いつもと同じ時間に目を覚ます。

 まずは起きてすぐ健康状態のチェック。何しろ症例の極めて少ない奇病なので、少しでもデータが必要らしい。

 それが終われば自由時間だ。とは言えいつもなら、弟が持ってきてくれた漫画雑誌を読むくらいしか出来ないのだが。


「……よし」


 気合いを入れ、まずはベッドから起き上がる。それだけで酷い疲労感が体を襲うが、弱音を吐いてなんかいられない。

 次に邪魔な点滴を、丁寧に外す。もし力任せに引き抜いて点滴が倒れでもしたら、脱走しようとしている事がバレてしまう。

 そうしたら足をベッドの端に下ろし、起立。……今までは何一つ意識しなくても出来てた事がやろうと意識しないと出来ない、それがとてももどかしい。


「……よし。ここまでは問題ないな」


 全くの介助がない状態でも出来るか不安ではあったが、これくらいなら問題はないようだ。もう既にかなり疲れてはいるものの、それはちゃんと想定済み。

 ここから俺と菜摘の家がある辺りまでは、確か車で三十分。徒歩でも、四時間は超えないはずだ。

 一つだけ心配な事があるとすれば、菜摘がもし外出していたら何の意味もなくなってしまう事だが……。


「……それで怖がって動き出さなかったら、何の意味もねえ」


 胸に宿る不安を、全力で振り払う。どの道俺に残された時間は、既に限られている。

 ならばその、残された日本での時間を悔いなく過ごしたい。ただそれだけで、命を懸けるには十分だ。


「よし……行くぞ!」


 強い決意を胸に秘め、俺は久しぶりとなる、自力での一歩を踏み出した。



 ……ところが、事はそう順調には進まなかった。

 人目を避け、病院から抜け出すのには何とか成功した。成功……したのだが……。


「ぜえ、ぜえ……」


 足がみっともないぐらい、ガクガクと震える。呼吸はずっと苦しくて、心臓もドクドクうるさく鳴り止まない。

 そう、病院から出て、たった百メートル程度歩いただけなのに。俺の体は早くも、限界を訴え始めていた。


「……くっっっそ……甘く見過ぎてた……」


 正直、タカを括っていた。いくら体の機能が低下してても、菜摘の家まで歩いていくぐらいなら余裕だろうと。

 だが、病は、思っていた以上に俺の体をマトモに動けなくさせていた。


「チクショウ……こんなところで立ち止まってなんか、いられないってのに……!」


 足を動かしたいのに、重すぎて思うように動かない。汗も上手く掻けなくなっているからだろうか、さっきから体が妙に熱い。

 今なら解る。激しく動けば命に関わると言った医者の言葉が、脅しでも何でもなかった事が。

 このまま無茶を続ければ、俺は、本当に死んでしまうのかもしれない。


(……でも、諦めたく、ない)


 それでも、俺は次の一歩を踏み出す。少し立ち止まった事で、体も呼吸もほんのちょっとだけど楽になった。

 今ここで死ぬのと、生き続けるけど死ぬまで後悔するのと。普通は、命に勝るものはないって言うんだろうけど。


「……俺にしてみりゃ、どっちも同じ事だ……!」


 懸命に足を、前へ、前へ。周囲の通行人が怪訝な目で見てくるが、知った事じゃない。

 もっと遠く、もっと早く。歩きは、いつしか駆け足へ。

 何度途中で立ち止まっても、絶対に諦めない。だってどっちも同じなら……自分が納得出来る方を選びたいじゃないか。

 例えそれが、俺以外が全員悲しむ、無謀なワガママなのだとしても。


「くっそ……自分がポンコツすぎて一周回って笑えてくるわ……」


 死ぬほど苦しいのに、気を抜くと倒れてしまいそうなのに、それが逆に可笑しくなって俺は笑った。笑いながらの呼吸はますます苦しさを増したけれど、不思議と悪い気はしなかった。


(……ああ、俺、今)


 ——生きてんなあ。


 なんて、そんな事を、疲れでまとまらない頭で思った。



「……ぜえ……ぜえ……」


 立ち止まっていても体の揺れが収まらなくなって、マトモに物が考えられなくなり始めた頃。ようやく俺は、小学生の時ぶりの菜摘の家の前に立つ事が出来た。

 時間は……多分、もう大分経っている。少しのろのろ走って、すぐ立ち止まってを繰り返しながら来たから、相当時間がかかったはずだ。

 菜摘に会う前に、少し休みたい。けれどももう、眠気に襲われるまでそう時間はない。

 玄関の横にもたれかかりながら、チャイムを押す。少しして、近付いてくる足音と共に聞き慣れた声が返ってきた。


「はーい。どなたですか?」

「……菜摘……」

「……っ! 晃介……!?」


 驚いたような声がしてすぐ、ガチャガチャと鍵が開けられる。そして勢い良く開いたドアの向こうから、ずっと見たかった顔が飛び出してきた。


「……よう、久しぶり……」

「久しぶり、じゃないわよ! アンタ重い病気で……何度病院行っても家族しか会えないって……!」


 菜摘の目に、みるみる涙が溜まっていく。ああ、コイツが泣くのを見るのは小学生の時以来だななんて、そんな事を思って可笑しくなる。


「病院着のままで、そんなに顔真っ青にして……何してんのよ、アンタ……!」

「悪い……でもお前に……どうしても会いたかったんだ……」

「喋らないで、今病院に連絡……!」

「待ってくれ。……聞いてくれ、菜摘」


 家の中に引き返そうとする菜摘の手首を、今の全力で掴む。それは少し菜摘が抵抗すれば簡単に振り払われてしまう程度の力だったけど、菜摘は立ち止まって、涙に濡れた顔をこっちに向けてくれた。


「告白の、返事。……まだしてないだろ」

「晃、介……」

「俺も、好きだ」


 あの卒業式の日から、胸にずっと溜まっていた言葉を。俺は、やっと口にした。


「俺も、ずっと、好きだった。……菜摘の、事」

「……こ」

「だから……待ってて、くれないか」


 菜摘の目から溢れる涙の量が、一気に増える。それを見て、そんな顔も可愛い……なんて、つい柄にもない事を考えちまった。


「俺、必ず、元気になるから。元気になって、菜摘の前に帰ってくるから」

「……あ……」

「だから、待っててくれ。……待ってて、下さい」


 言いたい事全部言い切って、重い頭を下げる。途端に足がふらついて、前のめりに倒れそうになる。


「わっ……」

「危ない!」


 倒れかけた俺の体を咄嗟に菜摘が支えた。密着した体から柑橘系のいい香りがして、何だか急に恥ずかしくなってきてしまう。


「……待つよ、私」


 すっかり固まってしまった俺の耳元で、菜摘が言った。


「待ってる。待たせて。待ちたいの」

「なつ、み」

「だから……私を、晃介の恋人にして下さい」


 そう言って、菜摘が俺を抱き締める。菜摘の体温と共に体中に広がるのは、今までに感じた事のない強い幸福感。

 ここまで頑張って、本当に良かった。心の底からそう思いながら、俺は菜摘を抱き締め返した。


「俺、多分もうすぐ寝るけど。それまで、このままこうしてて」

「うん、いいよ」

「菜摘、すっげー好き。めっちゃ好き」

「……言い過ぎ、バカ」


 ずっと当たり前だった、懐かしい空気と共に会話を重ねながら。いつしか俺は、深い眠りに落ちていた。

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