閑話 坂本城
天正十年七月末。近江。
琵琶湖の水面に浮かぶような長方形の秀麗な城郭は坂本城だ。
坂本は比叡山延暦寺の寺内町として発展した。莫大な経済力を誇った叡山と琵琶湖の水運に挟まれる立地から大いに繁栄した。信長の延暦寺焼き討ちにより坂本の町も大きな被害を受けたが、その後この地を与えられた明智光秀により復興されている。
そして現在は幕府管領代となった土岐光秀の居城だ。近江平定後に光秀は丹波亀山から元の居城である坂本に本拠を戻していた。
三方を湖水に囲まれた本丸の一階にある書院には光秀の宿老三人が集まっていた。
彼らの前には畿内を中心とした大地図が広げられ、地図の上にはすごろくのような円形の駒が置かれている。京を中心にした大名の勢力図だ。
山城、和泉、河内、大和、摂津という畿内五ヶ国はすべて土岐桔梗の青駒が配されている。加えてこの坂本を含む近江、明智本領である丹波、盟友の細川の丹後。そして北の若狭も青だ。
ただし地図の上にはいまだ無視できない数の
「まず織田当主を称する北畠信雄でございまするが、やはり滝川殿は老練」
上座の光秀に一礼して口を開いたのは宿老最年長の藤田行政。明智家に代々仕える譜代家臣で評定の幹事役を務める。
行政が指さしたのは伊勢、伊賀、志摩の三ヶ国を領する北畠信雄だ。長男信忠、三男信孝を討った今、信長の有力な息子はこの信雄のみである。
信雄は本能寺後に有効な行動はほとんどできなかった。安土城から脱出した信長の家族を保護したにとどまる。その間に光秀は近江を平定することが出来た。だが七月初めに関東から滝川一益がもどったことで状況が変わった。
一益は信雄の家老を務める娘婿の滝川雄利と連携して体勢を立て直し、信忠の死によって混乱する尾張南部に支配を広げた。そして先日織田家発祥の地と言うべき勝幡城で信雄に織田家の家督相続を宣言させたのだ。
「織田勢の中で最も強力なのは柴田。本能寺後に領国を守り切ったはかの猛将のみ。上杉から奪ったばかりの越中すら確保している。柴田の軍が南下すれば近江は危うい」
続いて発言したのは鬢に白髪が混じる年になっても精悍さを失わぬ男、明智秀満だ。光秀の娘婿であり勇将の名をほしいままにする。現在は北近江の小谷城に駐屯し北陸へ睨みを利かせている。
織田家宿老筆頭の柴田勝家は越前北ノ庄を中心に加賀、能登、越中、飛騨の五ヶ国を支配し配下にも佐々成政、前田利家、金森近永、蜂谷頼重など歴戦の副将を抱える。
「すなわち北の柴田と南の滝川の結合だけは断たねばならんということよ」
鬼瓦のような面貌の武将がだみ声を張り上げた。斎藤利三は美濃守護代を務めた斎藤家の人間で、彼の妹は四国の長宗我部元親の正室だ。現在は家中最大の兵力を任されている勇猛な将だ。現在美濃を攻略するために動いている。
ただ美濃は尾張に次ぐ織田家の本拠だ。信雄が勢いを回復させ、北の飛騨を通じて柴田勝家の干渉も強まる中で平定に苦戦していた。畿内周辺国を瞬く間に固めた土岐の勢いが美濃で止められているのが現状だ。
「秀満、小谷から美濃に兵を回せんか。美濃さえ押さえれば下流の尾張にも手が届く」
「小谷の兵が薄くなれば柴田の南下を誘う。北近江が落ちれば美濃の其方は背後を遮断されるぞ」
「しかしこのままでは埒があかん。乾坤一擲の覚悟があれば」
「柴田が其方の背後どころかこの坂本に向かったらどうする。博打に過ぎよう」
「これは難題。お二方の意見はいづれも尤もでござるが……」
宿老たちは膠着状態の地図を前に押し黙った。光秀の染みだらけの手が駒に延びたのはその時だった。
「大和の順慶に伊賀の地侍を調略させる」
土岐桔梗の青駒が置かれたのは京に隣接する小国伊賀だった。行政がはっとした顔になる。
