レクイエム (とどかなかった背中)

帆尊歩

第1話  レクイエム

一人の女が死んだ。

女は市民文化会館のコンサート会場で死んでいた。

死因は不明。

こういう場合は心不全と言われる、心臓が止まるから心不全。

原因が不明でも、心臓が止まったことは事実だからだ。

司法解剖でも、死因は特定されなかった。

強いて言えば、衰弱死といえるだろうか。

女は三十前後と思われた。

でも、身元を示す物を何一つ持っていなかった。

免許証はいうにおよばず、クレジットカードや保険証、その他、名前すら分かる物も持っていなかった。

携帯すら持っていない。

あえて身元が分からないように、全てをどこかに置いてきたのだろうと思われたが、そもそもそいう物を持っていたような痕跡もなかった。

市民合唱団の定期演奏会なので、親族、友人、知り合いが観客のほとんどを占める。

誰も女のことは知らなかった。


女は美しかった。

ショートヘアーで、茶をベースにしたシックなワンピースを着ていて、ブランドのバックを持って、結婚指輪をしていた。

裏にはyuri kimihikoと刻印されていた。

それだけ見ると女の名前はyuriだと思われた。

そして既婚者で、夫はkimihikoと言うのだろうと推測が出来たが、kimihikoはまだしも、yuri と言う名前は平仮名、漢字、特に漢字にすると膨大な該当文字があり、特定することは不可能だった。

防犯カメラを確認すると、女は開場後すぐに現れた。

誰かと来たという印象ではなく、まるで近くを通ったので、ふらっと立ち寄った感じだった。その日は市民の有志による合唱サークルの発表会だった。

合唱サークルとはいえ、団員は100人近くが在籍していて、半数が音大を卒業していた。その他の大半が、何らかの形で音楽に関わった人達だった。

会場は市民文化会館。いくつかの会場を有する市内でも大きな施設で、通常はプロの演劇や演奏会で使われる。

小ぶりではあるが、本格的な会場だった。

そこを借りて行われる年一回の発表会は、市民オーケストラも巻き込み、入場料まで取る本格的なものだった。

とは言え、観客のほとんどが関係者とその親類縁者だった。

女はふらっと現れた。

係の者が、女に「チケットを」と言うと、「持っていない」と言う。

女はその場で千五百円を払って会場に入った。

観客の大半が、関係者とその家族だと、当日券を買い求める客は異質である。

女が座った席に近い観客や、その席を写す防犯カメラの映像を確認すると、女は初め微動だにせず合唱に聞き入っていた。

軽くシートに寄り掛かりながらも、姿勢がよく、聞き入るというより、真正面から向きあっているように感じた。

演目はモーツアルトのレクイエムだった。

第一部のレクイエム、休憩になっても女は席を立つことをせず、二部が始まると、女は力尽きたように寝ていた。

寝ているように見えた。

演奏会が終わって、観客が席を立つ。

でも女は眠ったままだった。

他の観客は演者の親類縁者だったので、演者がラウンジに挨拶に来るので、先を争ってラウンジに出て行った。

だから女が寝ていることに気付いたのは、会場の後片付けがあり、鍵を掛けるため、忘れ物などを確認にスタッフが近づいたときだった。

スタッフの話によると、女の寝姿はあまりに美しく、起こすことをためらうほどだった。


当然女は司法解剖へと送られた。

解剖を担当した法医学者が、女を裸にして解剖台に乗せたとき、そこにいたすべての人間が息をのんだ。

女の体はあざだらけで、小さな傷や打撲の跡などにまみれていた。

誰が見ても、子供であれば幼児虐待を確信するレベルの惨状だった。

ただどれも本当に古い傷で、それでいながらこんなにも痕跡が残っているのは異質だった。もしこの女が、苛烈な幼児虐待を受けていたとしても、もう少し治癒していてしかるべきだったが、これほど痕跡が残るほどの虐待を、子供の時にされていたのであれば、この年まで生きていることは奇跡に近い。

