一章 鎮守府海兵隊設立

第一話 征夷大将軍

 天正十年六月二十四日。本能寺の変より二十二日後。備後国鞆。


 ともは瀬戸内海に面した港で古来より交通の要所だ。その鞆の海を臨む小高い丘に、五年前に建てられたばかりの屋敷がある。京風の小庭園が備わったこの屋敷は後世鞆幕府と呼ばれるだろう。


 私が元春、隆景と一緒に呼び出されたのは正真正銘の現役将軍の居館であり、つまり幕府だ。少なくとも律令ほう的にはそう言える。


 実情? 私は室町幕府副将軍の地位にある。それで分かるだろう。


「副将軍の播磨表での織田討伐大義、と公方様は仰せである」


 庭園を横に見る広間で、奥にある御簾の側に立つ男が私に言った。真木島昭光、将軍足利義昭の最側近だ。年齢は私よりも少し若いくらいで、常に真面目で真剣な目をしている。ここの連中の中では珍しく好感の持てる人物だ。


 義昭が信長と決定的に対立した『槙島城の戦い』で居城を提供した経緯から分かる通り忠誠心は強い。律義な働き者というだけでこの幕府では貴重な人間なのだ。


「自ら播磨表まで出張るとは、葉侍の如き行いとのそしりを免れぬのでは」


 義昭の右に座る恰好だけは立派な男達の一人が言った。この古式ゆかしい装束の太った男は畠山、隣でこれ見よがしに頷いたのが一色。名字から分かる通り両人とも足利一門である。その隣で鼻を鳴らしたのが武田信秋で、先年死んだ武田信実の子だ。


 この【信秋】は私の歴史知識にはないが、父信実は若狭武田家から養子として安芸武田家に入った人物だ。毛利に負けて逃げ出した。そして何の因果か将軍と一緒に居候として舞い戻ったのだ。


 父は毛利への恨みを表に出さない老獪さがあったが息子の方は……。


 とにかく彼らは名家だ。畠山は管領を出す三家の一つ。一色はそれに次ぐ四職の家柄。武田も含めてかつては数ヶ国の守護を兼ねた家。世が世なら守護の家来の守護代の家来である国衆毛利家なんか鼻にもかけない家格だ。


 義昭にとっては彼ら名門を従えることで、武家の棟梁としての体面を保ち、彼らは義昭と共に名家復活を夢見ている。ちなみにこの幕府にはそんなのが百人近くいるので、毛利家にとってはかなりの財政負担になっている。


 どうして毛利がこんな居候を養っているかといえば、信長包囲網の大義名分だった。「みんなで織田家を倒そう、リーダーは毛利」では誰も従わない。「将軍足利義昭様を奉じて幕府に背いた信長を討つ」なら多少は効果がある。


 人間が本能だけでは制御不可能な複雑で巨大な社会むれを作る生き物である以上、大義名分で秩序をから支える必要がある。


「副将軍は幕府にとって掛け替えのないお方。大物崩れのようなことになればと公方様は心配しておられる」


 真木島昭光が取り成すように言った。


「副将軍の働きにより我が帰洛に憂いなしじゃ。その功は大内義興に準じようぞ」


 御簾が開き、生きる大義名分、中世権威の生き残りが顔を出した。私は恐縮したように頭を下げた。義興に準ずるか。信長には「大内義興を越える」と言っただろうな。


 福々しい笑顔とは裏腹に私に注がれる眼光に油断はない。これまでの波乱の人生を思えばとんでもない苦労人だ。政治能力は歴代将軍の中でも上位だろう。何より不屈のバイタリティーの持ち主だ。


 信長により義昭が京を追放された時、毛利の対応は「絶対にこっちには来ないでね」だった。あの頃織田と毛利は同盟関係にあり、義昭受け入れは同盟決裂を意味する重大な外交マターだった。


 なのに予告もなしに勝手に来たのだ。その図太さには感心する。


 ちなみにその時の毛利と織田の折衝をしたのが恵瓊と秀吉で、例の恵瓊の「信長はいずれ滅びる、秀吉はさりとてはのもの」はそこで出た。


「しかし叛臣信長を討ったのは公方様のご采配に従った明智。我が一族元明も若狭を織田から取り戻すため働いておる」


 武田信秋が言った。公方も昭光も都合よく黙った。こうやって見ると、各人が各人の役割を果たしてる。記憶を取り戻す前はこう言ったやり取りは当たり前だと思っていたが最近はやたらと煩わしく感じる。


