8-2 なぜ、あの死体はイグアナになれなかったのか
綾乃から、海に行こうと提案をされた。
空は本当に青かったけれど、海の青さはまだこの目で確認していない。
二つ返事で了承する。次の日曜日に遊びに行くことになった。
電車を乗り継いで、江戸川区にある葛西臨海公園駅で降りる。
改札口近くの自販機で、ペットボトルのお茶を買った。
階段下の噴水広場を通り、高架の上を真っすぐ歩く。灰色のレンガ道を行くと、海が一望出来る広場へと到着した。
海沿いには遊歩用の道路が伸びている。家族連れが多い。園内にある観覧車に乗りたいとせがむ子供が、父親の服の裾を引っ張っているのが目に入った。
道路を挟んで陸側には、青々とした芝生が広がっている。
子供が鬼ごっこをするには丁度良さそうだ。
四條家のキッチンカウンターに置かれている家族写真と、同じ風景だった。
沖に面したベンチを見つけて、二人で腰を掛ける。
綾乃の視線は、水平線の向こう側へ投げ出されていた。
僕から綾乃に臨海公園に行きたがった理由を尋ねるのは、野暮というものだろう。
海は青かった。空よりも深い青さである。
僕らが体験した苦悩をこの場で打ち明けても全て受け止めてくれるような、そんな懐の深さを感じさせるほどの、雄大な青さであった。
「法医学会との打ち合わせはどうだったのよ」
「根掘り葉掘りって感じ。今までの診療内容だとか、どんな死体処理をさせられていたのかとか」
「それって喋っていいやつ?」
「警察経由の紹介だし、特に口止めもされなかったからね。逆に口止めをされているのは、学会側の人たちなんじゃないかな。ともあれ、やり取りは順調だよ。僕が持て余している経験や知識の使い方も、相談に乗ってくれるみたいだ」
戸籍と居場所は得たが、今の僕にはこれといった肩書がない。家事専業と主張すればニート呼ばわりは回避できるものの、帰するところ無職である。
医師免許を持っていないのが痛手だった。
ゆえに、学会や専門家からの相談の申し出は有難かった。
まずは高認試験なるものを受けるべきと勧められ、今は猛勉強中である。
「雑談をする時間もあったから、蟲やイグアナが見えていたことも話してみたよ。薬物依存症の話で盛り上がったけれど、幻視や幻聴一つで、もっと多くの病気を列挙しないといけないとも教わった。いわゆる臨床診断推論だけれど、精神医学についてはズブの素人だったから、雑談一つとっても新鮮だったかな」
「イグアナね。懐かしすぎて、あの喧噪が何年も昔のように感じる。まだ半年も経ってないはずなのに」
「忙しかったからね、お互いに」
自宅のキッチンカウンターには、写真立てが二つ増えている。
紗那ちゃんと勲矢さんの遺影である。
仏壇はまだ設えていないが、一周忌に併せて、リビングの向かいにある和室にスペースを作る予定だという。
余談だが、紗那ちゃんから綾乃宛に別途で遺書があったらしい。
中身は知らない。探るものでもない。
「こう聞くのもなんだけど、私ってどのくらいイグアナ然としていたの? 漫画とかでもよくあるじゃない。獣人みたいなさ。完全に獣が二足歩行しているパターンもあれば、耳と尻尾だけが、人間に引っ付いているってのもあるでしょ」
「よくある話なのかは僕には知る所ではないけれど、綾乃の場合は九五パーセントのイグアナ率だった。残りの五パーセントは、言葉を喋って、二足歩行をしていたあたりかな」
「そんな奴が押しかけてきたのに、よく冷静でいられたわね」
「あれが冷静に見えていたのなら、綾乃の目は節穴だよ」
「褒めてんのよ。私の目からして冷静に見えるくらいに、あの頃の理人は、他人との間に壁を作る能力に秀でていたのでしょう。蟲が見える話にしたって、何年も誰にも発覚されずに過ごせるってなかなかじゃない」
慣れである。
「なんで私がイグアナに見えていたのかって話、前にもしたけど覚えてる?」
「もちろんだよ」
美しいものや、生き生きと輝いているものが、人外や蟲といった異物として把捉されてしまう。紗那ちゃんは既に息を引き取っていたため、どれだけ美しい容貌をしていようが、腐食する運命にあるからこそ、その条件から弾かれていた。
そういう話だ。
「あれから私も色々と頭を巡らせてみたのよ。考察の軸に大きな変化は無いけれど、それでも前にした話だと、考察としては不完全だったから」
「それは是非とも拝聴したいところだね」
「早速だけれど、あんた紗那に恋なんかしてなかったでしょ? ぶっちゃけ」
なんてことを言うんだ。
とか。
三カ月前だったら、憤懣やるかたない様子で反駁していたのだろう。
「いつから気付いてた?」
「前にこの話題を振ったときには既にね。だいたいさ、一目惚れした相手に対して腐った死体呼ばわりしたのに、怒らないってどういうことよ」
「イラっとはしてたかもしれないだろう」
「他にもあるわよ。せっかく写真を渡したんだから、毎晩キスするくらいの気持ち悪い奇行を、わざと人前で見せつけるくらいの気概は見せなさいって」
「僕は気持ち悪くはないから、そういうのはしない」
「人様のお姉ちゃんの死体を見て、一目惚れをしたとかカミングアウトしてくる奴の気持ち悪さをご自覚頂けてないとは、恐れ入るわ」
「でも、そうなんだよな」
「何がでもなのか」
「一目惚れはしていたんだ。恋はしていなかっただけなんだよ。美しいとは感じたけれど、あくまでも見てくれだけだったんだ。それを恋とするには些か早急過ぎるし、恋だったと強引に理屈を付けるにしても、あくまでも『四條紗那』に恋をしていたのではなく、四條紗那の造形にだけ恋をしたということに他ならない。性欲ですらなかった。四條紗那という女性に恋をしたのではなく、僕は整い過ぎた造形美に心惹かれていたんだ」
「力説しているところ悪いんだけど、語れば語るほどキモさが増していくわあんた」
綾乃が手に持っていたペットボトルの蓋を開けて、中身のお茶に口をつける。
「私とほぼ同じ身体をした女の身体を褒めているんだものね。間接的に私を褒めているってことにしておいてあげる」
それこそ気持ち悪くはないのか。
「理人の目には、紗那の死体が人間のフォルムとして映っていた。ただ人間としてではなくて、死体という一種の物体として認識していたということなのよ」
「倫理的に頷きがたい節があるけれど、そういう言い方も可能なのかもしれない」
「でも生きている私が、人でも蟲でもなくて、イグアナに見える必要はないわよね」
「賢くて優秀な人間だから、みたいなこと言ってなかったっけ」
「私が賢くて優秀で美しいのは、自他ともに認めるところだけれど、それとイグアナとの因果関係は結べないでしょう」
綾乃は大学でも、こんな調子で学友を威圧しているのだろうか。
僕にだけなのかもしれない。
これが彼女にとっての自然体なのだろう。
「私ね、自分の部屋ですごいのを見つけたのよ」
綾乃がペットボトルを太ももの間に挟み込むと、トートバックからスマホを取り出す。
手早く操作をすると、一枚の写真を見せつけてきた。
分厚い図鑑が撮影されている。三巻セットらしく、厚紙箱の中に収納されていた。
「ここに持ってくるのは骨だから、写真を撮ってきたんだけどさ」
「見覚えがある」
「やっぱりそうなんだ。そんな予感はしてた。刷られたのが丁度二十年前、私と紗那が生まれた歳なのよ。子供の頃に理人が目を通している可能性は、充分にあり得るでしょう」
見覚えはあるが、はっきりとは思い出せない。
ぼんやりと脳内でイメージが浮かび上がっているが、霧が掛かっているみたいに全容が正しく読み込めない。
「この本には、イグアナもカマキリも、理人が見えていたっていう生物が全部載っているの。ねえ、誰かに図鑑か百科事典を買ってもらった経験ってなかった?」
ある。
そんな会話を、事件の幕が閉じられる間際にもした。
そうか、そういうことか。
ずっと疑問に思っていたことが、やっと腑に落ちたよ。
「あるよ。勲矢さんから、子供の頃にプレゼントしてもらったことがある。はっきりとは思い出せないけれど、たぶん同じものだ。二つ買って、僕と綾乃たちに手渡したのかもしれない」
僕の運命は、勲矢さんと子供の頃に出会っていた時点で、定まっていたのだろう。
「そう。んで、肝心の写真がこれ」
綾乃がスマホを引っ込めて操作をする。
僕の顔の前に掲げる。
見慣れた生物のカラー写真が、四角形の枠に収まっていた。
──イグアナ。
──夢占いでは『幸せの象徴』として扱われることもある一方で、『忍耐』を意味する場合もある。
──多くは温和な性格をしているが、個体にとっては非常に臆病なこともある。気が荒く、飼い主に噛みついたり爪を立てたりする姿も、まま見られる。
生息地や生物学的特徴なんかも記されている。
この文章が、知らず内に頭の中に刻まれていたのだろうか。
だとすると綾乃と初めて顔を合わせた時点で、僕はこの子に運命に準ずる知覚を得ていたとも解釈が出来てしまう。