そしてさらにそのことを裏付ける事象としては、おそらくストレスだろうと思われる胃潰瘍の跡が胃の中に無数にあった。

これは長年にわたるストレスで胃潰瘍を発症し、それが治り、またストレスで胃潰瘍が出来る。その繰り返しが、驚くほど長く続いた事の表れだった。

肝臓も腎臓も、ほぼ全ての臓器が機能低下に陥っていた。

それは頭にもだった。脳にはくも膜下出血と、脳溢血の跡があった。

若く脳が柔軟だったおかけで、大事には至らなかったが、これも子供の時、日常的に揺さぶられたり、叩かれたりと言う証拠でもあった。

これらのことは、言うならばこの女の体はボロボロだったと言うことだった。

明確な死因は特定されなかったが、心不全に至った原因は多臓器不全、そしてそれは衰弱による物だった。

これだけ各臓器、そして体の外に痕跡がありながら、治療という痕跡は一切なかった。

想像するにこの女は、子供の時から長年に渡り、苛烈な虐待を受け成長した。

でも、それからも大きなストレスを受け続け、段々に臓器をむしばんでいった。

その辛さは筆舌に絶する。

むしろ、一瞬の苦しみですむ事件事故の方が、よほどマシと思えるほどだった。

女にとって、レクイエムを聞きながら眠るように死んだのは、苦しみからの解放、救済だったのかもしれない。


女は一冊のノートを持っていた。

そこに描かれていたのは、彼女の創作なのか。

手記なのか。

日記なのか。

告白なのか。

懺悔なのか。

遺言なのか。

誰にもそれは分らなかった。

唯一の本人を特定出来るものとしてのノートを担ぎ込まれた法医学教室の研修医が勉強のためと称して、コピーをとった。

コピーをとってから、もしコピーをとっていた事が他の人に知られれば、厳しい叱責を受けると考えた研修医は、全てを隠匿する事にした。

つまりコピーなどとっていない。と言うことにした。



通称 

川嶋祐理のノート


この私がこんなノートを書くなんて、今まででは考えられなかったこと。

だって私は、字なんて書けなかったんだから。

母は、父のDVに苦しんでいた。

だから、何度も私を連れて、保護シェルターに避難した。

そもそも、私が生まれたのも保護シェルターだった。

母は父に居場所が知れるのを恐れて、私の出生届を出さなかった。

だから私は、この国に存在しない子供だった。

母と保護シェルターに避難する。父に見つかり連れ戻される。

そしてまた逃げる。

その繰り返しだった。

そして家に連れ戻されている間は、母と共に激烈な虐待を受けた。

それは性暴力はいうに及ばす、ありとあらゆる虐待を受けた。

それは、私の方がより非力と思われたのか、母より多くの虐待を受けた。

でも母も助けてくれない。

母も自分への暴力が、わたしに向けられて助かったと感じていた。

無国籍の私には、当然行政的な支援は何もない。

だって、戸籍上私は存在しないんだから。

ろくに食べ物も与えられず、面白半分で、暴力を振るわれる。

腹を蹴られ、苦しくて嘔吐しても、誰も助けてくれない。

そこら中に胃液だけの嘔吐物をまき散らかし、ゴミ屋敷となっていた家の片隅でうずくまっていた。


あるとき、母が私に茶色い小瓶を見せた。

母はそれはお守りだという。

その日私は夢を見た。

広い背中の男性で、私に背を向けて、去って行こうとする。

私は何かを叫んだ。

それは優しい父親に助けを求めていたのか。

その背中に手が届けば、安らぎの世界に行けると信じてだった。

でもその背中には、決して手が届かない。

届かないと言うことは、私に救いはないということか。

