閑話 立志伝
「墨俣築城またも失敗とは真か、藤吉郎」
「申し訳ありません。資材を川道で運ぼうとしたところ野武士どもに奪わ――っ」
「田分け者がっ!!」
板間に額を擦り付けて詫びる儂の頭に投げつけられた扇子が当たる。前回欄干に叩きつけられたのと同じ場所だ。まだ残っている青あざが痛む。
それでもただただひたすら頭を下げ、信長様の気が収まるのを待つ。やがて、床の間をぐるぐると歩き回っていた足が止まった。
「次の手立てを申せ」
「はっ。ここは一旦東に目を向けるべきかと。東美濃の松倉城主坪内および鵜沼の大沢は軍役の増加に対して不満を高めているとのこと」
「……その者らは確かに
「此度の墨俣築城を邪魔しました蜂須賀党からでございまする」
「はははっ。転んでもただでは起きぬは藤吉郎らしいわ。やってみよ。東美濃衆取次の朱印を与える」
信長様は面白そうに笑った。先ほどの剣幕は嘘のようだ。家中、とくに譜代の方々は信長様の癇癪を苦手とされている方々も多い。だが、頭の痛みなど何ほどのこともない。
この方は失敗しても挽回の機会を下さる。我のような低い出自のものであっても。
だからこそ儂も西国攻めの大将にまで…………。
「……さま。……柴さま」
「大殿、必ずや藤吉郎めが中国を大殿の御手に……」
「羽柴様」
「んっ…………ぁ、ああ。官兵衛か。…………そうか儂は眠っておったか」
備前よりひたすら気を張っていた頭が重い。ついさっき朝だとおもったら、すでに日が上がっている。
「申し訳ございません。お疲れのところ」
「何を言うか、馬上の我が眠っておれば
官兵衛の目に秀吉は己が表情を察し、一瞬で顔を緩めて褒めた。
「恐れ入りまする」
「それで、どうなっておる」
「はっ、姫路まであと一刻ほどでございます。先ほど備中に残した木下殿からの早馬が届き、毛利は間違いなく兵を引いたとのこと。また淡路の仙谷殿より長宗我部の動きはまだないと。ご舎弟の
起き抜けの頭に大量の情勢が襲い掛かる。竹中半兵衛亡き後、この官兵衛を得られたは天の配剤であるが、もう少し……。いや、天地がひっくり返ったこの状況では己が企画に酔っておるくらいの方が頼りになるか。
細川が動かぬくらいなら、やはり光秀に従うものは多くない。ならばとにかく
せめて信忠様が逃げ延びられておれば……。
上様は御子息に甘かったが、それに甘えぬ気概を信忠様は持っておられた。武田攻めにて証明された。だがそれゆえに織田家当主として京を落ちることが出来なかったのであろう。
残るは次男の北畠信雄様、三男の神戸信孝様。信雄様は伊賀を勝手に攻めて敗北。大殿より大軍を与えられて何とか挽回したが二ヶ国の統治に苦労成される有様。信孝様は此度の四国攻めの大将を仰せつかった。才はあられる。
だが信雄様を差し置いてはのちの織田家の分裂。大殿が築いた天下布武もこれまでとなる。毛利、上杉、北条などが隙をついてくるは必定。
それに何よりも三河殿。あの御仁がもしも織田家の檻から出るようなことがあれば…………。
考えることが多すぎる。大殿が道を決めてくださればかような苦労はなかったものを。
「士卒どもには天下への道と触れ回っておりますれば、士気は未だ衰えず。むしろ羽柴様を執権の座に押し上げんとしております」
「……さようか。流石官兵衛は才気ものじゃ」
訳知り顔の隣の男が煩わしく感じた。
執権、織田家の執権であろうな。まさか天下の執権などと。
……じゃが信雄様信孝様のどちらが織田家を継いでも、お二方の御家来衆が我ら織田家の宿老をないがしろに……。となると大殿の御嫡孫たる三法師君を我ら織田家宿老が支える形の方が……。しかしそうなると今度は柴田殿との…………。
いや、今考えるはこれからの光秀めとの戦のことのみじゃ。それに勝ちさえすれば後のことなど何とでもなる……。
「毛利との交渉もみごとじゃった。官兵衛の前では十ヶ国太守も形無しよな」
「小早川殿が話の通じる方で助かりましてございます。強硬な吉川を抑えてくださりました」
官兵衛は馬上で片足を叩いて見せた。荒木殿を説得に行った時、話が通じず押し込められた失敗の跡だ。たまにはそうやってかわいげがある所を見せておけ。
毛利の当主輝元は此度の戦でも備中入りすらしなかったうつけであるが小早川隆景、あれはなかなかのもの。懐に入れた恵瓊が宗治の説得に失敗して切られたは惜しかったが……。
「官兵衛……隆景はなぜ和睦文章に大殿の名前を入れることにこだわった」
「向こうが形だけとはいえ当主の名をもってでしょうから。何しろ毛利輝元は幕府副将軍ということになっておりますからな。毛利が限界であったこと、間違いございません」
「そうよのう。今の毛利に足守川を越え宇喜多を抜くなど出来るはずもない。うむ姫路入りを急ぐよう…………」
その時、向かい風が顔を撫でた。前方から何か危険な香りがしたような気がした。
「殿?」
「官兵衛、すぐに清正に止まるように言え。前方に物見を――がっ」
秀吉は反射的に手綱を引き叫んだ。
後に天下人になるはずの男を弾丸が襲ったのはその時だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます