第5話

女は喜んでいるようだった。

 言えなかったことが、ようやく伝えられると震えている。


「海斗。私たちのワイルドストロベリーをずっと大切にしてくれてたのね。っと言っても海斗の妹さんの花だったんだけど。でも、あの花があったから私は幸せをもらえたのよ」

「明里、俺だって……」


 言葉を詰まられる先生。


「ふふ。出会いを覚えてる? あれは夏の終わるころだったかしら。私が園芸部でフラワーアレンジメントをしてるときに真剣な面持ちで海斗が訪れた」


「ああ、枯れかけのワイルドストロベリーを持ってな。凄く勇気がいったんだ」


「厳つい眼鏡男が花持って入ってくるから、みんな不信がってた。海斗ってば、第一声が、この花、妹が世話をしないから枯れそうなんだ助けてやってくれ、って困り果てた顔で言うんだもの、なんだか可笑しかったわ。私は妹さんの花なんだから、放おって置けば? って言うと、海斗ってば真剣な顔で妹が悲しむから枯らせたくない。って言うんだもの。なんて優しい人なんだろうって思った。まさか妹さん以外は鈍感な人だとは思わなかったけど。でも、こんなに好きになるなんて思わなかったわ。導いてくれた花には感謝しかない」


「俺だって……」

「ええ。幸せだったわ。だからね。お願いワイルドストロベリーに私が生き返ることを願わないで。このままだと海斗が前に進めない。私だって側を離れなれない。願いってそう言うのじゃないでしょう」

「些細なことでも願ってはダメなのか」


「そうよ」

「二人でもう一度ワイルドストロベリーで苺ジャムを作るって願いもか」


「そうね。もう一度一緒に作りたかった。でも、もう私じゃなくてもいいはずよ。だから……私のことは忘れて」


「……できない」

「私は十分幸せだったわ。それに……私以外のことで海斗は、もう花に願っているはずよ」


「……」

「生徒を思う気持ち。人に馴染めるようにって、海斗は願ってる。未来ある願いだわ」


 二人の会話を傍観的に聞きながら、私は色んなことを思った。二人の絆の深さ。先生が私のことをワイルドストロベリーに願ってくれていたこと。

 二人で作った苺ジャム。


(そうか、元気が無いとき、よく先生がクラッカーを乗せた苺ジャムをくれた。あの甘酸っぱいジャムは二人の思いでの品だったんだ)


「海斗は未来に進まなきゃ。だから私のことは……忘れて」


 先生の顔がくしゃくしゃになる。私には出せない表情。先生の声が絞り出された。


「忘れられるわけがない。ずっとお前を思ってたんだ」

「ありがとう。私も大好きよ。でも、さよならしないと」


「嫌だ」

「まったく。教え子が見てるわよ」


 先生は息を飲んだ。目の前にいるのが私だと、やっと気がついたようだった。


「相澤」


 呼ばれて体が震える。足がガクガクする。


「相澤。大丈夫か」


 私は急に目眩がして立っていられなくなる。倒れる寸前、先生は背に手を回して支えてくれた。


「相澤?」


 私の中の女は淋しげにして微笑む。


「もうこの子から出なくちゃ」

「明里……相澤……」


 先生はどちらを思って、そんな表情をしてくれているのだろうか、わからなかった。


 なにかが出ていく感覚が襲う。

 体の中が清涼ミントのように、何かが抜けていくのがわかった。


 瞬間。

ーー海斗をお願いね。そして気持ちを伝えてくれて、ありがとうーー


 女が囁いた。小さな光る玉になり女は私から飛び出す。ふわりと先生の体を一周すると、ガーデンハウスの花を通り越し、天へとのぼって逝った。


りーんっと風鈴に似た音色が女が昇る先から聞こえる。先生の育てた花は、まるでステンドガラスの光を浴びた教会のバージンロードのように光り輝いて見えた。


女になった玉がキラキラとして、そして消えた。


──あれが先生の好きな人。綺麗だった。


 私の心を溶かしてくれたガーデンハウスの花は明里さんを思って先生が育てた花たち。ああ、私を救ってくれた一部でもあったんだ。私は唇の端だけで優しく微笑んでいた。


(そうだ。これは先生の一部だったんだ)


「明里さん天にのぼって逝ったみたいです」

「相澤」


 私を支えて見下ろす先生。その顔がくちゃくちゃの顔になり泣きだした。肩を震わせて、拭うこともなく水玉の涙を流す。


「先生」


 私の前でも泣いてくれた。降り注ぐ雨の涙が、私の頬に落ちてくる。嬉しかった。


「すまない。ありがとう。すまない」


 貧血のようにクラクラする。きっと私は真っ青な顔をしているのだろう。先生は何度も何度も私に謝った。

 私は込み上げる思いが這い上がった。


「先生。忘れないであげてください」


 矛盾しているだろうか。

 あんなに先生の側からも、内の中からも、明里さんが消えて欲しかったのに、どうしてだろう。自然とそんな言葉がこぼれた。


「私、先生に救われました。本当はクラスメイトに冷やかされたり、嘘つき呼ばわれされるのは辛かったんです。強がってたけど。でもこの場所で花を見ていると、心が落ち着いたんです。初めて先生に、ここで会ったときも、何も聞かずにお茶に誘われて嬉しかった。この場所だけは私の救いだった。でも、それって先生が……明里さんと出会ったから、ここがあるんですよね」


 明里さんと先生が出会ったから、このガーデンハウスがある。ここがなかったら、きっと私も先生に出会ってない。救われなかった。


「相澤……俺は……そんなつもりじゃ」


 例えどんな理由で花を育てていても、私にはそれが現実。

 それに嬉しい。


 先生がじゃなく、俺がっと言ってくれたことが。生徒扱いされてない気がして。


「それでもです。明里さんが先生の中で生きてる。忘れたら、私が好きになった先生じゃないです。たぶん」


 そうだ。私が好きになった優しい先生は明里さんがいたからなんだ。


「だから……無理に忘れないであげてくだい。私、明里さんが好きな先生が好きです」


 やっとそう思えた。

 ウサギの目のように真っ赤になった先生は、洪水のように、とめどなく泣いた。


「うっうっ」


 私がワイルドストロベリーに願ったこととは少し違ったが、これで良かったのだと思う。


 ところで、あっさり告白したのに先生は気がついてないようだ。もしかしたら無意識にloveラブではなく、likeライクの方だと考えていそうだ。

 が、そうはいかない。


「相澤……ありがとう」

「あの先生、今度は私と苺ジャム作りませんか」


 鳩が豆鉄砲をくらわされたように、まるまるに目をしてから先生は三日月に細められる。


「そうだな」


 先生は泣き笑いした。


「なら、もっと、たくさんのワイルドストロベリーを育てて苺を作ってくれ」

「はい。そうします。先生も一緒にですよ」

「ああ」


 どこか晴れ晴れとして見えた。外からは、ひぐらしがカナカナと鳴いている。


(先生、気がついてますか? 来年はもう私、生徒じゃないんですよ)


 窓の外から風が入り少し肌寒い。雲は真っ赤なイワシ雲が浮かぶ。


 幽霊の見える最後の高校時代がもうすぐ終わる。

 私は新たにワイルドストロベリーに願った。


──先生の側にいられるように。


 卒業まで、あと五ヶ月。制服を脱ぎ捨てたら覚悟しててね。──ねえ、先生。


 二輪のワイルドストロベリーが風に揺れていた。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ワイルドストロベリーに願いを 甘月鈴音 @suzu96

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