ならば自分の手で、切り開かなければならない。

私は父を殺害した。

隠し持っていた包丁を、父の腹に刺した。

父は獣のような叫びを上げた。

私はその叫びが恐くて、さらに包丁を父の腹に突き立てる。

何度も。

何度も。

そしてしばらくすると、目の前には、かつて父親だったはずの肉の塊が転がっていた。

母は、私に茶色い小瓶を持たせると。

「逃げろ」と言う。

私は逃げた。

すると母は家に火をつけた。

母が私の罪をかぶった瞬間だった。

そして私は、いないはずの子供だったので、誰も私の存在に気付かなかった。


私はとりあえず全てを失い、茶色の小瓶以外、何一つ持たずに放り出された。

外はすでに深夜で、燃えさかる家の方角だけが、炎とサイレンで騒がしかったが、私にはそんな事はどうでもよかった。

私を視界に入れた人は皆無であり、私は何時間も深夜の住宅街をさまよった。

既に生きる気力も意味もなく、人として存在しないくせに、殺人、それも親殺し。いや、戸籍が存在しないから、親でもない。

どうでもいい。

むしろこのまま野垂れ死にたいと、私は思った。


私は一つの家の門が開いていることに気付いた。

早く倒れ込みたかった。

そのまま死んでしまうのもいい。

でも死ぬにしても誰かに見つかれば、どこかに連れて行かれる。

私は開いた門の内側の外から死角になる所にうずくまった。

そこには、おおきなゴミ袋が置かれていた。

生ゴミの袋だ。

それは私にとっていいクッションになった。

生ゴミは暖かかった。

柔らかく、気持ちが良い。

生ゴミの匂いは気にならなかった。

体液と返り血を浴びた私の方が、もっと強烈な異臭を放っている。

空腹だったが、生ゴミは食べなかった。

いつも父から与えられていた物に比べれば、まだましなくらいだ。

ゴミくずのような私にとってはむしろごちそうだ。

でもこれを食べてしまったら、私の命はまた続いてしまう。

私はそのままうずくまった。

この家は大きいが、荒れ果てていた。

空家かとも思ったが、生ゴミが捨てられていることで、そこには人が住んでいることがわかった。

出来れば、住人に見つかる前に死んでしまいたい。

それならさらに好都合だ。

私はそのまま意識が遠のいていった。

このまま死んでしまえたらどんなに楽だろう。


私は目が覚めてしまった。

まだ私は死ぬ事も出来なかったようだ。

辺りは明るくなっていた。

でも門の内側の死角になるところだったので、誰にも見つからずにいられた。

目が覚めても、あたしの体は鉛のように重く、うずくまったまま、起き上がることも出来なかった。

空には青空があった。

空はこんなにも明るく青いんだと思い、最後にこんな空が見れて良かったと私は思った。あとどれくらい生きれば良いのだろう。

私は早くこの世界からいなくなりたかった。

そしてもう一度私の意識は遠のいて行った。


次に目が覚めたとき、あたしは無理矢理強い力に引きずられるようにして、家の中に連れ込まれた。

そして風呂場につれて行かれて、その風呂場のタイルの上にそのまま放置された。

次に目が覚めると男性の声で

「おい、服を脱げ。汚いからシャワーを掛けるから」と声をかけられて、大きなお世話と思ったが、あたしは言われたとおり服を脱いだ。

そのまま湯船の中に座らせられて、シャワーを掛けられると、いつのか分らない性的虐待の液体とトイレにも行かせてもらえない監禁状態での、糞尿の乾いた汚れ、父に包丁を突き立てたときの、返り血の塊がすこしづつ剥がれいったが、らちがあかないと思われたのか、無造作に体中を洗われた。

