8-1 終章

 家族はおろか、自分が死のうとも万物は流転をし続け、月日は河川の流れのように過ぎ去っていく。


 道聴塗説も街談巷語も、水面に落ちた枯葉のごとく、あっという間に遠くへと漂流する。水に浮かび揺蕩えば、物好きが拾い、手遊びくらいに小舟を作ったりもするのだろうが、多くは川底へ沈んで土砂の一部となり、人知れず腐っていくものだ。


 四代目近藤組にまつわる報道は、世間を大いに賑わせた。


 闇医者騒動から始まり、その闇医者を強いられていた本人からの告発と、薬剤を用いた数十年に渡る軟禁と殺人事件。そして某国立大学医学部講師こと四條勲矢の、医師法および医療法違反、死体遺棄罪による刑法違反、近藤組組員による殺害である。


 検挙されたのは組長さんのみならず、小平さんを含めた多くの組員が逮捕され、四代目近藤組は事実上の解散となった。あんな大騒動になった挙句、まとめ役を失った組織の運営が継続されるはずもない。そんな情報が一か月以上も何処かしらの放送局のニュースで取り扱われ、週刊誌にも幾度となく取り上げられたと、担当の弁護士から聞かされた。


 その是非について語るのであれば、是である。


 悪い意味で注目の的にはなったが、一時的にでも、日本国民の脳髄に爪痕を残せたのではなかろうか。


 現時点において、それ以上の成果を求めるのは間違っている。


 受け取った人々が、そこから何をどう組み立てるのかは、各々に委ねなければならない。


 行動まで変容させてしまっては、それは洗脳であり強要である。近藤組とやっていることが同じだ。


 二の轍を踏んではならない。


 今までの経験を駆使して、世の中のためになる行いを模索していきたい。


 懲役一年六カ月と、執行猶予が三年。


 医師法違反と、死体遺棄およびその幇助。


 それが僕に与えられた罪状であった。


 ヤクザの世話になっていた割に、このあたりの知識には疎かったのだが、悪事を働いた時点で刑務所に連行されるものだと勘違いをしていた。


 そうではないらしい。


 日本の法務とは思いのほか温情溢れるもののようで、僕ら被告の犯情を考慮し、執行猶予なる見守り期間中に悪事をまた働かなければ、刑罰を帳消しにしてくれるルールになっているのだと、弁護士から教えてもらった。


 味方は多かった。無戸籍問題は法務省から直々に助け船を出してもらい、闇医者時代の仕事っぷりについては、歌舞伎町で働く僕の元患者たちが、街頭インタビューや署名活動でフォローをしてくれた。


 警察からの対応も極めて丁寧で、驚いたくらいだ。


 ここらへんに関しては、裕也さんから教えてもらっていた警察事情と齟齬があった。


 マル暴ポリ公もとい暴力団担当刑事は、修羅か悪鬼かと脅かされていたのだが、留置所で実際にいざ対面してみると、七福神の恵比寿天みたいな恰幅の良いおじさんが現れたのである。拘置所に移されてからは検察官にお世話になったが、同じようなものだった。


 優しくされているのとは、また異なるのだろう。


 どちらかというと、腫物だからこそ、慎重に扱われていたのかもしれない。


 不愉快ではなかった。


 そういう腫物な部分も含めて、自分自身なのである。


 二カ月半もすると、僕はシャバへ戻されることになった。


 それはそれで困ったものである。


 帰る場所なんてないから、野宿でもすべきだろうかと真剣に計画したくらいだ。


 しかし日本という国はやはり温かいもので、頼まずとも僕の将来について専門家が検討してくれるらしい。


 難航はしたであろう。


 なんせ無戸籍にして、無免許医の成人男性だ。


 手に職はなく、貯金もなければ住居もない。


 異世界から流れ着いた漂流者を、どのように食わしていくかというくらいには難問である。不幸中の幸いだったのは、日本語が通じる所くらいだろうか。


 侃々諤々と議論が重ねられたのだろう。その副産物として戸籍の入手にも成功した。


 どうも都内の産婦人科診療所に、僕の母親と思しき女性のカルテが残っていたようで、そのデータをもとに、懐胎時期に関する証明書なるものを手に入れたことが、決め手となったらしい。カルテの保存期間は法律で五年と定められているため、それを加味しても奇跡だと弁護士が熱弁していた。


 おかげで僕は、日本政府からようやく人間として認められたのだった。


 どうやってその診療所を突き止めたのかまでは教えてもらえなかったが、日本の警察官や検察官は、それなりに優秀のようだった。


 裕也さんは、狂犬だの法の猿だのと悪し様に説明してくれていたのだが、どうやら認識を改めなくてはならないらしい。


 こうして僕の立場が固まって行く最中で、一つだけ僕は不満に感じていた点があった。


 綾乃が面談に来ない。


 来る日も来る日もやってくるのは、くたびれたスーツを着て、仏のような微笑みをたたえた中年弁護士であった。


 あの子、面会に来るとか言ってなかったっけ。


 忙しいのかもしれない。


 それはそうだ。


 アイドル活動は終わりになったに違いないが、本分である学生活動は続けなければならない。事情聴取も夜を徹して行われたであろうし、マスコミの対応に追われたのも想像に難くない。


 勲矢さんの葬儀もあったはずだ。紗那ちゃんの納骨もしなければならない。そうこうしている内に試験もあったのだろう。奇異の視線を一身に浴びながらだ。


 綾乃のことだから、どうせ強がって毅然と登校しているのだろうが、心身ともに傷み始めると、ダメージは蓄積されていくものである。


 僕と苦難を共にし、あれだけ傷ついた後だからこそ心配なのだ。


 最後に言葉を交わしたのは、帝国ホテルの一階で、僕が両脇から警察官に抱えられて退場する直前のことだ。


 勲矢さんを、目の前で失った悲愴感は計り知れない。


 魂が抜け落ちたようであった。


 無表情にして無言。


 慟哭すらない。生きたまま死んでいる。精緻なる偶像、その類であった。


 警察官に強制連行された僕は、最後の最後まで綾乃の名前を呼び続けた。人生を諦観した綾乃が、そのまま呼吸を停止させ、死んでしまうのではとすら危ぶんだ。


 暴れて、綾乃の元に駆け寄ろうともした。


 しかしながら訓練で鍛え抜かれた警察官に、僕ごときが敵うはずもない。


 そうして抵抗むなしく、エレベーター横に設置されていた非常階段に連行されたのだが、廊下と非常階段を分かつ防火扉が閉まる前に、綾乃の身体が再稼働を始めたのだった。


 距離が開いていたため、綾乃の呟きは僕の耳にまで届かなかった。


 だが綾乃は僕を見ながら、こう口を動かしていた。


『私は終われない』


 僕の見間違いだとか勘違いだとかと指摘されると自信が無くなってしまうのだが、僕にはそのように見えたのである。


 いま思えば、あの一言があったからこそ、僕は腐らずに出所まで漕ぎつけたのかもしれない。


 家族も職も失った僕の立場は、前科ありの元暴力団関係者だ。まともな人間だなんて評価は到底付けられたもんじゃない。


 そんな僕でもやらねばならないことがあった。


 僕の人生を救ってくれた綾乃に、恩を返さねばならなかったのだ。


 綾乃が終われないと言うのなら、僕だってまだ終われない。


 社会的に害虫同然の扱いを受けようとも、まずは綾乃の絶対的な味方になりたかった。


 まずはそこからだ。


 僕や紗那ちゃんと似た境遇にある人たちを救う前に、他でもない綾乃の支えになりたかったのである。


 だからこそ僕は落ち込んでいた。あれでお別れだったのだろうかと。




 出所日の二日前に、面会室に綾乃が颯爽と現れたときは、つい涙ぐんでしまった。




「泣かないでよ。泣き止みなさい。早く泣き止め。反応に困る」


 面倒くさそうにパイプ椅子に座った綾乃が、偉ぶって腕と足を組みながら、アクリル板越しに不敵に笑う。


 僕の知っている綾乃だった。


「アイドルは辞めたわ。勉強をしながら青春を取り戻す。私は前に進むの。紗那の分まで人生を謳歌してやるわ。ただね、一人暮らしをするには広すぎるのよあの家。売るのも勿体ないし、部屋も持て余しているから使ってくれていいわよ。私は気にしないから」


 僕が気にする。


 見目麗しい妙齢の女が、執行猶予つきの男と同棲するというフレーズが、もうアウトだ。


 数週間ばかり一つ屋根の下で共同生活をしていた時期があるとはいえ、あれは特別な事情下に発生したイベントである。カウントに入れるのは如何なものだろう。


 僕がズレているだけで、外側の世界では普通なのだろうか。


 判断が難しいが、他にアテがないのも事実である。


 僕は、深々とこうべを下げることにした。

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