第4話

 先生には言えないけど、その女は左足は曲がってあばらがグチャグチャになっている。頭からはどす黒い血をながしている。どう見ても悪霊だった。


 どんなに先生に思われていようが、こんな物が側にいるのは駄目だと思った。


 見える私がなんとかしないといけない。今年の夏が終われば、私はもう卒業しなくてはいけない。その前に消えてもらう。

 女も窪んだ目でじっと私を見ている。


──ねぇ、そこの女、先生から離れてよ。


 心の中で念じると女はニヤリと笑った。怖気が立つ。ゆらりと女は動き出し、ひっ捕まえるように右手が宙を彷徨う。


ゆっくりと私に近づいて来る。冷や汗が頬を伝う。私に取り憑くつもりだろうか。


 体は震えていたが、それでもいいかと思った。先生からこの女が剥がせるなら。


 女の冷たい手が私に触れる。悪寒を感じる。が、その瞬間、女は私の体に入り、すっと溶け込んだ。女の意思が問答無用に流れ込んで来る。


(えっ!)

ーー私のことは、もう忘れてーー


 女のダイレクトな願いの電流が体を貫き通した。


(どうゆうこと?)

ーー囚われないで……海斗。もう十分だからーー


(悪霊じゃないの)


 私は酷く動揺した。それでも、お構いなしで女の記憶が流れ込んでくる。


 私の目に映ったのは先生の背中だった。悪霊になった女の目線だろうか。先生はこのガーデンハウスの花を手入れをしていた。


『明里、ひとりで逝かせて、すまない』


 花に向かって項垂れて先生は謝っていた。


ーー海斗。ごめんねーー


 私は謝っていた。否。正確には私の中の女が謝っている。


 毎日、毎日、先生は女の名を呼んで花の世話をしていた。


ーー海斗。あなたをひとりにして、ゴメンナサイーー


 女の目を通して、私は見たこともない先生の姿を垣間見る。


(知らなかった。この綺麗なガーデンハウスの花。女の人を思って育ててたものだったんだ……)


 ある程度、忘れられない人なんだろうなとは、わかっていた。以前、同僚の教師に見合い話を持ちかけられているのを、このガーデンハウスで目撃してしまったことがあった。


先生は『ひとりが楽なんだ』なんて言って断ってたけど、本当は、ずっとその女のことが忘れられなかったからなんだと気付いた。


 真っ赤な実を付けたワイルドストロベリーを眺め、先生は背を丸め床に這いつくばり、嗚咽を噛み殺しながらガーデンハウスで泣いていた。


『明里』

『明里』


 私の目の奥にデジタルフォトフレームの写真のような映像が映し出される。


『──明里、明里、明里、明里、明里、明里、明里、明里、明里、明里、明里──』


 流れ込んでくる女の記憶が、私を絶望へと追い込む。数え切れないほど先生は女の名を口にして泣いていた。


ーーもういいの。苦しまないで、私が車に轢かれたのは、あなたのせいじゃない。もう私から開放されてーー


 自分のことよりも、心から先生を心配しているらしい女。その様子に私の心が裂けるように痛んだ。


(勝てっこない。こんな女に……)


 もしも私が死んだなら、私は自分が離れたくないから先生の側にいる。だけど、この女は違ったんだ。


悪霊になって先生を取り殺そうとしてたんじゃない。先生が心配で側から離れられなかったんだ。


 頬に冷たい雫が伝って落ちる。私はいつの間にか呆然としながら泣いていた。


(勝てっこない)

「相澤、どうした」


 先生は心配げに私を覗き込む。


(優しくしないで)

「なにか辛いことでもあったか」

(優しくしないで──余計に惨めになる)


 どこに私が入り込む隙があったのだろうか。微塵もなかったのだ。絶望と悔しさと嫉妬が、わけもわからないほど体を巡った。


ーー伝えてーー


 私の中で女が訴える。


ーーお、お願い。海斗にーー


 なんで私がと思う気持ちがあった。でも、女の気持ちが強すぎて私は負けて抗えない。


「かいと……」


 私の様子を伺っていた先生は、ふぅっと肩をすくめた。


「相澤。先生を名前で呼ぶのは」

「ごめんなさい。一生側にいるなんて約束したのに先に逝って」


 かすれた私の声がまったく違う。先生は目を見開き、はっとして一歩下った。口に手を押さえる。


「まさか……明里?」


 私の中の女は優しく微笑む。先生の目に私がどう写っているのかはわからない。でも、先生はもう私を見てない気がして辛い。

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