ヤク漬けになって、虹色の空や赤い海を見ていた期間を悪夢とするのであれば、イグアナの姿を模した綾乃は、著しく変化する環境への忍耐と、これから訪れるであろう新たな幸福を示唆していたのだろうか。
運命の相手だったなんて、気恥ずかしくて口にしたくもないが。
それでも、僕を診療所の外に引っ張り出してくれたのは綾乃その人である。
運命だったのだろう。
つまり結論としてはこうだ。
死体に未来はない。幸福も訪れない。朽ち果てて土に還るのみ。
ゆえに、かつて僕が一目惚れした死体は、イグアナにはなり得なかった。
「父さんが図鑑を渡していたのね。脳みそのつっかえが取れて、すっきりしたわ」
気分が良さそうにペットボトルの蓋を開けて、残りのお茶を飲み干していた。
イグアナの性格が綾乃に似ている点は、触れない方が賢明かもしれない。
「そういえば、もう一つ見つけたんだけどさ」
綾乃が指をスマホの上で滑らせる。
「あった、これ見て」
のぞき込む。
「大学の授業でドイツ語もやらされているから、理人の名前を聞いたときにピンとはきてたんだけどね」
──光。
──非電離放射線であり、可視光のものを指す。
──多くの宗教や思想において、形而上の属性として扱われる場合がある。
──粒子と波動の特徴を備える。回析や吸収等もされるが、速度は常に不変である。
──独語
「理人のお父さんも、想う所があって名付けたのかなあって」
自らを犠牲に、僕を外に出そうとしたくらいだ。
闇医者稼業の継承を嫌っていたくらいなのだ。
僕を診療所に繋ぎとめる要素を減らすために、血縁を伏せていたくらいだ。
僕は、父親に愛されていたのだろう。
「シラガ先生、勲矢さんと仲良くやってるのかな」
「先に逝った紗那に怒られてんじゃないの? 可愛い私の妹に苦労をかけないように、ちゃんと遺産相続の手続きをしてから死ねよって」
「紗那ちゃんって、そんなに気性が荒かったんだ」
「んな訳ないでしょ。九割くらいは私が考えたクレームよ。残りの一割は、紗那が私に同調してくれてるっていう期待」
僕の中にある紗那ちゃんのイメージが穢されるところだった。
穢されかけた返礼に、こちらから質問を突き付けてみることにする。
「答えなくなかったら無視していいけど、勲矢さんのことまだ怒ってる?」
勲矢さんは家に戻れなかった。
自首もしていない。そのまま帰らぬ人となってしまった。
綾乃は独り残されてしまった。
「怒ってるし、向こうも私の怒りを察しているでしょうね。とはいえ、死者をなじるのは趣味じゃないわ。許してあげるから、早く神様に『うちの娘の将来を、神の御業で盤石なるものにしては頂けませんか。手始めに世界中の足長おじさんたちに神託を下し、百億円を振り込ませるのが宜しいかと具申致します』くらいの手回しは、抜かりなくやっておいて欲しいものだけど」
腹黒が極まりすぎて、地獄に落とされないよう気をつけて欲しい。
「シラガ先生が横から、勲矢さんに冷静になれって掣肘かけてそう」
「ま、父さんは私よりも賢いから、神に挑むなんて無謀な真似はしないでしょう」
「尊敬はしているんだ?」
「尊敬もしているわね。闇医者っぽいことをするつもりはさらさら無いけど、父さんくらい多くの人を救うのは目標の一つよね。ああ見えて、研究者としても名を馳せていたのよあの人。ホームグラウンドは循環器内科なんだけれど、事件があってから、循環器の学会が大わらわだったらしいわ。査読委員の引継ぎだの、総会運営がどうのだの」
「頼られていたんだね」
「形はどうあれ、人のために動いていた。それは皆が認めるところよね」
僕もそんな存在になれるだろうか。
報われぬ人々にとっての光明になれるのだろうか。
それとも、特定の誰かのために輝けという意味で、この名を付けられたのか。
綾乃がぐっと背伸びをする。
「この話はもうおしまい。今度の連休に遊びにいく場所を決めましょう。何よその顔。面会したときに言ったじゃない。青春を取り戻すの。私ね、一度でいいからあそこ行ってみたかったのよ。えーっと、なんて言ったかな。スマホで調べるからちょっと待ってて。あっこれよこれ……ってちょっと聞いてる?」
僕らの人生は、まだ始まったばかりである。
了
「なぜ、あの死体はイグアナになれなかったのか」 雨矢鳥日済 @amayadorihizumi
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