第八話 輝元出頭人Ⅰ

 天正十年八月末。呉鎮守府。


 草鞋から砂を叩き出して城への道を上る。太ももが痙攣するのがつらい。


 このように時々訓練生たちに交じっている。具体的な訓練メニューは就英に一任しているからこそ、自分自身で体感してみなければならない。


 もちろん護衛が付く。譜代家臣渡辺家の者だ。渡辺家は代々武勇の家で先祖は頼光四天王渡辺綱である。祖父の渡辺通は祖父元就にとって最大の敗戦である尼子との戦で、元就の身代わりとなって討ち死にした。


 訓練生の中に入ってみると、最初と同じ人間とは思えない。明らかに体つきががっしりとしてきた。やはり適量のタンパク質と運動は効く。身長はある一定時期を過ぎると伸びないが、筋肉は何歳からでも付く。


 何より一番大事な規律が出来てきている。鐘に従うので調練が順調だと就英からは聞いている。


 城門に入る前に振り返ると浜から小早船が押し出されようとしているのが見えた。これも予定よりも早い。


 呉城に入る。背後の山から火薬の弾ける音が聞こえてくる。将来の射撃訓練場で、吉田より呼び寄せた鉄砲衆が褐色火薬のテストをしている。最初は袋がへしゃげるような音だったのが少しづつ力強くなってきている。


 着実に進展しつつある鎮守府の様子に満足しながら本丸御殿に入る。御殿といっても呉城の規模に合わせて小さいものだ。


 執務室である書院に入ると、五人の家臣が一斉に私に振り向いた。全員が紙束を抱えている。


 彼らは私の側近だ。三つの政策が進む毛利国家で、元首たる私は海兵隊だけにかまけてはいられない。各プロジェクトの情報整理の為に鎮守府に側近を配した。


「御屋形様。ここまで鎮守府が使った費えをまとめました。……石見銀山とて打ち出の小槌ではございません」


 真面目そうな若い男が帳簿を差し出した。榎本元吉。元大内家の家臣でこの鎮守府の勘定方でもある。大内家は代々海外交易と四ヶ国の統治をおこなってきた関係上計数に明るいものが多い。


 海兵寮の建設費、訓練生たちの食費その他、注文した船と鉄砲の代金積み立て、そして褐色弾薬の試作費。大量の銀が流れていくさまがまとめられていた。厳格な元吉らしく一文もおろそかにせぬという気構えが見える。


「三百でこれでは、将来二千となれば到底足りませぬ。今のうちから費えのことを考える必要があるかと」


 二枚目に渡されたのは将来の出費予想だ。正直見たくない数字だ。


 金がかかるのは最初から承知だった。私が鎮守府のために用意した予算は石見銀山の運上の半分。石見銀山は世界の銀生産の四分の一を占めると言われる大銀山でその経済規模は十万石に迫る。十万石は二千人以上の兵を養える額だ。


 海兵隊の存在そのものが戦の費用の削減となることを想定している。国衆の反乱に迅速に対処、それをもって反乱を予防するだけで大きな軍費の削減になることを期待している。


 だがそれは将来の話だ。そもそもこれからの日ノ本統一にどれほどの戦が必要になるかを考えると……。


「洪水、地震いなどの災害時に海兵隊の第三組を派遣することとして、その代りに村々から段銭を徴収するしかないな」


 増税である。とはいえこれは領民たちにもメリットがある。


 現代の常備軍である自衛隊の災害出動と同じ役割だ。自衛隊にとって災害出動が国防に次ぐ第二の役割であることには理由がある。


 社会は食料生産、輸送、販売を中心とした多くの人間の日常の営みによって維持されている。一方、常備軍はこれらの経済活動に直接かかわらない。ある意味で余剰人員なのだ。


 だからこそ災害時にその存在は貴重なものになる。被災地の人たちは自分を守ること、良くても生活を立て直すことだけで精いっぱいだ。被災地以外の人たちはそれまで通り社会を維持する役割がある。


 例えば地震が起きて村の灌漑設備が潰れたとする。その村の食料生産が落ちる。ここで被災していない村から百姓が復旧の手伝いに出たらどうなるか。周辺の村の食料生産も落ちる。


 助け合いは必要だが共倒れのリスクがあり、全体としての回復が遅くなる。人員に余裕がない戦国時代ならなおさら深刻だ。


 平時の余剰人員である軍隊は、そういう時に動けるバッファーなのだ。社会に負担をかけることなく災害復旧に投入できる。


 それ以上に重要な理由が軍隊の持つ能力が災害現場において必要なそれと一致することだ。軍隊とは戦場で行動することを前提とした組織だ。


 戦場には通常の社会インフラも社会秩序も存在しない。災害という緊急状況はまさにこれと同じだ。交通が寸断されインフラが破壊された災害現場では警察や消防すら活動が制限される。その状況下で組織的に動けるのは軍隊ぐらいだ。


 自衛隊が災害派遣されていたのはそれが彼らにしか果たせない役割だからであって、決してついでにやっているわけではない。


「実際にそれを見せれば国衆や村も納得しましょうが……」

「確かに信用がなければな駄目だな。いきなり差し向けては略奪に来たと思われよう。いや下手をしたらそうなる。最初の三百が形になるまでは銀山から出すしかない」

「かしこまりました。将来に期待いたします」


 多少なりとも未来に希望を見出したのか、元吉の表情がわずかに緩んだ。


「榎本殿。次よろしいでしょうか」

「あっ。はい。申し訳ありません二宮様」

「いえいえ勘定は大事です。あと私のことは二宮殿で結構ですよ」


 恐縮した元吉に対して落ち着いた声で応じたのは二宮就辰だ。五人中一番年上の四十代で、家中の地位も一番高い。普段は広島で築城の目付をしているが定期的に報告に来てもらっている。ちなみになぜ元吉が“様”を付けたかと言うと実は祖父の隠し子、つまり私の叔父だからだ。


 毛利元就は七十まで子供を作った性豪でもある。一番下の叔父など孫の私よりも年下だ。


 それはともかく本来の歴史では就辰は広島築城奉行や総検地など難しい役目をしっかり果たしている。しかも温厚で篤実な人柄で血統を鼻にかけることは決してないのは今見た通り。


「実は築城に遅れが出始めておりまする」

「……一筋縄ではいかないとは思っているが、原因は?」


 就辰が差し出した予定と現状の差を見る。この時代の工期などあってなきが如きもの、現代でも巨大建造物など遅れて当たり前だった。だが初期段階で遅れ始めているというのは問題だ。


「奉行の児玉殿がたびたび現場を離れたり、遅参なさったりしております」

「あの厳格な元良がか。本人はなんといっている」

「新しいことばかりで思案しなければならないことが多いと。それ自体は尤もなことですが」


 確かに毛利にとって平城は新しいことが多い。私の知る広島城の構造に加え、秀吉が改築した姫路城の資料を播磨の元清から送らせたが、問題などいくらでも出てくるはずだ。


 史実では最低限の建設が終わるまでに二年、完成までにはさらに多くの年月がかかっている。


 何よりこの時代は委任が基本。この段階で文句を言ったら面目を潰すことになる。


「…………しばらくは様子を見るしかないな」

「分かりました。吉田の福原殿も含めよく注意してみておきます」

「お願いします叔父……就辰」


 二宮就辰が苦笑して下がった後、次に来たのは二十歳にも満たぬ若い男だ。船旅のせいですっかり日に焼けている。


「備前までご苦労だったな元慶」


 堅田元慶は五人の中では一番若く、元服して間もない。毛利が安芸に来る前からの古参粟屋家の庶子だが、小早川隆景に養子に望まれるほど才気煥発な若者だ。


 宇喜多攻め関係の連絡役を任せている。本来なら大任だが、名代として元春隆景に権限をゆだねているので本当の意味で連絡役だ。


 私は元慶から受け取った三通の書状を読む。山陰きたから美作を攻略中の元春、山陽にしから備前を攻撃中の隆景、そして播磨ひがしから両国の背後を脅かしている元清、三人の対宇喜多司令官からの報告だ。