「なるほど伊賀征服時の根切と信雄の苛政を考えれば地侍どもは次々と当方になびくは必定でございまするな」
「しかも伊賀から伊勢の津城を窺えば」
大きく頷いた行政。ぱん、と足を叩いたのが利三だ。
利三が指さしたのは南北に細長い伊勢の最も細い部分にある城だ。古来より知られた港で伊勢湾海運の中心地だ。もしここを制したなら伊勢は南北に分断される。南に本拠を置く信雄と北の一益が分断される。いや、その危険性を作っただけで信雄の動きが止まる。
「信雄を止めることが出来れば美濃平定は前進する。冬になり柴田が動けぬ間に某が加勢すれば」
秀満がいった。秀満と利三が土岐の最強の布陣だ。分裂状態にある美濃は制することが出来る。そうすれば尾張もまた彼らの手に落ちる。そうなれば滝川一益が戦上手でも織田信雄を殲滅できる。
織田家が消滅すれば勝家は前田、佐々といった副将を従える大義を失う。勝家の配下のほとんどは自身の家臣ではない。
「言われてみればまさにこれしかない一手でございまするな。感服いたしました殿」
行政が感嘆の声を上げる、宿老たちが一斉に主君を見た。
「さほどのことではない。故右府ならこうしたであろう」
「こほん。そうなるとやはり三河殿の甲信侵攻については認めざるを得ないということですな」
主の言葉に押し黙った三人。行政が話題を変える。徳川家康の名に宿老たちは苦虫を噛み潰した顔になった。先日届いた家康からの書状には「織田のことは宿老の方々がお決めになること。某は織田家との盟約通り東方を守りますゆえご安心を」と書いてあったのだ。
今回のことを織田家重臣間の争いとみなし自分は中立を保つという宣言である。朝廷より畿内静謐を命じられ幕府管領代となった土岐を認めぬ言い方だ。それだけならまだしも東方を守るといいながら本来織田領である甲斐、信濃を火事場泥棒しようとしている。
「しかし徳川殿が万一敵に回れば信雄と柴田は背後を固めたも同然。我らに同心しておる越後上杉だけでは止められませんぞ」
「ちっ。こうなると堺で打ち取れなかったのが悔やまれるわ」
「逆に言えば徳川が東方に目を向けている限り、我らは織田家に集中できる」
「確かに、今はそれをもって良しとするしかないでしょうな」
重臣たちが頷き合う。彼らの第一の敵は織田だ。徳川は織田家の傘下にすぎなかった大名だ。土岐が旧織田領を平定すればおのずと収まるべき所に収まる。
意見の一致の見た宿老たちは主君を見た。光秀は一度頷き宿老たちの意見を認めた後、彼らよりも一段下がった場所に座る男に声を掛けた。
「貞興。関東の北条と音信を深めよ」
「はっ。北条氏政、氏直親子に働きかけまする」
応えたのは伊勢貞興。幕府の名門伊勢家の人間で、光秀のもとで旧幕府衆をまとめる重臣だ。そして関東の北条氏はこの伊勢家の出である。当然音信を絶やしていない。
「なるほど、同じく甲斐信濃を狙う北条に牽制させれば三河殿とて簡単には行きませぬな」
宿老たちは主の判断の確かさに再び唸った。一手に二つも三つもの意味を込める軍略はまさに日ノ本を見渡すごとしだ。
宿老が任地にもどるために書院を辞していく。最後まで残っていた行政が光秀に頭を下げて去った。光秀は一階の書院から二階の自室に戻った。
京風の居間は教養人としても知られる光秀にふさわしい洗練された空間だ。だがそこにはうるさいほど多数の品々が並んでいた。壁に飾られているのは牧谿の絵、床の間に鎮座するは宋の白磁、棚には多くの茶器。光秀自身が腰に佩く鬼丸国綱。すべてが天下に聞こえた名物だ。
そのすべてはかつて安土城の天守にあったものだった。
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