【探偵推理短編小説】時雨の洋館と失われた蒼穹

藍埜佑(あいのたすく)

【探偵推理短編小説】時雨の洋館と失われた蒼穹

第一章:断絶された記憶


 昭和と大正の狭間、文明開化の香り残る帝都の片隅で、彼は古びた洋館の前に立っていた。

 彼の名はたちばなさとる。夕焼けが雨に打たれ、水煙の向こうにぼんやりと歴史を感じさせる洋館がある。ある事件が彼をここに誘い込んだのだ。

「まったくどうしてこんな夜に……」

 悟は自嘲気味に小さくつぶやいた。彼の目は、尖った屋根に続く雨滴の流れを追いながら、ひび割れた壁にとまった。

「情が深すぎると……こんな風に心まで凍えるのか……いや、あるいは……」

 悟は豪雨の打ちつける夜襟を立てた。そして、傘も役に立たぬほどの風雨に耐えながら、過去の栄光を隠すかのように朽ちかけた壁、傷んだ屋根の曲線を見上げた。

 橘はかつては街では知らぬ者がいないほどの噂の私立探偵だった。が依頼が激減した今は、思索が唯一の相棒という体たらく。そんな彼の元に舞い込んだのは、失われた絵画の奪還という依頼だった。

「私情で動くというのは、探偵失格かな……」  

 洋館は真理亜という画家のアトリエであり、住居であった。彼女は弁舌よりも絵筆で語るような人。そんな彼女の最新作「蒼穹の欠片」が何者かに盗まれたのだ。

 その作品は、彼女にとってただの絵画ではなかった。亡き兄との最後の夏の記憶、澄み渡る海と空の欠片だった。そう、真理亜はその絵を描くことで兄を偲んでいたのだ。

「そうだ、探偵である前に僕は人間だ。温もりを求めるのは、ことさら罪でもあるまい」

 橘は意を決して洋館の扉を開ける。花木が鬱蒼と絡む庭を抜ける。嵐の音を掻き消すかのように、重厚な扉が彼を受け入れ、時代の匂いと真理亜の私生活に溶け込む淡い画材の香りが迎えて入れてくれた。

 洋風の居間の奥には憔悴した様子でソファに座る真理亜がいた。彼女は橘に気がつくと、スカートの裾を摘まんで丁寧に正式な挨拶をした。時を経てさらに美しさを増す彼女の姿に橘は一瞬時間を忘れた。

「真理亜さん、あなたの創る色彩には心を揺さぶられるものがある。僕はいつもそれに魅了されてきた。その透明感、あの海辺で過ごした夏の記憶が盗まれて、大変ご心痛のことと察します」

 彼の瞳には、真理亜がキャンバスに注いでいた蒼い情熱と同じ色が映っていた。橘はこの家に一歩足を踏み入れた時から、沈黙が破れ落ちるガラスの破片のような痛みを感じていたからだ。

「真理亜さん、私は必ず『蒼穹の欠片』を取り戻します。それが私の、いや、私たちの使命です」

 真理亜は静かに頷いた。

 この屋敷に遺された記憶の隅々までも探らねばならぬ。僕の目は捜査という名の下、隠された真実を求めて館を彷徨うことになった。



第二章:思い出の彩りは、時として蒼く濃密に


 大正の息吹が生きるこの古ぼけた洋館には、陽の光さえも懐かしさを帯びて射し込む。

 橘は、階段の踊り場に一つ、一つと静かに足を踏み入れながら、真理亜の世界へと少しずつ近づいていた。彼女の表現の全ては、その屋根裏部屋に籠もる彼女の魂の声――画布に託された呟きだ。

