7-4 僕が始めた物語の終着点

 三階に到着する。肺への負担が一気にかかって呼吸困難に陥る。


 ゆっくり息を吸って、お腹に息を溜めて吐く。


 久しぶりだな、この綾乃に教えてもらった呼吸法を使うのは。


 我ながら、随分と無茶をしたものである。


 もし死んでしまったら、綾乃はどんな顔をするだろう。


 僕のために泣いてくれるのだろうか。


 そう考えてしまうのは僕の自惚れなのかもしれないが、泣いてくれたら嬉しいなと妄想するくらいには、僕にとっては、数少ない心の支えになっていたらしい。


 自分には何も残されていないなんて、嘘だった。


 こめかみから汗が流れる。呼吸を取り戻した僕は再び走り出した。


 絨毯の上をまっすぐ走行すると、人だかりがあった。壁にかかっている案内表示いわく、この先に富士の間があるらしいが、人の壁が行く手を阻んで進めそうにもない。


 ネックストラップ付きのカメラを携えている人が、一見しただけでも五人はいた。肩に背負うくらい大きなカメラを担いでいる人まで紛れている。長い棒の先にマイクがついた装置を抱えている人もいて、これから記者会見でも始めるのかという様相だ。


「あれも撮っておけ! 他の局が来る前に本社へデータを回すんだ!」


 僕に向かって、一斉に大量のフラッシュが焚かれる。


 眩しい。目が焼ける。たたらを踏んで足を止めた僕は、すぐに腕で目を覆った。


 どうなっているんだ。


 カメラのシャッターが、ひとしきり鳴り終えてから腕を退かす。


 襲撃してくるのでもなく、誹謗中傷の言を暴投してくるのでもない。しかしこれからやってくるヤクザの追手から、僕を守ってくれるのでもなさそうだった。


 ひとしきり撮影を終えて満足したのか、僕の厳しい目つきを嫌ったのかは定かでないが、人だかりが黙って道を開けてくれる。


 肩にカメラを担いだ人だけは、ずっと僕にレンズを向け続けている。


 僕に害をあだなす連中でなければ、この際なんでもいい。


 人垣の間を走り抜ける。左に曲がる。煌びやかな装飾のついた大扉が四つあった。


 閉め切られている。この奥が富士の間らしい。


「止めなくていいんですかあれ」

「入れろって言ってただろ。関係者なんじゃないのか。会わせてやりなよ」


 誰かがこの先で待っている。


 乳白色の大扉の前には、通路を象るように白布がかかった長机が、二つずつ設置されていた。入場者用の受付のようにも窺えるが、係員らしき存在は見当たらない。


 勲矢さんは、この中に全ての答えがあると言った。


 胸ポケットから、紗那ちゃんの写真を取り出す。


 診療所から脱走したときも、四條家の物置でヤクを抜いたときも、汗だくになったときも、裕也さんが目の前で殺害されたときも、勲矢さんに再会したときも、常に、常に、紗那ちゃんは僕の胸元にいた。


 くたびれた写真には、すっかり皺が寄ってしまっていた。


 汗に浸かったせいか、インクも汚く滲んでいる。


 この先に、あの子がいる。


 僕がこれから向き合わなくてはならないのは、答えという名の闇だ。


 姉想いの妹と娘想いの父親がいて、アイドルという誰かに愛されていて然るべき職業を担っていて、誰かに求められるような存在であった彼女が、僕と違って影響力もあった美しい女性が、どうして死ななければならなかったのかという、社会の暗部だ。


 死してなお、僕を魅了した若い女の人生が、奇しくも断絶させられたという真実だ。


 そして僕が始めてしまった、始まりの物語の終着点だ。


 大扉の取っ手を両手で握りしめる。


 後ろに体重を掛けながら、両開きのそれを手前に強く引いた。


 扉の隙間から、暖色の照明が差し込む。


 僕はすぐに腕を止めた。


 止めざるを得なかった。


 僕の全身を引き裂くような女の泣き声が、部屋の外側にまで飛び込んできたからだ。


 嗚咽混じりにむせび泣く声が、廊下にまで響き渡る。誰かが脇目も振らずに感情を垂れ流しているらしい。部屋への侵入者に爪を立てて、拒絶をするような悲鳴だった。


 あの子が待っている。


 助けてあげなければならない。


 支えにならなければならない。


 胸中で蠢く痛痒を堪えながら歩く。扉の閉まる音がしない。外にいた連中がドアを開けっぱなしにして、中を覗き込んでいるのだろう。


「これが答えなのか」


 歯ぎしりをする。


「もっと他に、やり方はなかったのかよ」


 最奥にある舞台上には、白い祭壇が設置されていた。


 劇を催せる規模の大きな舞台である。その全幅が祭壇設置のために割かれている。祭壇には、化粧を施すように生け花が添えられていた。一見するに花畑だ。白菊を基調とした花々が祭壇を彩っている。祭壇の足元まで花が添えられており、舞台の裾から舞台下まで白い胡蝶蘭が並んでいた。


 花畑の中央に位置しているのは、黒縁の写真立てに飾られた紗那ちゃんの遺影である。


 葬儀用の祭壇だった。


 遺影の真下には白銀色の棺が縦に設置されており、上半分の蓋が開かれている。胸元で手を組んだ紗那ちゃんが、白いドレスに身を包んで眠っていた。


 ウェディングドレスにも見える。襟元が首元まで伸びている。エンバーミング時に作った傷を隠すためだろう。化粧も施されており、死体らしさが取り払われていた。眠っているだけのようにも見えるが、正真正銘の御遺体だ。


 いつかの日に綾乃が語ってくれた、子供の頃に紗那ちゃんと夢見たという舞台を模しているかのようであった。


 舞台の手前に焼香台が配置されている。その両脇には、花がまだ乗せられていない献花台が肩を連ねていた。


 ベージュ色のカーペットには、式の参加者用らしい椅子がずらりと並んでいる。


 僕は通行路になっている真ん中を突っ切って、棺のある舞台手前まで歩くことにした。


 人がいる。


 見知らぬ若い女が一人と、勲矢さんくらいの年齢に見える男性だ。


 二人ともスーツを着ているが、喪服らしくはない。男の方に至ってはネクタイすらしていない。ビジネスのついでに立ち寄ったような恰好をしている。呆然と立ち尽くしている。


 舞台下で蹲って、泣きじゃくっているそいつにかける言葉が見当たらないのだろう。


 僕の気配を察知したらしい二人が、こちらに視線を寄越す。


 彼女に声をかけるのは僕の役目だ。


 僕でなければならなかった。


 真横に立つ。


「綾乃」


 棺の足元に縋りついている綾乃が、嗚咽混じりに鼻をすする。


 家を出たときの服装ではない。オーバーサイズのシャツワンピースに、赤いスニーカー。収録用の衣装に着替えたらしい。


「紗那ちゃんが死んだ理由や原因は、今の僕にもまだ知らされてはいない。これが紗那ちゃんの選んだ結末だというのなら、僕らに口を出す権利すらないのかもしれない」

「…………」

「『自分の亡骸を公開すること』。外にいるのはテレビ局の人たちだろう。死しても、誰かに伝えたいことがあった。そこまで紗那ちゃんは追い込まれていたんだ」


 棺に縋ったまま、綾乃が顔だけを僕に寄越す。


 目が真っ赤だった。瞼は腫れあがっていて、化粧は涙で崩れている。アイシャドウが涙に混じって流れたのか、黒い涙が頬を伝っていた。


「勲矢さんが、ここに答えがあるって教えてくれた」

「父さん、来てるの?」

「下で近藤組の追手と戦ってる。あの人はたぶん、紗那ちゃんの葬式を挙げる前準備として、僕にエンバーミングを依頼したんだ。準備期間も必要だった。だから近藤組の連中から身を隠しながら、紗那ちゃんの遺体を連れて逃げ回っていたんだ」

「そうなんでしょうね。私もこの部屋に入ったときに、すべて気付かされた」


 祭壇の手前には何十という椅子が整列している。焼香台と椅子の群れとの間には、不自然な隙間があった。椅子と椅子との前後も大きく取られている。荷物やカメラ等の機材を置くには丁度良さそうだった。


「もう死んでるって諦めてた。とっくに心の準備は済んでいるはずだった。毎朝自分の顔を見るときに、この子の死に顔はどんななんだろうって、今日のために練習してた。全然駄目だった。見たくもない現実を突き付けられて、頭の中が滅茶苦茶になっちゃったよ」


 棺に腕をついて上半身を離した綾乃が、くずおれて四つん這いになる。


「紗那が死んじゃった。ずっと一緒に居たのに、死んじゃった」


 紙の擦れる音がする。雑に畳まれた文字が印刷された白い紙束が、綾乃の右手の中でぐしゃぐしゃに握りつぶされていた。


「葬式を挙げたいだけなら、紗那の死後に普通にやれば済む話だった。それだけじゃあ不足していたのよ。紗那が願った最期には、程遠い結末だった」

「その紙は?」

「紗那の遺書。焼香台に置いてあった」


 出し抜けに他殺されたのなら、遺書をしたためるのは困難である。


 喉を震わせて小さく泣いている綾乃が、仕事仲間らしい二人に支えられて起き上がる。


「紗那のマネージャーは父さんだったから、私が帝国ホテルで収録があるっていうのも見越して、ここを葬式会場に指定したのでしょうね。一階の歓迎看板に『四條紗那様告別式会場』なんて書かれていたから、ついに私も頭がおかしくなったのかと思った」


