7-5 うたかたのゆめ

 開けっ放しになっていた大扉をくぐって、出口から外に出る。


 真正面の壁沿いにあるソファに、勲矢さんは腰かけていた。


 見るも無残な暴行後の身体である。


 報道会場を目の当たりにした組員が、ビビって置いて帰ったのだろう。


 勲矢さんは、無事だと言わんばかりに歯を見せて手を振っているが、よくよく見ると右上の前歯が欠けていた。


 廊下側は思いのほか人が少なかった。大扉の手前に並んでいる机の内側で、受付嬢が立っているくらいのものである。ホテルの従業員が出張って、対応してくれているようだ。


 室内にはまだ空席がある。報道陣が全員集まっているとも限らない。この十分の休憩の時間にも、怒涛の勢いで記者軍団が追加されるかもしれない。


 しょぼくれた顔をした綾乃が勲矢さんの前に立つ。会話はすぐに始まらない。言葉の切り出し方を探っているのだろう。


 ぶんぶんと綾乃がかぶりを振ると、いつもの気丈な顔つきに戻った。


「医者、死体処理屋ときて、次はボロ雑巾にでも転職するのかしら」


 覇気のない声で罵る綾乃に、勲矢さんが苦笑いをする。


「酷い言い草だね。この老いた身体を少しは労って欲しいものだ」

「私を正直者に育てたのは父さんでしょう」

「そうだね。子供の頃から綾乃は正直者で強かで、家族思いで、頑張り屋さんだった。今も昔も綾乃は変わらない。私はそんな綾乃に頼りっきりだった」

「そうでもしないと、紗那のサポートなんてしていられなかった。私が自賛するのもなんだけど、紗那のスペアとしては優秀だったつもりよ」

「スペア、ね」


 勲矢さんが天井を仰ぐ。


「スペアなんて考えたことは、一度もないさ」

「よく言うわ」


 綾乃の叱責に、勲矢さんは自嘲した。


「確かに私はロクでもない父親だったのだろう。障害を持った姉子を支えるために、妹子には早熟であれと厳しく接した日もあった。闇医者に堕ちた私みたいにならないように、芯の強い人であれと躾けた夜もあった。子のため、子の未来のため。そう自己暗示をしていたけれども、その全てがエゴだったのかもしれないな」

「出産や育児の始まり自体が、親のエゴイズムから発生するものでしょう。そこに子供の意志は介在しない。それこそ本当に今更の話よ」

「まったく、口が立つ子供を持つと親が大変だ。反論が出来なくなってしまう」

「誇ってくれて構わないわ」


 そんな寂しそうに、視線を落として吐く台詞でもない。


 実の父親を前に、強がる必要なんてないだろうに。


「結果的に、紗那と父さんが描いた絵図通りに物事は運んだのだろうけれど、私が敵地に潜り込んだ甲斐もあって、近藤組が長年隠し通していた診療所の秘密も暴けたわ。父さんが今までやってきた悪行も大体知れた」

「賢さに行動力が伴うと、寿命が縮まる例だよ綾乃は。父親としては誇るべきか悩むね」

「人間はいずれ死ぬものよ。平均寿命から少し差し引いた程度に、太く短く生きている奴が、最も人生を謳歌している人間なんじゃないかしら。もっとも、私よりもよっぽど濃密な生き方をしている理人を前にすると、自分なんてまだまだ人生経験が足りないなって思うけど」


 外側の世界で過ごしてきた人たちからすれば、濃密な生き方に見えるのだろう。


 僕からすれば全く逆である。


 これから僕は、皆に追いつかなければならない。


「勲矢さんも自首するんですよね」

「しない訳にはいかないだろうね。ただ」

「ただ?」

「綾乃をまた独りにするのかと思うと、上手く逃げられないものかなあと」


 戦闘で膝を痛めたらしい勲矢さんが、足をかばいながらソファから立ち上がる。


「犯してきた罪が罪だから、執行猶予が付くのかが微妙なんだよ。死体遺棄の幇助とか以外に、暴対法にも引っかかるかもしれない。罪は雪がないといけない。けれど守り続けなければならない人もいる。ジレンマだ。ほんと、上手に立ち回ろうとすればするほど、こじれていく。天網恢恢、ここらが締め時なんだろうな」