 気高い静寂の中、真理亜の創作に必死で耳を傾けていたあの日。橘の中に懐かしい日々が去来する。

「真理亜さん、あなたの絵は、ただの風景を越えて、何かを語り掛ける力がありますね」

 橘は穏やかに会話を切り出した。

 彼女は一瞬、その深い瞳で橘を見据えた。

 その視線の奥には、無言の言葉が溢れていた。

「言葉にするのは難しいものです。ただ、私は私の中にある情景を形にするだけです」

 真理亜は静かに答えた。その声は、彼女の作品のように、何かを隠しながらも露わにしているようだった。

「この『蒼穹の欠片』は、他の作品とは一線を画しています。あなたのお兄さんとの思い出が色濃く反映されてる……その絵を盗んだ者への感情は?」

 私は踏み込んだ質問を投げかけた。 床に落ちた筆を拾いながら、真理亜は眉を震わせ、静かに反応した。

「絵とは心の写し鏡。ですが盗まれたからといって、私の心までは奪えません。盗んだ人には、ただ……哀れみを感じます」

 彼女の口元に僅かな微苦笑が浮かぶ。

(感情を抑えることでしか、渦巻く思いを盗人から守れないのですね)

 私は心中で呟いた。 真理亜は黙っていたが、その瞳は激動の海を孕んでいるように見えた。

「作品が戻ってきたとして、あなたはまたお兄さんとの思い出に触れることができますか?」

 橘は静かに尋ねた。

「時は川のように流れて、二度と同じ水に触れることはできません。ですが……」

 彼女の声が途切れた瞬間、彼女の眼に涙の光が宿った。

「私はあの絵を通じて、少しでも兄との距離を縮めたいのです」

 私はため息をつきながら、彼女の言葉に込められた押し殺した感情と情熱を噛みしめた。そして、真理亜が兄との距離をどれほど想っているのか、その深淵を知った気がした。

 古びたキャビネットの上に真理亜とその兄・又一とが並んだ写真が数点飾られていた。その中の彼女の笑顔は華やかでありつつもどこか硬質なものがあった。

 屋根裏の部屋を調べていた橘はある違和感を覚えた。この部屋にあるはずがない異質なもの。橘はそれを手に取った。

 日本では手に入れることが困難な希少な煙草の包装紙の一部だった。

 同時に毛利という人物の存在が頭をよぎった。

 美術評論家として名を馳せたその男がこの煙草を愛好していることを橘は知っていた。この包装紙と毛利を結びつけるのは早計だが、橘には不思議な確信があった。

 美術評論家という毛利の天職は、芸術家たちの夢を言葉にすることだった。しかしその毛利が、「蒼穹の欠片」について語った言葉、それは刺すように冷たく、彼女の才能に対する憧れと、市場が抱く理解のなさへの諦念とが、錯綜するものだった。

 大正浪漫と呼ばれるこの時代、美術の価値が次第に金銭という尺度で測られるようになりつつあった。毛利の言葉はその尺度に対する一種の皮肉であり、それでいて真理亜の才能に対しては、誰よりも熱い視線を向けていたのだ。ある意味矛盾の塊を体現するような男だと言ってもいいかもしれない。

 彼の批評はともすれば冷酷に聞こえたが、その中には少なからぬ困惑が混ざっているようにも思えた。真理亜への熱い視線は、評論家としての彼の冷静さを狂わせるに十分なものだろうか。そんな疑問が橘の中で渦を巻いた。

 部屋に飾られた真理亜の絵画の一枚一枚が語る彼女の孤独と、透明感溢れる彼女の画風が、何かを無言で伝えている。そして、毛利の執拗な「蒼穹の欠片」への酷評。橘には索敵の道筋が徐々に見えてきた。




第三章:相容れぬ人種。探偵と評論家の場合


 緋色の夕暮れが霞む中、橘は装いを整えると、深刻な面持ちで毛利の事務所へと向かった。

 扉を開くと、むせかえるような煙草の煙と書類の混沌に満たされた部屋が僕を迎え入れる。窓外の猛雨が、私たちの対話に急を告げる。

 毛利は他愛もない挨拶を交わした後、すぐに気勢を上げる。彼の短く切り揃えられた髪は濃いインクのように部屋の乱雑さに溶け込み、その目は機知に富んだ鋭さを湛えていた。

「橘さん、またこんな土砂降りの中を、何用でしょう?」

 彼は言葉巧みに会話をリードしたが、その声には僅かながら不安定さがあった。橘は淡々と言った。

「毛利さん、あの『蒼穹の欠片』の件で少し話がありましてね。盗難について、あなたしか知り得ないことがあると伺っています」

 橘はかまをかけた。

「私がぜんたい何を知っているというのかね?」

 毛利はふとした瞬間の閃光のような眼差しで、書類の山をうっすらと見やりながら言った。橘は迎合せず、真摯な調子で続ける。

「真理亜の絵は、それ自体が一つの絶対であるべきだ、そうあなたが言っていたのを私は良く覚えています。盗難された日には、その言葉に相反し、あなたは『蒼穹の欠片』の市場価値について批判的でしたね」

 毛利は一瞬にして怒りをあらわにしたが、すぐに冷静さを取り戻し、言い返した。

「橘さん、私は評論家だ。私の仕事は美術を評価すること。感情を持ち込む余地などまったくありません」

「しかし、感情は時として人を予期せぬ行動に駆り立てるものです」

 橘はこれまでのやりとりの間に、毛利が時折りきょろきょろと視線を注ぐ書類の存在に気づいていた。そしてそれを指摘すると、毛利はあわてて視線を逸らした。

 しかし、しまった、という表情は誤魔化せない。

 僕はその瞬間を捉え、一気に話題を切り替えた。

「毛利さん、あなたは真理亜さんの才能を心から愛し、尊敬しているのは明らかです。ですが、あなたの評価と彼女の絵との市場価値との間に何か矛盾を感じているのでは?」

 彼は驚愕して立ち尽くし、言葉を失った。彼の事務所が迫りくる不穏な沈黙で満たされる。

 ついに僕は毛利がちらちらと盗み見ていた書類の束を掴み上げると、それを紐解いた。

 そこには、まるで詩のように真理亜の作品の美しさが讃えられており、彼の心の内が赤裸々に綴られていた。


彼女の絵画に触れる度に、我が心は揺さぶられる。

彼女の描く蒼みはただの色ではない。

それは魂の響き、生命の躍動、無数の言葉では言い尽くせぬ感情のうねりである。

評論家として冷静でいるべきこの私が、彼女の筆致によって甘いまどろみに落ちる。

そして日々、彼女の作品がただの商材として取引される現実に嫌悪感を覚える。

ひとたび市場価値に目を囚われれば、真の美が見えなくなってしまう。

真理亜よ、お前の才能に世界が気づく前に、私はどうしてもお前を守りたかった。

許されざることを承知で、私はこの感情に身を委ねた。

お前の純粋な芸術を、この世から一時的にでも隠すことで、その価値を守ろうとした。

どうかわかってほしい……


 毛利の本心が見えた瞬間、そこにあるのは評論家としての厳格な姿勢ではなく、画家へのただ一途な愛情だった。

「これが真理亜さんへのあなたの本当の感情ですね。つまり、愛ゆえにあなたは……」

 毛利は敗北を認めたように深くため息をつき、がっくりと頭を垂れた。

 あとには長い静寂あるのみだった。



第四章:再会、そして彩りの時


 静謐な洋館の薄暗い廊下を通り、橘は再び真理亜のアトリエを訪れていた。

 霧のように幻想的で、雨が降り注ぐ庭園を背景にしたその部屋は、まるで時を忘れた空間のようだった。

 彼女の手に、長い旅を経て戻ってきた「蒼穹の欠片」を静かに差し出すと、真理亜の瞳は大きく揺れた。

 彼女の手が僅かに震えるのを感じながら、橘はその絵を差し出した。

「これが、あなたの心を盗み出した泥棒から取り戻したものです」

 誠実さを込めてそう言うと、彼女は一言も発せずに絵を受け取った。

 彼女の視線が細かいキャンバスの上を愛おしそうに這い、その神経質なほどに繊細な筆触を辿る。

 そして、彼女の透明な涙が、ぽたりと絵の一部と融合していく。円環のような涙は、絵と一体となり、毛利の歪んだ愛情を、何ともいえぬ美しさに変えた。

「事の顛末は昨日電話でお伝えした通りです」

 橘は淡々と切り出した。

「そのうえでお聞きしますが、毛利さんの真の感情、そしてこの行為に対するあなたのお気持ちは? 彼を警察に突き出しますか?」

「いいえ、橘さん、それには及びません」

 その言葉に、橘は軽く頷きを返した。心に去来する無数の言葉よりも、その静かな一言が彼女にとっては何よりの慰めとなるだろうことを悟ったからだ。

「そうですね。彼は確かに、自分の感情をどう表現していいかわからずにいた。無垢なる愛が、時に人を狂わせることもある。だが、その愛があなたにとって、これからの重荷にならぬことを願うのみです」

 橘の言葉に、真理亜の美しい眼差しが一瞬、震えた。彼女は淡く微笑み、僅かに首を横に振りつつ静かに話し始めた。

「橘さん、私は毛利さんを許すことができます。なぜなら、私自身も兄との関係で、言葉にできない感情があったからです。愛は時に道を見失う。けれど、それでも私たちは愛を求め、また愛を表現する。それが人間というものです」

 真理亜の言葉に、張り詰めた空気が色濃く漂う。

 彼女の声は遠い日の想い出に落ち着いたトーンで、かつてのロマンが蘇るかのようだった。

「毛利さんが、この絵を盗むことで私に語ろうとした愛が、どれほど歪であっても、それは紛れもなく愛だったのでしょう……人とは、おそらくそういうものだからです」

 彼女の瞳からあふれる煌めく涙は、さながら蒼穹の欠片が再び彼女の魂に戻った瞬間のようである。そして彼女は、僅かに笑みを深めつつ、私に向かって深々と一礼をした。

「心からの感謝を。あなたは私のキャンバスに新しい色を加えてくれました」



第五章:絆の彩り


 洋館の静謐なアトリエで、真理亜はやがて彼女の兄に関する話を静かに紡ぎ始めた。

 彼女の声は、微風に揺れる柳のように、弱く、しかし確かに、橘の心に触れた。

「わたしと兄は、実は血の繋がりを持たないんです」

 それは衝撃的な告白だった。

「私が孤児だった頃、彼――兄の又一は、わたしを家族として迎え入れました。彼は、わたしの初めての絵の才能を見出し、絵筆を持たせてくれた人です」

 彼女の言葉からは、深い感謝と、それにまじるやりきれない複雑な感情が漏れ聞こえた。彼女はゆっくりと一枚の古ぼけた写真を取り出し、それを愛おしそうに指でなぞった。

「しかし、又一は、厳しかったのです。彼の理想に達するための絵を求められ、時には重すぎる期待を背負わされました。そんな彼の期待を受け止めようとする中で、彼との間には見えない壁が生まれてしまったのです」

 橘はその話を聞きながら、かつて見た写真の中の真理亜の硬い表情を思い出していた。

 そこに秘められた苦悩が、今、徐々に明らかになってきたのだ。

「でも、又一が亡くなったあの日、わたしは彼がどれほどわたしのことを愛してくれていたかを知りました。遺された彼の日記には、『真理亜の絵がいつか人を魅了する風景になることを信じている』と書かれてたのを見つけたのです」

 真理亜の目には、再び涙が浮かんでいた。

 しかし、今度の涙には、哀しみだけでなく、温かな解放感が含まれているように見えた。

「毛利さんが盗んだ「蒼穹の欠片」... それは、兄がこの世を去った海辺での記憶です。彼が絵を盗んだことで、本当に感じていた兄への愛と、その中に隠されたわたし自身への愛が繋がった気がします」

 彼女は、その頃描いていた「蒼穹の欠片」へのスケッチに見入りながら、微笑を浮かべた。

「橘さん、あなたは毛利さんの愛の歪みも含め、わたしと兄の間の物語を理解して下さいました。そのすべてが、これからのわたしの絵に色を添える要素です。私は、この絵に込められた思いを大切にして、兄に報いたい。そして、あなたにも感謝を伝えたいです」

 アトリエに優しい夕焼けの光が差し込む中で、暖かな空気が、部屋の隅々にまで満ちていた。私はただ、彼女の罪深くも清らかな絵画への情熱を静かに見守り続けることを選んだ。それが彼女への最上の贈り物だと信じて。


(了)

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