不満を代弁するように行政がその名を出した。
足利義尋は将軍義昭の嫡子である。義昭追放時に京に残されたのを本能寺後に光秀が保護した。現将軍を大御所に祭り上げ、若い新将軍を擁立する方が御しやすい。
だが光秀は首を振った。
「一度戴いた公方様を半年もたたず隠居に追いやるは名分が立たず。公方様にはまずは右近衛大将として朝廷のことに専念していただく」
「……そうするしかございませんか。しかし朝廷となると叡山の件はいかがいたしましょう」
「教如を使うのがよい」
光秀は本願寺顕如の子の名前を上げた。教如は父顕如が信長との和議を決めた後も抵抗した対織田強硬派だ。本願寺から退去した後も各地の反織田勢力の間を飛び回って活動していた。そういった関係上、現在は土岐家と近い関係にある。
「なるほど。叡山復興というなら本願寺も復権を願うは道理。大門跡二つが朝廷で優先争いを起こせば復興どころではないでしょうな」
朝廷や寺社の複雑な人脈を知り尽くした主の一手に行政は改めて感心させられた。
「では本題の西方に入りまする。光忠殿、但馬の情勢はどうなっておりますか」
「秀長は秀勝と共に竹田城で抵抗しております。今は丹後の細川親子が但馬の国衆たちを調略しておるが、もともとの羽柴の者どもは流石にしぶとい。竹田城も天険の要害ゆえ」
羽柴秀勝は信長の四男で秀吉の養子となった。まだ若いうえに、信雄と異なり織田に復姓などの動きは見せていない。じっくり追い詰めれば何とでもなるだろう。
「東播磨はどうですか、茂朝殿」
「別所旧領ゆえに我らを恨むものも多く今少し時間がかかりまする。高山殿、中川殿を手筋に少しづつですな」
「東に兵を集めている状況では致し方ないでしょうな」
行政は西方担当の二人に理解を示す。そして西国最大の勢力の動向に話を移す。
「毛利の動きは」
「国分案どおり姫路以東には手を伸ばしておらず。備前美作の戦に集中しておるようです。美作はもはや完全に手中に収めたようだ」
「備前でも残るは数城。もう少し頑張るかと思ったが宇喜多はもはや駄目ですな」
「国割では備前美作は毛利の支配を認める形ゆえ仕方がない。ただ相変わらず中国のことしか見えておらぬのは幸い」
当主輝元自ら羽柴を討ったのは驚いたが、それもあくまで中国平定のための様だ。鎮守府将軍などというカビの生えた官職をありがたがっているのも笑止。肝心なのは
ただ中国二百万石が土岐の隣というのは厄介だ。
「武田信秋殿の安芸守護は論外としても、何らかの対処は考えておいた方がよろしいのではないでしょうか」
「
光秀は京の南西にある山に青駒を置いた。京都の入り口に付き出すような山だ。
「天王山でございますか。なるほど京の守りとして最適の地ですな」
「もし西方から京を狙う軍があれば、儂が丹波から兵を入れるにも最適の城となる」
「はい。某の勝竜寺城と連携して京の入り口を固められる。まさに掎角の構えですな」
三人の宿老は次々に主の策に賛意を示した。評定は築城の分担に移った。丹波、摂津、河内など、織田攻めから外されている国衆たちを動員することが決まる。
明智光忠と三沢茂朝がそれぞれの城へ引き上げるために管領屋敷を出た。一人残った行政は地図を見ながら土岐家全体の方針を確認しながら、斎藤利三と明智秀満への書状の草案を練る。土岐五家老のまとめ役としての彼の役目だ。
主敵である東方の織田家との戦は順調に進行している。中央である畿内五ヶ国と周辺国も土岐の旗下にその秩序を固めつつある。西方も天王山城の築城により万全の構えとなるだろう。
改めて確認しても主の差配は見事というしかない。
将軍を朝廷の役職として祭り上げ、管領代が各地の守護を指揮する。幕府本来の体制を復興させるなかで土岐が天下の差配者としての実を得る。その一手一手が的確で無駄のないやり方だ。
だが、一抹の不安がよぎる。
この戦略の大義名分である義昭の存在ではない。義昭の勝手極まりない振舞いと、過剰になっていく要求は頭が痛いが、所詮は武力を持たない飾り物だ。せいぜい朝廷や旧勢力を使って嫌がらせをする程度。
先ほど行政が義昭の隠居を口にしたのは、他の二人の不満をなだめるためだ。
問題はそのあとの話。主が見ている日ノ本の像が見えない。それが行政の不安だった。むろん、日ノ本の政の形など人知が及ぶものではない。
明智家宿老として内側から織田家を見てきた行政は、信長が多くの誤った決定を行ってきたことを知っている。それに比べれば主光秀は遥かに洗練されている。無駄も無理もなく、的確で適切な一手が迷いなく出てくる。
行政は光秀と一緒に安土城に伺候したときに見た南蛮時計をふと思い出した。正確に時を刻み続ける複雑な絡繰り。その精巧さに驚嘆したが、同時に……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます