第五話 播磨夢前川の合戦Ⅱ 訓令戦術

 戦場の霧によってほとんどの情報が不明。これは誰にも破れない絶対の原理だ。そして司令官は方針を立てなければいけない。


 その手順は明確に決まっている。まずは戦争の目的だ。クラウゼヴィッツの言う通り『戦争とは異なる手段を持って継続される政治に他ならない』。戦争は目的を達成するための手段ということ。物騒な言葉だがこれは現代の文民統制にもつながる重要な概念だ。


 戦国時代という文字通り戦争が常態化した時代、そして武装勢力といえる戦国大名にとってもそれは変わらない。そして毛利の国家元首である私は、それを決めることが出来る立場にあり、その責任を持つ。


 この戦争の目的とは何か。毛利家の体制を抜本的に変革するための時間的、空間的なバッファーを確保することだ。秀吉という政治と軍事の天才によって極めて短期間に成立する強力な中央とよとみ政権を成立させないこと。


 だから秀吉を討つ。秀吉を討てば京都を抑えるのは光秀だ。信長を討った光秀は大義として将軍をいただくしか選択肢はなく、将軍は現在毛利が備後の鞆で養っている。


 いびつな二頭体制になる明智政権は良くても織田の前の三好政権がせいぜいだ。結果として私が毛利国家を改革するための時間が得られる。


 仮にここで撤退すればどうなる。秀吉に一撃与えただけで天下取りを防げるか? 運が良ければこの一撃が歴史の歯車を光秀有利に持っていくかもしれない。だがそうならなかったら?


 もし最終的な上方の勝者が秀吉になったら、怒りに燃える秀吉は毛利家の存続を許さないだろう。史実よりもはるかに悲惨な運命だ。今まさに実感している秀吉の実力を考えたらなおさらだ。つまりここで秀吉を討たなければならない、少なくとも敗北させる必要がある。


 戦争というのは現実だ、それがどれだけ重要な目標でも軍事的に達成可能な範囲内になければならない。この状況下で秀吉を倒すことが今の毛利軍が軍事的に達成可能な目標か?


 正直言えば不可能に思える。だが私は霧の中にいる。不完全な情報の中で、分かることを積み重ねてもう一度考える必要がある。


 疲労の極みにある羽柴軍を奇襲したという戦略的優位性は存在していたはずなのだ。秀吉が備中から陣を引いたのは二日前、二日でここまで行軍すること自体が軍事的には限界スピードだ。秀吉が神がかった名将であり、秀長がそれにふさわしい前衛大将であってもそれは変わらない事実のはずだ。


 備中から二日掛けた強行軍の後、奇襲に対応しつつ隊形を整えることが出来きて、さらに攻勢に出る。そんな人間集団ぐんたいが本当に存在するのか?


 あの硝煙きりの向こうに本当にそんなものがあるなら、私はもう撤退すらできないところまで追いつめられている。敵の兵力は一万近く、今も増えているはずだ。


 シンプルに考えろ。誰でもわかる常識だけをベースに霧の向こうを見る。秀吉が率いているのは生身の人間だ。二日間の強行軍、それも信長初め織田家首脳陣がクーデーターで壊滅、これからどうなるのかという極度のストレスの中。


 そんな人間集団が一万人まとまって存在するわけがない。


 なら今こちらに攻め込んできている羽柴軍は何だ? 答えは秀吉軍の中でも選りすぐり。つまりごく一部だ。


 ああなるほど、そういうことか。


「就英。敵の前衛を本陣に引き付けたとして耐えることは可能か」

「弾丸や焙烙玉が尽きたと思わせれば敵はこちらに近づきます。そこに一撃浴びせてひるませる。これを繰り返せばなんとか」

「わかった。では川上の元長と川下の宗勝に以下のように伝えよ。本営が羽柴秀長の攻撃を惹きつける。その間に羽柴本陣を突けと。方法はすべて両人に任せる」


 あの霧の奥にある敵本陣をどうこうする戦術なんて私には思いつかない。それこそ戦場の霧の奥深くだ。だが霧の奥に踏み込みこんだ部隊指揮官にとっては別だ。だから総司令官は大きな目標だけを決め、実現のための手段は現場指揮官に委ねる。


 これが訓令戦術という概念だ。戦場が霧の中にあるという冷徹な現実に対する軍事学上の答え。


 皮肉にも戦国大名にすらなり切っていない我が毛利家はこの訓令戦術を実行するとことに限って言えば日本有数の軍隊だ。元長、宗勝にとって自分の部隊は文字通り手足そのもの。何より戦場の霧の中で目的達成のためにどう動くべきかを熟知している。


「本隊を川ぎりぎりまで下げ、残った小早で側面を固める。敵の攻勢に対して一歩も引くな。鉄砲一の組はそのまま近づいてくる敵を牽制。二の組は準備に集中せよ」


 就英の指示で本陣の将兵が一気に動いた。川に残った小早船があげられ左右に新しい陣地が構築される。同時に鉄砲兵の半分が銃の清掃と弾薬の準備に取り掛かる。


 薄れた硝煙の向こうから敵兵が近づいてくる。飛んでくる鉛玉が数を増す。本当に守り切れるのか不安になる。だが就英が戦場の霧の中で本陣を守るためにした判断だ、私に出来ることはそれを信じることだけ。





 羽柴軍本陣。


 そこは混乱の中で秩序を生み出そうとする機関とかしていた。後方からばらばらに到着する兵と、前方から足を引きづって戻ってくる兵たちの間を若き武将たちが駆けまわる。


「佐吉、後方から追いついてくる人数の収容は進んでおるか」

「新たに二百ほど着到いたしました。生駒隊でござる」


 右腕を薬師に突き出した秀吉の言葉に石田三成が答えた。


「これを使って言うことを聞かせよ。姫路到着の知には、倍与えるといえ」


 秀吉は左手に掴んだ黄金の粒を三成に手渡す。三成は「かしこまりました」と押し頂き後方に走る。


「且元。虎之助の隊を秀長陣より引かせ本陣で休ませよ。代わりに一柳隊の残存に今到着した人数を加えて後詰として送れ。指揮は脇坂安治じんないじゃ」

「はっ」


 片桐且元が跳ねるように駆けだした。


「鉛玉を受けるなど何年振りかのう。だがまだまだ我が運は尽きておらぬな。海路から我らを突くはあっぱれな軍略じゃったが、詰めが甘い。第一射後にしゃにむに攻めかかってくれば儂の首は既に落ちておろうに」

「確かに待ち構える毛利の旗を見た時は敵に天からの目でもついているのかと驚かされました。…………お見事な采配でございまする」


 秀吉は布で血止めが終わった腕を陣羽織に通しながら隣に控える官兵衛に言った。官兵衛は少し考えた後首肯した。奇襲に混乱する大軍の中から、将の資質や忠誠心を元に、戦えるものを選び出した采配は神がかったものだった。ただ……。


「なんじゃ。やはり奇襲を受けた時引くべきじゃったというのか」

「殿は総大将でござりますれば。敵の兵数もわからなかったのですから、博打でございましたぞ」

「そうじゃな。じゃが毛利が敵になった以上は当主の首を取って帳尻を合わせねばならぬであろう。光秀を討ち天下に上れと言ったは官兵衛じゃぞ」

「これはしたり」


 近習に鎧を付けさせながら、秀吉は己が軍師をからかう余裕を見せた。その時、前後から同時に母衣武者が駆けてきた。


「蜂須賀殿、あと四半刻で到着とのことでございまする」

秀長みののかみ様、敵の弾薬も尽きてきたゆえ前進すると」

「ほれ見よ、賭けに勝ったわ」


 最後尾を守らせていた古参武将と信頼する弟の期待通りの動きに秀吉は我が意を得たりと頷く。官兵衛も「これでご勝利間違いございませんな」と認めた。


「とはいえ、この戦の疲れはいやさねばならぬな」

「はい。姫路にて二日は軍を休ませる必要がございましょう。その間は調略にお力を入れください」

「この腕でも筆は持てるか。どうせ花押を記すだけじゃからな」

「恐れながら信孝様はもちろん丹羽様、池田殿への書状は御直筆が望ましいかと」

「官兵衛は相変わらずよ、はははははっ」


 秀吉の笑い声が轟音に消されたのはその時だった。幔幕を貫いた銃弾が秀吉に鎧を着させたばかりの近習を貫いた。


「て、敵の横槍でございます。旗印は吉川と乃美。左右から同時!!」


 北の森を踏破した吉川元長隊、梅雨の残りで拡張した夢前川支流を小早船で進んだ乃美隊。その二つが南北から同時に本陣に突撃してきたのだ。疲労困憊した軍勢の再編成中だった秀吉本陣は、必勝態勢を整えようとしたまさにその瞬間に崩壊した。


「もうだめだがや」

「あきらめるのは早うござるぞ。秀長様と合流して但馬まで退路を開けば」

「だめだがや。もうだめだがや」

「誰ぞ、羽柴様の馬を――」

「もう我が手で大殿の仇はうてんのだがや」

「羽柴……さま……?」


 秀吉の目は毛利てきじんのはるか東、京の光秀を見ていた。


 官兵衛は唖然とした。己と主の目標が全くかみ合っていなかったことを悟った。彼は無言で秀吉に一礼すると自分の馬にまたがった。


 官兵衛の離脱と同時に、陣幕を押し倒して毛利軍がなだれ込んできた。秀吉の旗本が次々と倒れる中、最も立派な甲冑を着た武将が秀吉に対して槍を構えた。


「羽柴筑前守殿とお見受けいたす。毛利家一門衆吉川元春が嫡男元長。御首頂戴仕る」

「ほう、そなたがあの元春の息子か。惜しいのう。我に利あらば父ともども召し使ってやったものを」

「御免っ」


 天正十年六月八日、本来の歴史なら山崎の合戦の五日前の午前。羽柴秀吉、のちの天下人豊臣秀吉は志半ばで倒れた。織田家を滅ぼした者ではなく信長の忠臣として生涯を閉じたことが彼にとって幸せだったかどうか、


 その答えは戦場の霧の中に消えた。

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