シャワーを掛けられるのは、いつくらいぶりだと考えた。

ある程度綺麗になると、

「あとは自分でやれ」と言われ、シャワーを渡された

「タオルと着替えは置いておくから、着ていたものも洗っておけ。乾かすから」と言われた。

私は言われたとおり、もう一度きちんとシャワーで体を洗った。

こびりついた汚れはそう簡単には落ちなかったが、そのついでに私は着ていたものを裸のまま手で洗った。

とはいえ、ほとんど服の形を維持していなかった。

私は裸でバスタオルをまいたまま、男の前に立った。

いったいどうしたら良いのかわからなかった。

それが川嶋の父との出会いだった。


川嶋家には、一ヶ月くらい世話になった。

川嶋の父は私になにも聞かない。

でも私は無国籍のうえ、子供の頃からの壮絶な虐待の報復で、実の父親を殺害し、その罪を母親に負わせて逃げてきた。

いくら私は無国籍で、私の存在は警察に知られてはいないとはいえ、川嶋の父にも迷惑が掛かる。

私は川嶋の父に、私を施設に入れてくれるように頼んだ。

この家には部屋から出てこない、引きこもりの娘、祐理がいた。

部屋から出てこないから、私と顔を合わせることはなかったが、やはり何処で鉢合わせをするか分らない。

川嶋の父は、いくつかのつてで、「ひまわりの里」という虐待を受けてきた子供を専門に保護する施設に私を入れてくれた。

「ひまわりの里」もひどいところで、虐待で心と体に大きな傷を負った女の子達ばかり、十人が収容されていた。

下は三歳、上は十六歳。

その時私は十四歳だったから、お姉さんが出来たことになった。

でもそこの施設長は、女の子達に売春をさせていた。

頭で売春が良くない事と分かっていても、虐待で心と体に大きな傷を負った子供達にそれにあがなう術はない。

だから私は、母からもらった小瓶で、施設長を毒殺した。

人を殺したのにみんなから感謝された。

みんな口裏を合わせて、施設長は服毒自殺を図ったという事にしてくれた。

まさか人を殺して感謝されるなんて、と私は思った。

結局私は、この「ひまわりの里」にはいなかったという事にして、川嶋家に戻ることになった。


その頃、川嶋の父は、娘祐理との関係に悩んでいた。

私と同じ歳の娘祐理は、学校にも行かず、世間とのつながりを一切絶ち、川嶋家の二階から出てくることはなくなっていた。

川嶋の父も、祐理になんの愛情も無くなっていた。

川嶋の父がかわいそうで、私は祐理を、母からもらった茶色の小瓶で毒殺してあげた。

川嶋の父と、庭に穴を掘って遺体を埋めると、晴れて私が川嶋祐理になった。

そこから私は、川嶋祐理の戸籍で、学校に通い就職した。

そして長い年月が過ぎ、二十八歳になった私は、公彦と婚約することになった。

三人を殺した私が、幸せになって良いのだろうか、いえ、なれるのだろうかと思っていた矢先、経済的に没落した川嶋家が競売に掛けられて、庭から本当の祐理の白骨遺体が見つかってしまった。

その時点で私は、川嶋祐理でもなくなったしまった。

やはり三人も殺した女は、幸せにはなれないと思った。

私は公彦の前から姿を消した。

公彦は私のことを血眼になって探すだろう。

でももう公彦には近づいてはダメ。

でも公彦は絶対に全てを投げうって、私を探してくれる。

そんな事はさせられない。

そう、公彦に私を諦めさせるには、私自身が消えるしかない。

私は死に場所を求めてさまよった。

すると市民楽団でレクイエムをやっている。

なんて私にぴったりなんだろう。

誰か私に鎮魂の歌を、いえ、そんな贅沢は出来ない。

私は、レクイエムを聴きながら、母からもらった茶色の小瓶を取り出した。


ノートはそこで終わっていた。



法医学教室の、遺体保存用の冷蔵庫には、一時期川嶋祐理と名乗っていた女の遺体があった。

引き取り手のない身元不明の遺体。

研修医はその美しさに心を奪われた。

そして語りかける。


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レクイエム (とどかなかった背中) 帆尊歩 @hosonayumu

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