 罪は雪がねばならない。同感だ。


 僕は潔く自首に踏み切れる。勲矢さんの立場とは異なる部分が多すぎる。


「私は引き留めない」


 ぴしゃりと言い切る綾乃だった。


「引き留める理由がないもの」

「手厳しいね」

「罪は償って」

「もうじき警察が来るはずだ。そこで両手首を差し出すつもりだよ」


 乾いた笑い声を出した勲矢さんが、右足を引きずりながら階段の方へ足を向ける。


「綾乃には迷惑をかけっぱなしだ。私が罪を償う間にも、マスコミは濁流のように押し寄せてくる。日常が戻ってくるのは大分先だろう。もしかしたら一生この事件が後に付いて回ってくるかもしれない。なんせ闇医者の娘と公に報じられるんだ」

「そういうの、いちいち言葉にしなくていい」

「綾乃は私を恨むべきだ。その権利がある。その方が前向きの人生になりやすくなる。黒い感情は力になる。綾乃はもう大人だからね、自分で物事を考えて動ける年齢だ。親と子ではなく、もはや一人の人間と人間だ。憎悪や殺意を抱いていても私は怒らないよ。悲しくはなるけれど、それで子供が前に進めるのなら、この痛みは甘んじて受け入れるべきだ」

「やめて」

「私はね綾乃、今日ここで君に殺されるんじゃないかって、覚悟をしていたんだ」

「ふざけないで」


 声帯を潰すような重たい声だった。


「ふざけないでよ」

「綾乃?」

「私はそんなこと望んじゃいない! なんで一人で、どんどん勝手に考えを進めていっちゃうのよ。相談くらいしてよ。一回くらい相談してくれたって良かったじゃない! 紗那のことだって父さんはいつも一人で抱えこんで、私を除け者にして。父さんがそんなだから、私は空気を読むようにもなるし、早く身を立てなきゃって頑張るに決まってる。怒ったし悲しかった。でも私たちは家族でしょう? 早く罪を償って家に帰ってきて、やり直そうって、どうしてそう思えないの?」


 父親を嫌っているのなら、その行方を追ったりはしない。いつでも部屋を使えるように、掃除しておいたりなんかしない。家族三人が仲睦まじく写っている写真だって、未だにリビングに置かれたままだ。


 家に盗聴器なり監視カメラなり仕込んでいたのなら、自分の子供の気持ちくらい察してあげなよ。


「勲矢さん。綾乃にとって直接言葉を交わせる家族は、もう勲矢さんしかいないんですよ」

「私は駄目な親なんだ。どの面を下げて、こんな賢い娘の親を気取れっていうんだい」


 僕は勲矢さんの肩を引いて、力任せに振り向かせた。


「綾乃にとっての父親は勲矢さんだけなんです。子供は親を選べません。たとえ親がヤクザだろうが闇医者だろうが犯罪者だろうが、子供にとって親は親なんですよ。その子供が、親とやり直したいって言ってるんです。人前で弱みなんか絶対見せない綾乃が、あんな泣きそうな顔で貴方を頼ってるんですよ。普通は逆でしょう、親が手を差し伸べるのが先でしょう。綾乃は勲矢さんが戻ってきて、家族をやるのをずっと待っているんですよ」


 それはもう、僕には叶えられない悲願だ。


 幻想であり夢物語だ。


「まだやり直せます。自分の子供のこと、もっとちゃんと見てあげたらどうですか。何が子供の頃から正直者で強かですか。僕の方が綾乃のことを良く知ってますよ。この子はそんなんじゃない。弱さを周りに見せないようにしているだけで、強がりで見栄っ張りな普通の女の子なんだ」


