エピローグ 中国覇者の正体

天正十年六月十六日。本能寺の変から二週間後、安芸国吉田郡山城。


「播磨表の戦における吉川少輔次郎元長の軍忠比類なきを……」


 広間に並ぶ諸将の間を、感状を捧げ持った元長が下がった。ちなみに紙はこうぞを漉いた和紙で、米粉を練り込んでいる上等なものだ。かなり高価で、前世の感覚的には一枚一万円くらいする。


 武士にとって感状が持つ重要性を考えれば納得の価格ともいえる。


 この時代の人事評価は軍忠状と感状のセットになる。軍忠状は家臣から提出されるもので「私はこれこれの合戦に出陣して、これだけの敵を討って、配下の兵がこれだけ死んだり負傷しました」ということを書いてある。主君側はそれを確認して間違いないと署名する。


 そして大きな勲功のあった家臣に特にその軍功を認定したものが感状だ。


 当然単なる賞状ではなく、年何百万円の経済価値を生み出す土地の権利、県知事(代理)クラスの職位、あるいは日本有数の大企業である毛利の重役職などに繋がる。


 普通はこういう授与式のようなことはしないのだが、織田との戦に勝利した祝宴のセレモニーとして、重だった者に絞って実施した。まずは播磨夢前川合戦の三名。児玉就英、吉川元長、乃美宗勝。


 最大の功績を上げたのは羽柴秀吉を討った吉川元長。その次が元長と同時に本陣を突いた乃美宗勝と、羽柴軍前衛の攻撃から本陣を守り切った児玉就英。彼らにはそれぞれ三百貫と百貫、さらに元長には太刀、就英と宗勝には馬が与えられる。


 三百貫の加増がどれくらいの価値かと言うと、一貫が千文、一文が現代の百円とざっくり計算すると、現代の金額で大体三千万円の生産高が得られるということになる。石高に直せばざっくり三倍として、九百石くらいか。太刀や馬は車一台くらいの価値がある。


 後の天下人を討ったにしては桁が一つ二つ違うわけだが、そんなことは誰も知らない。あくまで織田家の方面軍司令官を討った功績だ。


 というより一門を除けば重臣級でも二万石に届かない毛利家で、一万石加増したら組織バランスがぐちゃぐちゃになってしまう。


 毛利本家の譜代筆頭格の児玉家の就英、吉川元春の息子元長、乃美宗勝は小早川隆景の重臣だ。あの時動ける最精鋭を集めたのだが、結果としてバランス人事になったのは幸いだった。


 ちなみに乃美宗勝は小早川庶家だが、毛利本家からも知行を与えられた本家家臣でもある。小早川家に入った隆景の補佐に、もともとの小早川家の有力一門を付け家老にした感じ。毛利本家からも知行きゅうりょうを与えられるのは隆景を頼むだけでなく、本家の家臣でもあるんだから隆景あるじがおかしなことを考えたら直接報告して来い、という意味だ。


 これだけで我が家の複雑さが解るだろう。それでも彼らはまだギリギリ家の中の人間だ。次に表彰されるのは外様だ。


「清水宗治には高松城周辺の旧上原領を与える。さらに今後は毛氈鞍覆と白傘袋の使用を許す」


 備中高松城を守り抜いた清水宗治。備中高松城周辺の知行千貫、大体三千石弱の加増だ。彼の加増が多いのは、今後の地位にふさわしい身代が今後必要になること、要するに経費の先渡しという側面があるからだ。


 毛氈鞍覆と白傘袋は守護代クラスの武士にしか許されない格式だ。宗治は毛利の下で備中一国の旗頭として認められたということ。ちなみに厳密に言えば与えたのは鞆にいる足利義昭しょうぐんだ。


 今後活躍してもらわなければならない宗治を二階級特進させなければいけないが、外様の彼をいきなり重臣に引き上げると家中の嫉妬が渦巻くので、将軍様が毛利の序列を無視してやらかした、という形を取った。


 これで今回の論功行賞は終わりだ。だが、私の手にはもう一枚の発給文書がある。いわゆる官途状と呼ばれる文書だ。


「吉川経安前へ」


 白髪の老人が前に出た。鳥取城で切腹した吉川経家の父親だ。私は自らの手で老人に官途状を渡す。


「公方様を通じて朝廷より経家に因幡守の追贈を奏請した。今後、石見吉川家に因幡守の受領名を許す」

「ありがたき幸せにございまする。泉下の経家が武門の誉れ、立ちましてございまする」


 老人は感極まったという態度で官途状を押し頂く。彼の孫、要するに経家の子は元服後に吉川因幡守家と呼ばれるようになる。


 故経家の因幡守は追贈とはいえ朝廷から正式に下される官位だ。一方、官途名の因幡守は私が家中ではそう名乗っていいよ、というだけ。


 吉川経家は毛利家のために因幡鳥取城で奮闘し死んだが、純軍事的に言えば敗将である。ゆえに合戦で敵将を討った元長ら、城を守り切った清水宗治と同列にはおけない。


 だが彼の死は毛利家にとって極めて大きな政治的資産だ。安芸から遠い因幡の地で現地の国衆と共に戦い、その代表として切腹した。これは毛利が傘下国衆を命がけで守る姿勢を示したことを意味する。


 今後毛利が因幡を取り戻すときに大きく効いてくるのだ。国衆が毛利に従うのはあくまで自分の領地を守ってもらうため、確実に守ることなど誰もできないので、姿勢を示したことは大きな意味を持つ。


 高天神城が徳川家康に攻められた時、これを示せなかった武田勝頼は求心力を失い、崩壊に近い武田家滅亡に繋がった。仮に敗れても援軍を出していればもう少しましな最後だったかもしれない。





「いや。めでたい。実にめでたい」

「まこと、これで毛利のお家も安泰」


 戦勝祝いが始まった。一時は滅亡かという状況からの逆転勝利。毛利国家の中で立場の異なる家臣たちが総じて笑顔になっている。


 実際には本能寺の変がもたらした棚ぼたでも、連年毛利家を苦しめた秀吉を討ったことで完全に勝った雰囲気だ。ただし、それを決めた私の評価はと言えば……。


「御屋形様、こたびは誠によう成されましたな」


 私の杯に酒を継ぎながらそういった老人は福原貞俊、毛利本家の宿老筆頭だ。


「これこれ福原殿、よう成されたとはお言葉がちと」

「これはしたり桂殿。幸鶴丸さまのころから知っておるゆえついな」


 隣の桂広繁の突込みにも貞俊は悪びれない。福原家は毛利庶家の筆頭だ。元春隆景と並んで元就からまごを託された最重臣で、毛利本家を差配する立場だ。二人の叔父が他家に入っているのに対して毛利本家重役という立場。


 いわば本社重役と有力子会社社長みたいな関係があって、さらに両方ともコングロマリット全体の重役会議メンバー、みたいなことになる。


「すべて日頼様の御遺徳である。儂など本陣で突っ立っておっただけ。刀も抜いておらん」


 私がそういうと貞俊はうんうんと頷いたあと「いやいや、これで十二ヶ国の主でございます。泉下の日頼様もお喜びでございますぞ」ととってつけたように言った。


「主が刀を抜くようでは戦は負けでござるぞ。そもそも播磨まで御自らというのはいささか軽率でございまするぞ」


 もう一人老人が会話に入ってきた。児玉就方、譜代家臣で宿老に次ぐ奉行職にある重臣だ。そして就英の父親。安芸武田水軍を毛利直属川ノ内警固衆に再編したのはこの男の功績だ。川ノ内警固の指揮は息子就英に譲っているが今でも草津城主として重きをなす。


「本陣は就英が守っておったのだ。大事などあろうはずもない」


 ちなみに児玉一族は多く、就方と就英親子は武の代表と言ったところだ。ちなみに文の児玉元良はこちらに近づいてこない。ロリコンのこと大嫌いだから。


「御屋形様。此度の御恩、清水家は末代まで忘れませぬ」

「おお清水殿。此度の働きまことにお見事。備中の水は冷たかったであろうに」


 会話が途切れたのを見計らって私の前に大柄な男が膝をついた。賞賛とも皮肉ともとれる福原の言葉に如才なく笑うのは清水宗治だ。備中高松城を死守した忠臣に対する福原、児玉の目は決して温かくはない。外様の宗治がいきなり守護代格、重臣に列したことへの警戒感だ。


「今後の備前美作の仕置きのこともある。宗治のことは今後も頼みにするぞ」

「はっ。我ら備中の者は宇喜多とは長年の因縁がございますゆえ。ご下知次第先陣を務めさせていただきたく」


 私は宗治の言葉に「良い覚悟だ」というと「いささか飲みすぎたゆえ酔いを醒ます」と福原と児玉にいって一人縁側へと向かった。


 縁側に向かう途中に元春、隆景の両人が自分の管理下にある国衆や自家の家臣、そして同僚に酒を注いで回っているのが見えた。




 六月の風に頭を冷やす。酔いなどとっくに冷めている。毛利家一門、譜代家臣、そして外様の心温まる関係によって。


 確かに今回の戦いの勝利は大きい。


 秀吉の首を掲げて奪取した姫路城には叔父の穂井田元清を入れた。毛利元就の四男で忠勇を兼ね備えた良将だ。山陽道担当の小早川隆景との関係も良く、人格も信頼できるので傘下に組み入れる播磨の国衆を安心して任せられる。羽柴の残党は秀長を中心に但馬に逃れた。


 村上武吉は海戦で破った塩飽衆から塩飽島を占領した。淡路までの瀬戸内海の制海権は毛利にもどった。それが海賊に依存していることは頭の痛い問題とはいえ、当面はおそらく大丈夫だ。


 備前美作の宇喜多家は五十万石という大勢力だが、それを一代で築き上げた梟雄直家はすでになく、現当主秀家は幼い。そして後見人である秀吉はもういない。


 仮に今押さえている播磨姫路で線を引いても播磨半国二十五万石、備前美作五十万石、因幡二十万石くらいは見えている。今ある長門、周防、安芸、石見、出雲、備後、備中、おまけに壱岐。中国十二ヶ国、少なく見積もっても二百万石超が手の届くところにあるのだ。


 だが二つ大問題がある。


 一つ目は今回の歴史改変で毛利と同じくらい得をする可能性のある大名が存在することだ。明智光秀ではない。光秀相手には対策がある。問題は徳川家康だ。戦国時代の最終勝者。


 私が能力的に神君に勝てる道理はない。関ヶ原ではほぼ何もさせてもらっていない。二人の叔父がいなければ倍の兵力でも負ける。私が秀吉を討てたのはのおかげだ。


 もうお告げは使えない。


 私が勝つには個人ではなく組織力で圧倒する必要がある。だが毛利という組織の実態は今見たとおりだ。


 一族や譜代はこれまで通りの毛利家を望んでいるし、外様たちは自分達の独立性を犯されるのを何より嫌う。江戸時代の鉢植え大名と違って、彼らは地付きの豪族。領地は毛利家から与えたものではなく先祖代々受け継いだものだ。


 しかも彼らの多くが元就そふと共に中国の覇者毛利を築き上げた実績と経験を持つ有能な者たちなのだ。


 まさに天下を競望するのぞむのは無理な組織だ。


 だが私は毛利による日本統一、いやそれ以上を望むことを決めた。その為には毛利国家の組織改革は必須、いやむしろ目的と言ってもいい。


 その為に私は本来天下を取るべき男を討ったのだから。







序章完


次章 鎮守府海兵隊設立

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