 書状には攻略したり降伏した城と城主の名前がずらっと並んでいる。宇喜多傘下の国衆たちが次々と毛利に服している。特に宇喜多となじみの薄い美作は崩壊といっていい。吉川元春軍は既に占領統治に入っている。


 宇喜多本国である備前も本拠岡山城が落ち。瀬戸内海沿いの主要諸城も次々と下っている。秀家は叔父の忠家と共に天神山城に籠ってかろうじて抵抗している。天神山城は宇喜多の旧主浦上宗景の最後の拠点だった。皮肉と言うしかない。


 あの叔父たちに抜かりはないとは思っていても、万が一失敗したら広島築城や鎮守府どころではなくなるのでホッとする。


「元慶が見たところを聞きたい」

「はっ。お味方の勢いはとどまることを知らず。帰路、備前児島にて抵抗する城を見ましたがすぐに海に追い落とすかと」

「では聞くが。元慶のいま言った児島とは常山城のことだな」

「左様でございます」


 私は地図を広げる。備前国児島はその地名から分かるように岡山から瀬戸内海に飛び出た島だ。ちなみに現代では陸続きになっている。


「備前は備中の清水宗治を先鋒に小早川軍勢と、播磨の穂井田勢の挟み撃ちを受けた。宇喜多は山中の天神山城に追い詰められている」

「はい。御屋形様が姫路を落とした神算の一手でございまする」


 そういうことを聞いているんじゃないんだ。


「ではなぜ南にある常山城が未だ抵抗している。小早川水軍により備前の沿岸の諸城は次々に落城、あるいは降伏しておる中だ」


 私の見たところ、というか隆景の判断がそうなのだが、重要なのは常山城がまだ持ちこたえていることだ。


「それは…………」

「元慶が今申したこと中で常山城が未だ抵抗している、これは事実だ。そして常山城が早期に陥落するというのは元慶の考えだな」

「…………左様でございまする。すぐに落城などと某如きが僭越でございました」

「そうではない。じかに戦場を見た元慶が私に伝えることは役目だ。ただ、元慶自身が直接見たり感じたりした事実と、その事実を元にそなたがどう思案したかを分けて報告するのが大事なのだ」

「事実と某の思案でございまするか」

「そうだ。元慶が見た常山城の様子、今後常山城がどうなると考えたか、それをきちんと分けて文章にして私に提出してくれ」

「かしこまりました」


 人間の神経細胞はすべて繋がっているので、連想やイメージが得意だ。逆に分離することが苦手、そういう場合に役に立つのが文字、文章化だ。


 側近とは現場に行けない主の目であり、耳でもある。全ての情報をそのまま上げられたら、私は簡単にパンクする。それゆえに生の情報を正確に整理、かつ現地を見た者の判断を添える。単なる情報ではなく、ただの感想でもない。客観的事実とそこからの仮説、その両者の意識的な区別。これがインテリジェンスの基本原則だ。


 まだ若い元慶には将来鎮守府の情報参謀的な役割をこなしてもらいたい。


 後は隆景から畿内の情勢についてか……。期待通り光秀は旧織田勢力とバチバチにやり合っている。信雄だけというのは頼りないと思ったが関東から戻った滝川一益が補佐しているらしい。これは期待通り長引いてくれそうだ。


「オヤカタ様。石見銀山の視察、終わりマシタ」


 元慶が机にもどると、私の前に四人目が来た。イントネーションに癖があるこの男は、家中では張唐衛門尉と呼ばれている。私の側近の中でも異色の経歴の持ち主だ。

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