 涙もろいくせに、それすら我慢して、陰でこっそり泣いているような子だ。


 誰よりも家族を大切にしている、けなげな妹だ。


「子供の我がままくらい、叶える努力をして下さい。死んじゃったら、我がままを聞くことすら不可能になるんですから」


 裕也さんには結局、あの一回しか我がままを言えなかった。シラガ先生に至っては記憶すらない。親や兄貴らしいことをさせてあげられなかった。


「私、ずっと待ってるから。面会にも行くから。父さんにも、理人にも会いにいくから」


 縁を切ろうとしたことなんて、綾乃には一度もないのだろう。


 失踪した勲矢さんを追っていたのは、愛する家族を𠮟りつけるためだったのだ。


「心配しないで。これくらいの苦境なら、私は乗り越えられる」


 口元を緩ませた勲矢さんが、綾乃の頭に手を乗せる。


 くしゃりと乱暴に撫で回していた。


「大人になったんだな」


 手を離す。


「出頭ついでに下に来る警察を出迎えてくる。記者会見の続きは任せてもいいかな」

「僕も追って出頭します」

「一人じゃないのは心強いね。先に行って、パトカーのシートを温めておくよ」


 ひらひらと背中越しに手を振った勲矢さんが、痛めた足を引きずりながら絨毯の上を歩いて行く。支えてやりたかったが、僕には僕のすべき仕事がまだ残っていた。


 勲矢さんには、勲矢さんがすべき仕事がある。


 またすぐに会えるはずだ。


 それが刑務所でなのか、四條家でなのかは分からないけれど。





 嗚呼。


 長く濃密で、恐らく一生涯で最も苦難と血に満ちた数週間であった。

 ようやくこの物語も幕を下ろすらしい。





 僕も出頭し、法の下で罪を雪がねばならない。


 真の姿を現わしたこの世界で、残りの人生を使い果たすのだ。


 これは僕が新しい人生を始めるための、生まれ変わるための、必要不可欠な過程なのだ。


 エレベーターホールにいる勲矢さんが踵を返して、廊下に佇む僕らに手を振る。


 あとは宜しくと。


 悪い憑き物が落ちたような、清々しい微笑みだった。







 それが勲矢さんの最後の笑顔だったなんて、どうして予想が出来ただろう。







 勲矢さんの表情がきつく歪む。


 口から赤い血液が、滔々と溢れ出した。


「うっ、ぅあぁあ」


 背を丸めながら、脇腹を押さえている。


 脇腹には、銀色のナイフが深く突き刺さっていた。


 エレベーターのドアが開いている。


 誰かがいる。勲矢さんの背後に立っている。


 いきりたった小平さんが、ナイフを勲矢さんの脇腹に突き立てていた。


「お前が全部悪いんだ。裕也の兄貴も紗那ちゃんも、全部全部全部、お前が奪っていった。お前が全ての元凶だったんだ」


 脇腹にねじ込んだナイフで、内臓をかき回す。


「酷いじゃないですか、酷すぎますよこんなの。ううううぅぅ……何の権利があって、われわれが大切に想っていた人たちを殺したんです? ……自分は許しませんよ。周りが許しても、自分だけは、お前を許しませんからね。幸せになんかしてやりません。お前が望む幸福な未来なんて、絶対に認めてやるものか!」


 勲矢さんが口から大量の血液を吐き出すと、小平さんはナイフを引き抜いた。


「やった、やったよ紗那ちゃん。これでハッピーエンドだね、へへへ」


 血塗れになったナイフを投げ捨てて、階下へと走り出す。


 足を踏み外して転がり落ちていった。甲高い笑い声を置いて姿を消していく。


 勲矢さんが床に倒れる。血が止まらない。絨毯が血液を吸い込んでいく。血液が流出し続けていく。背後からあがった誰かの悲鳴に弾かれて、僕は走りだした。


 関節が悲鳴をあげている。身体は既に満身創痍だ。倒れてしまいそうだった。絨毯に膝をついて身体を起こしてやる。動かない。勲矢さんが動かない。あたりは血の海だ。僕の手が赤く汚れていく。