 気を付けなければ、これからの交渉は大事だ。


「公方様のご深謀、輝元驚嘆の至りでございます。それでそちらにおられるのがその明智殿の」

「お初にお目にかかりまする右馬頭さま。土岐家臣石谷頼辰いしがいよりときでございます」


 石谷頼辰、桔梗紋を付けたこの男が今回私たちが呼び出された理由だ。歴史的には本能寺の変の原因の一つ【四国説】の重要人物として知られる。明智光秀、長宗我部元親、足利義昭を結びつけるキーマンだ。


 四国説とは本能寺の変の原因が四国にあったというもの。四国の長宗我部元親と織田信長はもともとは三好を挟み撃ちにする同盟関係だった。元親の嫡男は親というが、これは長の偏諱だ。だが三好が弱体化して長宗我部が四国を制覇する勢いになると信長は手のひらを返して長宗我部討伐を言い出した。


 この四国政策の大転換によって一番割を食ったのが光秀だ。光秀は織田家における元親の取次役だった。取次役とはただの連絡窓口ではない。織田長宗我部の軍事同盟に責任を負う立場だ。


 その光秀と元親をつないでいたのが石谷頼辰だ。頼辰は土岐氏の流れでもと幕府奉公衆。つまり光秀の同族で元同僚だ。さらに光秀の重臣斎藤利三の兄であり、長宗我部元親の正室が石谷家の娘。


 もちろん義昭がこのラインを通じて光秀に本能寺の変を起こさせたというはあり得ない。


 毛利家にとってそうであったように義昭と元親にとっても本能寺の変は青天の霹靂だったはずだ。実際史実では山崎の合戦に長宗我部は全く寄与していない。もし中国の毛利、四国の長宗我部と近畿の明智光秀が義昭を通じて連携したなら、光秀が三日天下で終わるはずがない。私が転生者じゃなくても秀吉は三者により殲滅されている。


 そもそも光秀と義昭が手を結ぶのにわざわざ長宗我部を介する必要はない。光秀の配下には鞆幕府の面々とつながる旧幕府衆がいくらでもいたのだ。石谷頼辰自身が義昭の旧臣だ。


 光秀はあくまで自分の将来を危ぶんでおり、京が軍事的な空白になった千載一遇のチャンスに飛びついた。四国のことはその要因の一つだろう。そして今、後付けの大義名分として将軍をいただこうとしている。


「まずは畿内のことを説明させていただきまする。朝廷から畿内静謐の命を受けた光秀は筒井、細川、中川、そして高山を率いて神戸信孝と丹羽長秀を摂津で討ち果たしました。大阪の池田恒興は未だ抵抗しておりますが時間の問題。また近江は京極、若狭は武田が旧領回復の兵をあげており、美濃においても我が斎藤一族が…………」


 石谷頼辰が上方の状況を説明する。


 畿内の勢力図はやはり激変していた。大和の筒井、丹後の細川親子、摂津の中川、高山という明智と親しい大名はことごとく光秀に従ったようだ。


 つまり現在の光秀は近江坂本と丹波という本領のほかに、山城と近江をほぼ抑え。丹後の細川、大和の筒井が従属化にある。丹羽長秀を討ったということで若狭は制圧するだろう。近江もほぼ手中に収めている。


 残った織田家の人間は伊勢、伊賀の北畠信雄と北陸の柴田勝家くらいだ。


 勝ち馬に乗りたい者たちと旧勢力の混合であるから、脆いというのは間違いないが、ここまで早く畿内てんかを押さたのは正直予想外だ。


「主光秀は一刻も早い公方様の御帰洛を願っております。すでに二条城の修復を進めておりまする。そして義尋様もお待ちです」


 頼辰はそういって説明を終えた。


「光秀は勅許により土岐の名乗りを認められたそうじゃ。余としては光秀に土岐家家督を認め、管領に任じようと思っておる」


 義昭がこちらに身を乗り出すようにして言った。彼も、彼に従う者たちも一刻も早く京に帰りたい、いや何が何でも帰る必要がある。室町将軍は京都しゅとの利権で食ってる存在だ。そして将軍が持つ唯一の力であるは京にいるかいないかで全く違う。


 実は利害は一致していて。私も金食い虫にはとっとと帰ってほしい。仮とはいえ御所である以上庭の一つも作ってくれと言われた時は、かつての輝元わたしも切れそうになったくらいだ。


 何よりこの巨大な政治的不良債権を一刻も早く光秀に受け取ってほしい。今すぐにでも帰りの船を仕立てて差し上げたいくらいだ。


 だがその前に一つ手に入れなければならないものがある。私はここに来る途中で見た前世の生まれ故郷、そして終焉の地を思い出しながら口を開く。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る