第二話 鎮守府将軍
「公方様は本来京におられるべきお方。一刻も早いご帰洛は当然の義と存ずる。しかしながら……」
私は言葉を濁して背後の隆景を見た。
「恐れながら真木島殿にお尋ねしたき儀がございます」
「隆景苦しゅうない。直答を許す」
「恐縮千万。しからば副将軍と管領代どちらが公方様の股肱となりましょうや。かつての大内義興と細川高国のこともございます」
隆景の言葉に座の空気が一瞬で冷えた。
これまで幕府を保護してきた
「毛利は天下の副将軍。今後も決して粗略にせぬ」といって京に帰ったその日に光秀に「副将軍など名誉職にすぎん。管領代たるそなたこそ幕府の柱石じゃ」という感じ。これくらい平気で言えないと室町将軍なんて務まらない。
足利将軍は有力大名の乗り換えをやっていくのが仕事だ。そんなポストのためにバイタリティーを発揮できるのは現代感覚からしたら理解不能だが、彼にとっては代々の家業だ。
それを利用して私は欲しいポストを交渉をする。もちろん幕府ナンバーツーの地位じゃない。
「毛利は天下を競望せずというのが、祖父元就よりの家訓。ご帰洛される公方様の副将軍は確かに輝元には任が重うござる」
私の言葉に幕府の面々が期待の表情を向ける。
「とはいえ公方様のために戦ってきた家臣どもの忠義を考えれば、ただ明智殿の後塵を拝するは……」
自分じゃなくて家臣たちがね、分かるよねと言外に言う。幕府の面々は渋い顔になる。かつての名門だって、現地の家臣たちの機嫌を損なったら大変なことになることは知っている。
それを確認して私は芝居がかった仕草で手を打った。
「いかがでございましょう。輝元に鎮守府将軍への任官がかないますよう朝廷にご推挙いただけませんか。鎮守府将軍は武門の名誉でございますれば家臣たちも納得させることできるかと」
「鎮守府将軍か……伊勢どう思う」
「はっ。鎮守府将軍は朝廷の官でございますゆえ管領代との
長い三角髭を顎に蓄えた細身の中年男が言った。伊勢氏は代々幕府の政所執事、つまり文官のトップを歴任した一族。この手の武家故実の専門家だ。
「我が祖父元就は陸奥守に任じられておりまする。鎮守府将軍は陸奥守を兼任した前例は数多くございましょう」
「おお、なるほど。確かに鎮守府は本来は奥羽の鎮め、それならば帝もお許しになるかも知れませぬな」
伊勢は実務上の問題は解決可能と判断してくれた。
「ふむ、輝元のこれまでの忠義を考えればその願いをかなえるのも――」
「公方様お待ちあれ。副将軍が今後も幕府に忠義を尽くすなら鎮守府将軍は不吉ではございませんか」
「どういうことじゃ」
一色が文句をつけた。
「
流石名門。歴史をよく知っている。彼にとってはまさしく先祖が尊氏と共に室町幕府を作り上げた歴史だからな。
「恐れながら公方様は武家の棟梁である征夷大将軍にあらせられます。また御帰洛なされば朝廷の武官筆頭たる近衛大将に補任されるかと。鎮守府将軍は五位に過ぎません。一色殿のご懸念にある北畠顕家は鎮守府“大”将軍に任じられておりますが、輝元は大将軍などとうてい望みませぬ」
近衛大将は朝廷の武官最高位だ。三位だから堂々たる公卿であり、摂関家の当主も近衛大将を経て大臣、摂政関白と登っていく。
武家にとっても名誉で、源頼朝も右近衛大将となっている。ちなみにこの近衛大将の唐名が『幕府』だ。また室町将軍は征夷大将軍になった後、昇進を重ねて右近衛大将になるのが通例だ。
ちなみに織田信長も義昭追放後に右近衛大将に任官している。これは
「ふむ。道理にかなった願いかのう」
義昭はもう一度伊勢を見た。伊勢は頷いた。
要するに私の案は幕府は征夷大将軍足利義昭と管領代土岐光秀。朝廷は右近衛大将源義昭と鎮守府将軍大江輝元。という二重体制だ。そして
「当然朝廷には相応の
私の言葉に幕府衆が一斉に石谷頼辰を見た。頼辰は驚きを隠すのに失敗した。献金額まで知られているとはって感じだな。これは歴史知識だ。本能寺直後の光秀の行動なので私の歴史改変は影響していないはずなので、はったりを掛けた。
義昭の目が暗くなった。朝廷への大量献金という光秀の行動は警戒を引き起こすのは当然だ。朝廷と武士の間の周旋は室町将軍の権利であり、その権威の源だ。
光秀が無二の忠臣だなんて信じている人間はここにはいない。義昭が信長と手切れしたときに光秀は信長に付き、しかも幕府奉公衆を何人も信長側に引き込んだ。
一色家は丹後守護の家系。丹後は今光秀の盟友である細川藤孝の領地だ。武田元明が光秀と共に若狭を取り戻したら、元明とここの信秋で将来争いになるに決まってる。そして管領代の光秀がもし今後管領になったら畠山の
そして何より肝心の
朝廷を抑える光秀が義尋の征夷大将軍宣下を望んだら義昭は
信長は義昭の将軍位を奪わず、しかし義尋を手元に置いた。これは新しい将軍の誕生を阻止するためであり義昭の対抗馬にするためではない。だが光秀はそうではない新しい将軍でもいいのだ。いやむしろ新しい将軍の方が……。
「よかろう。余の名において輝元の鎮守府将軍補任を上奏しよう」
沈黙する幕閣。将軍の裁可が下った。
「ありがたき幸せ。輝元の面目これにて立ちましてございまする。公方様のご帰洛、この輝元全力で支えさせていただきまする」
「うむ、副将軍の忠義は帰洛後も決して忘れぬ。こんごも頼みにするぞ」
私はこれからしばらく日本の主権者になる男に首を垂れた。義昭はおもむろに立ち上がり庭から東を見た。早くも京の空を見ているのだろう。
私としても征夷大将軍として恥ずかしくない堂々たる帰洛をしてもらうつもりだ。義昭には京で室町将軍として相応しい仕事をしてほしいからだ。すなわち
光秀の勢力は確かに私の想定よりも大きい。だが光秀には信長を討ったという最大の弱点がある。忠義の話ではなく国家体制、いやもっと大きな歴史の流れの話だ。
室町幕府を否定した信長を光秀は否定した。結果として室町幕府を肯定するしかない。義昭との二重体制にならざるを得ないのだ。経年劣化した幕府という政治的不良債権を光秀には抱えてもらう。
旧来の社会システムと新しい社会システムは必ず深刻な相克を引き起こす。そうなると中央を押さえ、朝廷や寺社が絡むことも一気に負担になる。
その間に私は毛利を改革する。その為のカギが鎮守府将軍だ。鎮守府将軍は近衛大将や征夷大将軍よりもずっと下位。だが鎮守府の将軍である以上、開府の権利がある。
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