最初の一人

帆尊歩

第1話 最初の一人

開演まで三十分を切ると、だんだん客席が埋まって来る。

通常は開場から開演までは三十分くらいが多いが、今回はかなり大がかりなコンサートなので、かなり早めだ。

人気テレビ番組の収録を兼ねた、収録兼イベント兼音楽会だった。

そのせいで、テレビ番組のファンやタレントのファンと本来の音楽ファンと、一万人の観客を集めている。

だから会場も、通常の音楽用の会場ではなく、人気アイドルグループのコンサートのように巨大な会場で行う。

今回の会場は、かつてオリンピックでも使われた体育館で、客席はすべて二階席だった。

だから客席が少ないので、競技場の広大なスペースをアリーナ席にして椅子を並べている。

アリーナ席は、何もない空間に椅子を並べただけの客席で、通路は比較的広くとっている。テレビ収録を兼ねる音楽会なので、通常ではあり得ないほどの、収録機材と照明、カメラが配置され、観客にはペンライトを持つ人も多い。

とても、クラシックのコンサートとは思えない様相だった。


浅海香苗(あすみかなえ)と十八人の愉快な仲間たちという音楽ユニットがある。

著名なバイオリニスト浅海香苗が集めた若手バイオリニスト六人と、その他不定期で集められる、これまた若手の音楽家十二人合わせて十八人のユニットだ。

メンバーは、六人のバイオリニスト以外はその都度集められるが、みんなどこぞのコンテスト一位や二位と言った、腕は折り紙付きの人間ばかりだ。

客席には五本の通路があり、さらに横に四本の通路で客席を構成する。

休憩は想定していないので、途中でも抜けられるように、通路は驚くほど広くとり、その交差する箇所全てに人が配置される。

金山リオもその一つに配置させられる。


これも通常のクラシックのコンサートではあり得ないことだが、芸人の前説で始まる。

「本日はご来場ありがとうございました。なんと今日は一万二千人のお客様にご来場いただきました」

一万二千人、リオは単純に驚く、こんな動員はクラシックではありえない。

何処までがクラシックのファンなのだろうとリオは考える。

でも一万二千人の前で演奏が出来、さらにテレビ放送までされる。

クラシックの演奏家にとって、これはなかなか出来る経験ではない。

これも先生のおかげと考えるなら、さすが浅海香苗と言わざる終えないとリオは思った。


前説が終わり、会場がほぼ埋まる。

舞台には巨大なモニターが三つ配置されていて、開場当初から、このテレビ番組の方の予告や告知、宣伝が流され続けている。

これはコンサートが始まれば、舞台の上の映像や、この客席では見ることの出来ないテレビの方の映像などを流せる。さらに舞台の演奏も映し出される。

後ろの方の人は、舞台で何をしているのか分らないから当然の配慮だった。


リオは自分の配置の場所に着く。

黒のパンツスーツの内ポケットから、小さく折りたたんだ客席配置票を取りだし、もう一度確認をする。

すると時間になったので照明が落ち始める。するとリオはしゃがみ込む、観客の邪魔にならないように上体を低くするのだ。

今から二時間半、ここから動けない。

さらに観客の方を向いていないといけない。舞台とは反対の方を向かなければならないので、舞台に興味があったら務まらないバイトだ。


コンサートが始まると、まずは導入で、浅海香苗と十八人の愉快な仲間たちの中核メンバーのバイオリンの演奏が始まる。

もちろん、真ん中は浅海香苗だ。

バイオリンなのに、動きながらフォーメーションを変えて演奏して行く。

リオは客席を向いていて、演奏は見えないが、フォーメーションと選曲が決まっているので、曲を聴けばみんながどういう動きをしているのか全部分る。

体育座りをして頭を下げているが、全員の音も全て分る。

この曲の時は、終わりの方で遙香が必ずミスるところがある。

リオは遙香が旨く出来るかハラハラする。

でも、今回はミスらなかった。

リオは胸をなで下ろした。

イヤ、そもそもこんな導入でミスってどうする。

香苗はリオに厳しく言う。

「遙香のミス何とかしなさい」

「私ですか」

「そうよ。あんたはこの「浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち」の最初の一人なんだから」

「はい」思えばこの香苗から言われる、最初の一人という言葉にリオは縛られてきた。


導入が終わると、テレビ版のレギュラーのタレントたちが出来てきた。

簡単なクイズや、しゃべりで観客を楽しませる。

近況やその他で話をもっていく。

バイオリニスト浅海香苗は、ここでは毒舌のおばさんバイオリン弾きで、レギュラーのタレント達と絡んで笑いをとっていく。それが浅海香苗の持ち味であり、人気の秘密だった。

もっともそれは借りの姿で、浅海香苗はバリバリのクラシックの正統派バイオリニストで技術も申し分ない。

その浅海香苗が、タレントもどきの活動をすることに、リオは根本的に反対だった。

でも初めて声を掛けられたときから、それはなんとなくわかっていたことではあった。


音大の特待生をもらい、リオは自分の実力に絶対の自信があった。

国内のコンテストは何処も一位や二位、海外は渡航費などのハードルは高かったが、それでも何度か出たものでは入賞を勝ち取った。

なんとなくCDを出したり、客演で呼ばれたりと、プロとしてやって行けるかなと思ったのも束の間。

いつまでたっても、音楽で食べて行くなんて出来る気配がない。

ソリストとして、知り合いとかと演奏会などを開くが、会場代などを考えると、運がよくてトントン、仕事と仕事の間があいて暇はたくさんあるが、これでもプロのソリストだ。

たとえ収入がほとんどなくても、元手が掛かっている分、続けない訳にはいかない。まがいなりにもソリストになるまで、いくらのお金が掛かった。有名になって回収したいが、今のような状態なら、百年掛かっても無理だ。

なら人に教えるのもと思うが、音大受験のレッスンならともかく、子供たちを教えるのはちょっと、と思う。

リオは、自分でも分っているくだらないプライドもある。

そうなると、逆に音楽とは関係のないバイトなら諦めが付くと思い、こういう誘導員のバイトをしたりしている。そして、そういう仕事をダブルワーク、トリプルワークをして、月一来るか来ないの、お金になるかならないかの仕事を待つ。

そんな生活の中で、リオは浅海香苗に声を掛けられた。

「あなた、金子リオさんでしょ」トントンの演奏会の楽屋での事だ。

「はい」

「私は浅海香苗」

「もちろん、知っています。先生のバイオリンは広がりとのびがあって、素晴らしいです」つい本当にそう思っていたので、口から出てしまった。

プロ三年目と大御所だ。普通ならお前なんかに褒められても、嬉しくないと思われがちだ。でも浅海香苗は、本当に嬉しそうにありがとうと言った。

それが、金子リオと浅海香苗の出会いだった。


遅れてきたお客が、誘導のスタッフに連れられて走って来た。

リオは体育座りをしながらも、横によける。

(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)の名物企画、隠し芸大会のコーナーが始まった。

リオのもっとも嫌いなコーナーだ。

でもこれが今では、(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)のコンサートの名物になった。


「あなたは今の業界どう思っている」と浅海香苗の事務所で、リオは言われた。

あの初めて会った、演奏会の三日後のことだった。

「どうとは」リオは何を聞かれているのか分らなかった。

「あなた、バイトは?」

「しています」

「演奏の頻度は?」

「月に一度か二度」

「そうか、食べてはいけないよね」

「はい」と答えるしかない。その通りだから。

「全くひどい業界だよね。クラシック音楽で食べていける人なんて、一握りも一握り」リオは頷いた。

「あなたのバイオリン聞きました。非常によろしい」

「ありがとうございます」

「なのに食べていけない。イヤ、あなただけじゃない。若い子はほぼみんな、音楽はお金がかかるから、家にお金がある子が多い。だからあまり問題になっていないだけで、投資とリターンがあまりに乖離しすぎている」

「それは確かに」

「私はそれを何とかしたいの」

「えっ、何とかって?」

「あなたに力を貸して欲しい」

「貸せる力なんて・・・」

「こういうのを立ち上げようと思っている」そこで出されたのが、(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)の企画書だった。

「これは」

「くすぶっている若い子に、仕事をしてもらいたい。今よりは少しは収入も上がる。もしかしたらそれで生活できるかもしれない」

「そんな事が」

「それをあたしはしたいの。どう、力を貸して」

「そんな私なんか」なんて魅力的な仕事なんだろうとリオは思った。でもその反面、そんなプロデュースのような事が自分に出来るとも思えなかった。

「あなたを含めて、私を除く六人のバイオリニスト、全部若い女の子、あなたを含めてね」香苗は、あなたを含めてという所を強調した。

「いえ、それは」女の子だけとは、アイドル的な売り方をしょうとしているのかとリオは思った。

「音楽に性別を入れるなって?」香苗はリオが何を言おうとしたか、瞬時に感じ取った。

「はあ」リオは否定も肯定も出来なくなった。

「それ以外の楽器はその都度声を掛ける。そこには男性を入れてね。あなたにはその最初の一人になって欲しい」

「私が?」

「そう、私のサポートをして欲しい」



隠し芸のコーナートップを未樹が担う。

未樹は鳩ポポを弾く、鳩の鳴き声をバイオリンで表現、無論うまくで来るはずもないけれど、出来ていないという崩れた面白さで客を惹きつける。

下手くそに弾いて、笑いをとる。

反対の方向を向いて体育座りなので、舞台は見る事は出来ない。

でもこの練習に付き合った。

香苗から隠し芸コーナーをやるから、何か練習してこいと言われた。

「リオさん、私、隠し芸なんて」未樹は悲壮な面持ちで、リオにすがった。二人で試行錯誤して、なんとかあみ出した芸だ。本来は楽譜通りに弾くバイオリンをあえて外して弾くのは匙加減が難しく、下手をすると、本当に下手なバイオリンで終わってしまう。

最初嫌がっていた未樹だったけれど、昔、音大の時に冗談でやったことがあったらしく、練習に付き合った。そんなもの、バイオリンの先生に見つかれば大目玉だけれど。

何とか曲になった。

出来たときは手を取り合って喜んだけれど、リオは心の中では容認していない。

相変わらず最低の演奏だ。でも崩した下手な演奏で音が出せているのは凄い。

未樹はこの芸で、そうだ、こんの物演奏じゃない芸だ。

でもこの芸のせいで、未樹にファンがついた。

次は明子だ。

明子はバイオリンをギターのように弾く。

ボーイングをせずに、弦を弾くことはよくするが、初めからギターのように弾く、ここまで来ると芸というより見せ物だ。

みんな香苗の前でプレゼンして、採用されれば披露できる。

「リオさん」と明子がリオに話しかけた。

「どうした、あきちゃん」

「ギター先生に採用されました」隠し芸が人気で、毎回やれると給料が増える。

そして明子のギターは定番芸になり、給料が増えて、念願の親元を離れての一人ぐらしが出来るようになった。

給料が増えたことで一番喜んだのは、明子の両親だ。

娘が音楽で独り立ちした。

そんな姿を、リオは複雑な思いで見ていた。

確かに、この(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)を立ち上げた理由は、実力があるのに仕事がない若い子たちを救うのが目的だった。

そういう意味で、香苗は結果を出したのかもしれない。

でもリオは釈然としなかった。

リオは、香苗に談判したことがある。

「先生良いですか」

「なに」

「隠し芸ですが、あんな物止めませんか」

「なぜ」

「だって、あんなの演奏じゃない。先生だって分っていますよね。あんなギタギタの演奏。習いたての中学生だって、もっとましに弾ける」

「曲になって居れば良いんだよ。客はある一定以上のクオリティーは分らない」

「だからって」

「でもあのコーナーが、うちの名物になっていることは分っているよね。そのせいでうちの公演は、取りにくいチケットになっている」

「でも」香苗の気迫に、リオは負けそうになる。しばらく黙ったままの香苗が口を開いた。

「あんたは何のためにバイオリンをやっているの」

「えっ?」

「コンテストで上位をとること。超絶技法をマスターして、スゴイねって言われること。ある程度心得のあるバイオリン上級者に、力を認めさせること」

「それは」リオは言葉に詰まった、香苗が言ったことを否定できなかった。

「私はね、音楽は人を楽しませるための物だと思っている。

感動させるなんておこがましいことは言わない。ああ、楽しかったって言って、コンサートから帰ってもらう。それ以下でも、それ以上でもない。それでいいと私は考えている」その時、リオは何も言えなかった。

明子が嬉しそうにリオに行った言葉。「お給料が上がって一人暮らしが出来そうです。両親も凄く喜んでくれて」その言葉が頭をよぎったからかもしれない。


会場が沸いた。

隠し芸も後残すところ二つだ。

客席を向いているリオは楽しそうに笑い、手を叩く観客の波にもまれる。

どんなに難しい曲をノーミスで弾こうと、超絶技法を成功させても、こんなに観客は楽しい笑顔をしない。

リオは膝を抱えて頭を前にたおした。(先生の言うことの方が正しいのか)リオは自問する。

「あのー」リオは不意に声を掛けられた。

「はい」

「お手洗いは?」リオは弾かれるように立ち上がる。

「あっ、一番近いのは、この通路の先を右に出るのが一番近いトイレです」

「ありがとう」

「いえ」リオはまた、何事もなかったように座る。

隠し芸が終わった。

トークタイムに入り、再びタレントたちが出てきた。

香苗は出演者をいじりまくる。

ここには毒舌のバイオリニストが、レギュラータレントを毒舌で翻弄する。

そこにタレントがツッコミを入れて、香苗が切れて、みんなで大騒ぎをする。

この辺りはテレビ収録のところで、こういうところをオンエアーでつなぎ合わせ、そこにメンバーの演奏を差し込むという作りだ。

「では、また曲に行きたいと思います」そう香苗が言うと、舞台真ん中に進み、両袖から、愉快な仲間のメンバーが入ってくる。

ここからは本気の演奏だ。

とはいえ、完全なクラシックではない。

映画音楽だったり、小学校の音楽の教科書に出ているような、誰でも知っている曲を演奏していく。

たまにクラシックを入れても、スケート選手のバック曲や、コマーシャル、テレビ番組の導入曲と、誰でも知っている曲を演奏していく、中央は浅海香苗だ。

リオには、どの曲とどの曲を合わせて、あと何セット演奏するかなどの構成の全てが頭に入っている。

同時にメンバーの苦手な箇所も。

浅海香苗が主旋律を弾く。

さすが先生だとリオは思った。

舞台とは反対を向いて膝を抱えて座っているのに、香苗のすごさだけが伝わる。

ミスがない事はもちろんの事、なぜこんな音が出せるんだろうといつも不思議に思う。バイオリンなんて、弦をを弓でひっかくだけなのに、人によって全然違う。同じようにボーイングしたって美しさが違う。だからみんな憧れるんだ。

先生の絶対的な安定感。

ミスの片鱗さえ感じさせない風格。

リオは、浅海香苗というより浅海香苗のバイオリンに畏怖の念を抱き、尊敬してる。

そこにメンバーのバイオリンがかぶる。

簡単に言えば、そう格が違う。

メンバーだって若手の手練なのに、なぜこんなにも音が違う。

経験か。

インスピレーションか。

才能か。

だからこそ、リオと香苗はぶつかった。

「先生。先生のバイオリンすごさは十分理解しています。だからこそ、もっと正統派のコンサートで、本当の音楽ファンをうならせれば良いじゃないですか。なんでこんな」

「私だって昔は、自分の腕を磨く事に終始した。腕があれば大成すると思った。でもね。あるとき気付いた。

腕を上げれば、本当の音楽好きのコアなファンや評論家、同業者の評価は上がって行った。でもそれと比例して、普通のファンは減っていった。あるとき単独リサイタルで、最近の事を面白おかしく話し、曲の背景やエピソード、大作曲家の女性関係でやらかしたこと、その時の思いがこの曲のこの部分に出ています。なんて言いながら弾くと、今までにないくらい、お客さんは心から笑って楽しんでくれた」

「でも、でも。そんな事を言ったら、子供の頃から何もかも我慢して、タダひたすら、バイオリンを上手く弾く事だけに邁進してきた私達は?」

「リオは、分る人間だけが分ればいいなんて思っているの?」

「いえ」リオは言葉に詰まった。確かにそう思っていた。

「もう一度考えて見なさい。私達は何のために音楽をやっているのか」リオは涙をこぼした。その涙を拭くことも出来ずに、そもそも何故自分は泣いているのかさえ分らなかった。

香苗の言うことに、何一つの反論も出来ない事の悔しさなのか、今までの自分が否定される事の悲しさなのか。

確かにリオも、生涯で最も多くの観客の前で弾いたのは、(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)に参加してからだ。

香苗のサブに、バイオリンとしてソロを弾いたときだって、あまりの観客の多さに尻込みする反面、こんなに多くの人に自分のバイオリンを聞いてもらえる高揚感が押さえられなかった。

嬉しくて、わくわくがとまらなかった。


未樹がミスった。

そこはミスの連発で、香苗から居残り指導をしろと言われたところだ。

何とかミスらないようになったのに、この大舞台でミスるか。

わざと下手なバイオリンを弾いてる場合じゃないぞ。ここではダメだ。

よりによって、一万二千人の前でミスるなんて。

もし、自分がこのコンサートに参加していたら、あんたのせいだと先生に問い詰められていただろうな。

とリオは思った。

次は、明子だった。

イヤ、これはミスと言うより、完全に気が抜けて出したミスだ。

かつてリオは、香苗に尋ねたことがある。

「先生」

「なに」

「ミスをさせないようにするにはどうしたら良いんですか」あまりに、ミスの責任はあんたのせいだと言われ、すこしキレて香苗に尋ねた。

楽器のミスは、お手本を見せれば良いという物ではない。

「あんたがミスったとき、どう克服したか教えたら良いんじゃないの」

「私はあんな所ではミスりません」

「確かにあんたはミスをしないね。でもそこがあんたの弱さでもある。あんたは気を張りすぎなんだよ。だから、自分の中でギスギスして、あんたの演奏は緊張が伝わる。緊張感を持つことは悪いことじゃないけれど、多少の余裕も必要だね」

その時、リオは何を言われているのか理解出来なかった。

でも、心の余裕があって指導していれば、明子や未樹のミスは克服させることが出来たのだろうか。

今、曲は最後の盛り上がりに向かおうとしている。

全ての感情が盛り込まれ、その感情が少しずつ落ち着く、それは芳醇な思いが、熟成されていくように。

そして曲が止まる。

これが浅海香苗のタメだ、このタメで、香苗は幾多の人々を感動させてきた。

そのタメは、実際には一秒にも満たないはずだった。でも、それは何秒にも渡る沈黙だったように感じる。

その沈黙で、熟成された思いは一度リセットされ、新たな世界観への爆発となる。

爆発は強く会場に広がり、観客の心を暴力的に貫く。

リオは目をつぶって反対を向き、頭を下げているのに、涙がこぼれた。悔しいけれど、これが先生のすごさだ。



リオが香苗に、(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)を辞めることを伝えたのは、そんな観客との関係と、それに反発しているはずなのに、観客がたくさん入った高揚感が押さえられない自分の不甲斐なさ。このままでは、自分の中の一番大切な、音楽とは何なんだという事がわからなくなりそうで、恐くなったからだった。

どれほど悩んだか分らない。

でも、なんと言われようと、音楽を貶めるようなことは許せなかった。

たとえ食べていかれなくても、コアなファンか、評論家しか満足しなくても、だって自分が何もかも捨てて、邁進してきた音楽の世界なんだから。

香苗は何も言わなかった。


後悔はない、と言えば嘘になる。(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)を辞めてからリオの仕事は急に減った。

知り合いと演奏会を開いても、赤字が続く。

どこかの演奏の代役を頼まれる方がまだお金になるが、不定期もいいところで、1ヶ月の仕事はあまりに少なく、時間も有り、バイトを掛け持ちする。

でも、出来るだけバイオリンに影響しないように、指に力が入る仕事はしたくないし、しないようにしてはいるが、なかなかそうもいかない。

だから今日のバイトは、最適だ。指に負担が掛からない。

そして、コンサートが終わりを迎える。

一万二千人となるとそう簡単に帰れないので、しばらく客席にいたほうが良いというアナウスが流れる。


リオはリーダーに呼ばれた。

「舞台上の撤収、手伝ってくれるかな」

「はい」と返事をした。

あまり指に負担の掛かる事はしたくなかったが、仕方がない。舞台上にはテレビ放映用のセットに加えて、音楽系のアンプなど、まあまあの大物が転がって居る。

アンプを台車に乗せて進むと、後ろからリオを呼ぶ声が聞こえた。

反射的に振り返ると、なんと明子が立っていた。

「ああ、久しぶり」とリオは照れくさそうに手を上げた。

「リオさん、何してるんですか?」

「いやバイト、観客の誘導員の」

「バイト?ここで?」

「うん、会場案内の派遣バイトだから、どこ行くか分らないの。今回はたまたま」

「リオさんがいた?、ずっといたんですか。じゃあ演奏聴いてくれていたんですか?」

「うん。中央通路で、みんなとは反対の方を向いて。見ることは出来なかったけれど、音は聞こえていたから。凄くよかったよ」

「あっ、ありがとうございます」と明子は戸惑ったように、それでいて嬉しそうに言う。それはそうだろう。まさかこの会場にリオが居るとは思わなかっただろうから。

明子の後ろから、香苗を筆頭に他のメンバーもやって来た。

どういう経緯でみんながここを通るのか分らなかったが、まあどうしようもないとリオは思った。

別にみんなに会いたくないということではない。

リオはメンバーに囲まれた。

「リオさん」と口々に言う。

「みんな、リオは今、仕事中なんだよ。邪魔してどうするの」香苗が言う。

確かにその通りだ、とリオは思った。

余計な話をしていたら、サボっていると思われる。

「リオ、元気にやっているの」香苗が言う。

「はい、おかげさまで」

「みんな、こんな感じで頑張っている。だからたまには顔を出しなさい。遊びにおいで」

「あっ、はあ」

「あと、気が向いたら戻っておいで。あんたの場所はとってある」

「どうしてそこまでしてくれるんですか?」

「それはあんたはうちのユニットの、最初に一人なんだから」

「えっ、最初の一人」

「そうだよ。金子リオはうちの、(浅海香苗と十八人の愉快な仲間たち)の最初の一人なんだから。

それだけ言うと、香苗はそのままリオの前を素通りした。

そしてメンバーが一人一人、リオに手を振った。そして角を曲がって見えなくなっても、リオはまるでまだみんながそこに居るかのように、立ち尽くして見つめた。


「金子さん。手、止まっているよ」リオはリーダーの声で我に返った。

「あっはい、すみません」

リオは後片付けを続けた。

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最初の一人 帆尊歩 @hosonayumu

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