 勲矢さんが咳き込む。赤黒い喀血が僕の頬まで飛散した。


「ほら、な。天網恢恢疎にして、漏らさず。言った通りに、なった」

「喋らないで! 綾乃、すぐに救急車を! 綾乃!」


 僕の横で勲矢さんに縋りついた綾乃が、ひび割れた声をあげて泣いている。


 父さん、父さんと。


 咽び泣いて気が狂いそうになるのを堪え、救急車を呼ぶべくスマホを手にしていた。





 どうして世界は、僕たちにこうも辛く当たるのだろう。





 これ以上、この子を壊さないであげてくれ。





 僕は自分のワイシャツを全力で引っ張って、圧迫止血用の布を調達した。ボタンが全てはじけ飛ぶ。急いで脱いで、勲矢さんの脇腹を圧迫する。


「ついに自分にも、ツケが回ってきた、ということか」

「死なないで下さいよ、これからなんですよ」


 右手で圧迫止血をしながら、左手で頸動脈に触れる。


 拍動が弱くて速い。このままでは、失血死してしまう。


 勲矢さんが口角から血を垂れ流している。左肺か消化管を損傷しているのだ。


 あまりにも致命的であり、殺人的だった。


 救えない、救われない。


 道具がなければ、医者は人を助けられない。


「シラガ先生に、久しぶりに、怒られるかな。来るの早ぇよ、って」

「逝かせません、逝かせるものか。誰か清潔な布とAEDを持ってきて! 早く!」


 がくんと、勲矢さんの身体から力が抜ける。


「勲矢さん、勲矢さんってば! まだ駄目です、まだ逝ったら駄目なんです!」


 身体を揺さぶる。頬を叩く。反応がない。


 勲矢さんの身体を床に安置して、ただちに心臓マッサージを開始する。


 胸骨に両手を当てて、垂直に体重をかける。


「死ぬな! まだあんたを必要としている人がいるんだ!」


 シャッターの音がした。


 一つだけではない。


 何回も何回も何回も。


 僕は、心臓マッサージをしながら後ろに首を回した。


 異常事態を察知した記者たちが、僕らを取り囲むようにしてカメラを構えている。


 ふざけないでくれ。


 人が死にかけているんだぞ。


「手を貸して下さい!」


 罪人を浄化せんとばかりに、眩いフラッシュが僕の網膜を焼く。


「なんで、なんでなんだよ」


 外側の世界にいる人たちが、興味深そうに僕らを観察している。


 柵の外側から動物を眺めるように、レンズ越しに僕らの挙動を愉しんでいる。


 撮った写真は、明日の朝刊に使うつもりなのかもしれない。


 よその世界の住人が、一悶着の末に流血したと報じるのだ。


「助けて下さい! 僕らに力を貸して下さい!」


 彼らとは生きている世界が違うのだ。


 悟っていない振りをしていた、こんなこと悟りたくもなかった。


 人生をやり直すなんて、生まれ変わるなんて、土台出来っこないことなのだ。


 どう足掻いても、僕らは世界の暗部で息をしてきたドブ臭い生き物でしかない。


 普段見慣れない害虫の生態は彼らにとって、大層興味深いものなのだろう。


「教えて下さい、誰か答えてくれませんか」


 勲矢さんの身体が冷たくなっていく。血色はとっくに引いてしまっていた。それでも僕は手を休めない。


「僕たちは一体なんなんですか。僕たちは、いつになったら人間になれるのですか!?」


 疲弊した身体と摩耗した精神のせいで、意識が霞んでいく。心臓マッサージに全集中する。記者たちから返事があったのかもしれない。助けもあったのかもしれない。覚えていない。無我夢中だった。人を助けたくて、それ以外の身体機能を全て置き去りにした。




 悪夢からは、とっくに醒めていた。




 ただ僕らの生きる現実が、無情で冷徹で、どうしようもなく厳しいというだけで。


 己を再認識しろと、悔悟しろと、森羅万象が僕に訴えかけてくるのだ。


 お前は無力だと。


 どうしようもなく無力な、ちっぽけな生物なのだと。


 非力であるが故に地べたを這いずり回り、そこから虹色の空を見上げ、届きもしない至高の幸福を妄想し、わずかな跳躍により掴んだ宙宇の切れ端で欣喜雀躍とし、その矮小な身で、無常に過ぎゆく日々を受け入れろということを。




 十二分後、ようやく救急隊員が現場に到着する。




 勲矢さんは、こと切れていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る