第十話 神薬

 天正十年十月安芸国呉鎮守府。


 鎮守府開府から三ヶ月が経過した。本来の歴史なら徳川家康が信濃で北条を退けたくらいだろうか。家康の動向が気になるが、土岐と織田の戦争で関ヶ原以東の情報が入りにくくなってきている。恵瓊の死で京都との伝手が失われたことも大きい。


 ただ土岐と織田の争いの中で徳川の名が出ないということは、史実と同じく甲信地方で勢力拡大をしているのだろう。情報収集の強化は必須だな。土岐光秀と織田信雄が戦っている時点で私の歴史知識は無効化されている。


 そういえば朝廷より詔勅が下され、私は晴れて正五位下鎮守府将軍大江朝臣輝元となった。これまでは従五位下だったから位階も上がった。その分金が飛んで行ったが。


 まあ勅使を接待漬けにしたおかげで京の事情が分かった。義昭はめでたく右近衛大将に昇進した。やはり光秀は将軍という大義名分を必要とするのだ。


 そして光秀本人は従四位下参議となった。朝廷の官としても光秀に上をいかれたな。幕府ナンバーツーを譲った私に遠慮するつもりはないと。私が欲しかったのは鎮守府将軍ではなく、鎮守府なので問題はない。


 それよりもだ。


 足利将軍が右近衛大将は順当だが、管領代どころか管領が参議になった例なんてなかったはずだ。こちらが興味深い。


 三位から上が公卿だが、参議は例外として四位でも公卿扱いになる。議政官であり天下国家を議論する官職だからだ。その唐名は宰相という。光秀は丹波宰相とか呼ばれているのだろう。


 光秀の参議任官が義昭の意志なのか、あるいは光秀の望みなのか、はたまた朝廷が実質畿内を支配する光秀に気を使った結果なのか。室町幕府の定番、将軍と管領の抗争が始まっているのではないか。


 中央情勢はおおむね期待通りだな。後は織田がどれだけ粘ってくれるかだ。もちろん勝ってくれても問題ない。


 下から鬨の声が聞こえてきた。


 小早船が砂浜に乗り上げ船から海兵候補生が上陸する。上陸した訓練生は船ごとに組となる。そして四つほどの部隊に分かれて城めがけて駆けあがってくる。


「まだまだむらが多いですな。これではこの城は落とせませぬ」

「矢玉が飛び交うわけでもない訓練でこれでは、確かにそうであろうな」


 就英の言葉に私は頷いた。上から見ていると軍隊の質は一目瞭然だ。小早船の接岸はばらばらだし、上陸には手間取っている。致命的なのが砂浜で隊列を組むまでの混乱だ。


 もしも就英が城主なら駆け降りて混乱する訓練生を蹴散らすだろう。


「ただ三か月前と比べれば別物。特に規律の面では下手な国衆の勢を凌いでおります。一の鐘の法度が効いておりまするな。八割も残ったことと言い、どうにも不思議ですが」

「人の一日も戦と変わらぬところがある。先鋒が敵に突撃すれば後の者は続く」


 人間に一日規則正しく行動しろなんて無茶な要求だ。無理やりやらせると自主性が失われる。だから朝の半刻だけ規則正しくさせる。


 現代風に言えばモーニングルーチンだが、実はアイデア元は軍事知識だ。アメリカ海軍の新兵訓練ブートキャンプを参考にしている。ブートキャンプでは起床後にベッドメイクを徹底させる。これは簡単なミッションを完ぺきに一つ完遂することから一日を始めるという意味だという。


「体つきも変わってきたな」

「小兵ゆえに打合いとなれば膂力で後れを取りましょうが、櫂を漕ぎ戦場を走り続ける力はそこらの兵には負けぬかと」


 身長と違って筋肉は何歳からでも増える。この時代の人間は体力も持久力もあるのだが筋肉と脂肪という意味では足りない。なんでも広島に自然発生した色街では呉の男は凄い、なんて評判があるらしい。


 下世話な話はともかく。体力は作戦行動のすべてに関わる。さらにこの時代ではより重要なことがある。現代の言葉で言えば免疫力だ。抗生物質がないこの時代、人は傷口から入った微生物で簡単に死ぬ。


 近代以前の兵を一番殺したのは武器ではなく病気だ。現代のような装備も医療もないからこそ兵自身が体内に培った筋肉と脂肪が生死を分ける。


「ただいささか弛んできておりまする。早く戦に出て手柄を立てたいなどというものまで出ております」


 強化された己の肉体におごり始めたと。基本的にいいことだが……。


「規律が出来たなら、そろそろ競わせるか」

「ほう。どのように競わせまするか」

「湾内を小早船で一周、決められた地点から上陸、隊列を組んで呉城の大曲輪まで仕寄る。これを組としてどれだけ早く出来るか。……そうだ川ノ内警固衆も参加させるのはどうだ」

「面白いですな。自分たちが小魚にすぎぬことを教えてやりましょう」


 就英が笑った。


「後は鉄砲だが。例の者はどうなっている」

「どうやらかの荘では親織田、反織田で内訌が生じたようでかの御仁は紀州を追われておりました。ですがようやく音信を得ました。書状によると一族の一人を預けたいと」

「そうか。到着したらすぐに会う」


 海兵隊訓練生の競技については就英に任せた私は、呉城の一角に向かった。城の焔硝かやく蔵だった建物だ。頑丈で入り口の管理が厳密なので装備方の実験室として使っている。


 中に入ると玉木吉保が待っていた。私はまず褐色火薬の調合の話を聞く。


「御屋形様の言う通り暴発の危険が減っております。また鉄砲衆が言うには砲身、とくに火口への負担も少ないと。ただ距離に関しては多少落ちると」

「そうか。それに関しては鉛玉との兼ね合いを考る必要があるな」


 私は帳簿に記された数字に満足した。基本的に黒色火薬の木炭を褐色木炭に変えただけとはいえ、やはりうまくいくと安心する。実戦に使えるようになるには、まだまだ調整が必要だが、うまくできれば海兵隊の大きな力になる。


「……ではもう一つの方はどうだ」

「ここに用意しておりまする」


 吉保が私に南蛮渡来の下剤の国産再現物を渡す。私は手に油を付けると、下剤を取り、手水鉢の水の中で手をこすり合わせる。水を切ると指をこすり合わせて確かめる。油は綺麗に取れている。


「よくやってくれた吉保」


 間違いなく南蛮渡来の下剤せっけんだ。これで海兵隊に必須のもう一つの軍需物資、石鹸が手に入る。


 何度でもいうが、戦場での将兵の死因の大部分を占めるのが傷病死だ。本来なら死ななくて済む兵が大量に死ぬ。海兵隊は船の操縦と銃器の扱いに通じる専門技能を持った精鋭、予定だが、だからとんでもない損失になる。


 兵の損失の中で防げる要素は徹底的に防ぐ。これは鎮守府海兵隊の基本原則だ。


 基礎体力があることは根本的に重要だがそれだけに頼ることはできない。戦場という過酷な環境で犠牲を最小化するには足りない。


 傷病死は衛生管理を徹底することで劇的に減らすことが出来る。クリミヤ戦争でナイチンゲールが証明したことだ。


 必要なものは清潔な空気と水、清潔な布、そして清潔な手の医師だ。空気に関しては換気以外に手はない。清潔な水と布は煮沸消毒で何とかなる。そして最後の一つの為の石鹸だ。


 蒸留酒でもいいが保存性など兵站要素を考えると使えない。多分薬師か兵の胃の中に消える。


 冗談はともかく兵站はすべての軍事活動の基盤だ。海兵隊はすべてを兵站を前提に考える。そうでなければ常備、即応の実現は不可能。


「南蛮商人から買うのに比べて半分の銭で出来まするが。それでもこれだけの入用になります」

「なるほど元吉には見せたくないな」


 吉保が元至から預かった帳簿を開いた。海外ブランドのハンカチで包帯するようなものだ。兵の命の代わりと思わないと使えない金額だ。


 ちょっとだけ期待した一般販売は無理だな。まあ石鹸は日本では全然普及しなかった。本当に必要としたなら鉄砲よりも国産化は容易だったはずだ。


「……やはり費用の大半が油だな。領内で椿油の増産を図るか」


 椿油は日本で古来から髪油として珍重されてきた。こちらは増産しても売れる。いずれは広島の町の産業とも絡めていきたい。


「後は元至が石見から戻り次第ともに薬師への指導の仕方を考えてくれ。後は少しでも収量を上げるのが……。そういえばこの鍋の横の壺は何だ?」

「それは石鹸を作った時に固形にならなかったものです。念のために保存しておりました」


 指を付ける。ぬるぬるを集めたような感触だな。石鹸製造のあまり……もしかしたら。


「御屋形様!?」


 私が粘り気のある液体を舌に付ける。甘みがある。私は液体を吐き出し、口を洗いながら考える。


 油はグリセリンと脂肪酸がつながってできている。石鹸を作るときはこのつながりを切る。ちなみに人間が油を消化するときも脂肪酸とグリセリンに分解されて体内に吸収される。石鹸の成分となるのは脂肪酸の方だ。グリセリンは保湿効果を持つので現代の石鹸でも添加されているが洗浄成分ではない。


 私が必要としているのは美容じゃなくて衛生管理のための石鹸だ。つまり無駄ということ。ただグリセリンと聞くとどうしても連想するものがある。


 私は装備方の棚を見る。火薬の原料である硝石、硫黄。材料だけはそろっている。ダメもとでやってみるか。


「上手くいくかどうかわからんが、このぬめりを使って一つ試してほしいことがある。ただし、ごく少量だけ試すようにしてくれ」


 私は吉保にある物質についての指示を出した。

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