 歓迎看板なんてあったのか。


「高橋さん、山本さん。外にいる撮影スタッフと、たぶん父さんが呼んだ報道陣とかを中に入れてあげてもらえませんか」

「いいのかい綾乃ちゃん。奴ら、適当な記事を書くかもしれないよ」


 綾乃の肩を支えていた壮年の男性が、心配そうに綾乃に声をかけた。


「それはそれで、一つの結末なのよ」

「でも」

「私がいいって言ってるの! 紗那が遺書の中で、この遺書を皆の前で読み上げて欲しいって書いてる。直筆で、ペン先が潰れて文字がかすれるくらい強い筆圧で! これは紗那から私への最後のお願いなの。このお願いは、実の妹として果たさせてよ!」


 高橋さんと山本さんは目を見合わせると、最前列端の椅子に綾乃を座らせ、小走りで出入口の方まで走って行った。


 みんな混乱している。


 比較的に僕が冷静でいられたのは、散々に殴られた後で、頭の一部が既に破壊されていたからなのかもしれない。


 そんなだから、綾乃の紅涙につられて泣くのでもなく、綾乃を支えたい一身で隣に腰を掛けられたのだろう。


「止めないでよ理人」

「止めないよ。これが紗那ちゃんの願いなら僕は止めない。僕は、綾乃と紗那ちゃんのことを見届けないといけない」


 室内が騒がしくなる。


 廊下で待機していた大勢の報道陣が、我先に葬式の席を次々に埋めていく。


 それもそうだろう。行方不明になったと噂されたアイドルが、すぐに謎の復帰を遂げたかと思えば、数週間後に突如葬式が行われ、その真相全てが伏せられたまま呼び出されたのだ。大スクープである。


 メモを片手にした記者が席の前につめ、席の真後ろには黒いカメラが整然と並ぶ。


 遅れてやってきた記者も多かった。出入口で祭壇を目に入れ、ひとしきり呆けてから、混乱した様子で着席する。会社に状況報告をしているのか、スマホを耳に当てている人が散見された。


 これも、紗那ちゃんと勲矢さんの思惑通りなのだろう。


 踊らされているべきなのだろう。


 無力な僕らには成しえなかったことを、紗那ちゃんはやろうとしている。


 そんな気がした。


 席を立った綾乃が、会場左手にあるマイク台に回り込む。台の上には、スタンドにはめこまれたマイクが立っていた。


 こんな災禍に遭ってもなお、綾乃は毅然と記者に立ち向かおうとしている。


 一礼をすると、矢次にカメラのシャッター音が飛び交った。


 すぐには頭をあげない。


 フラッシュの炸裂が止んでから、綾乃がおもむろに姿勢を正す。


 会場の天井から、マイクのスイッチが入った音が響いた。




「どう申し上げて、どこから説明をすべきなのか私にも分かりません。下には告別式と銘打たれていましたが、告別式と称すべきなのかすら定かでありません。私も今しがた、姉の死に顔を拝んだばかりで、心の整理がついておりません」




 会場がどよめいた。


 静かになるのを待たずに綾乃が続ける。




「私は姉である四條紗那から遺書を託されました。それを皆さまの前で読み上げるように、とも遺書中でお願いをされました。生中継をされている放送局の方は、そのまま報道をお続けになられて下さい。記者の方々はどうか、私が読み上げる内容を誤りなく報道して頂けますでしょうか。何卒宜しくお願い致します」




 声が震えている。


 瞼を泣き腫らした綾乃が、僕に弱々しく視線を寄越す。


 僕は目を合わせたまま、黙って頷いた。


 皺だらけの遺書を両手で広げた綾乃が、目を伏せて一呼吸を置く。


 硬いブレスの音が、スピーカー越しに僕を緊張させた。









「『──私、四條紗那は、生物でありながら、人としては死んでいました。


 まるでゾンビのように地上をさまよい、人の形をしているだけの化物として、生きてきました。


 皆さんには初めてお伝えする内容にはなりますが、私は精神遅滞をわずらっています。


 この文面も、辞書やパソコンを用いながら、慣れない言葉を使って書いています。


 家から外に出ると、精神遅滞の私に居場所はありませんでした。


 楽しい思い出以上に、苦しい時間ばかりの一生でした。


 数えきれないばかりの不幸でした。


 周りの悪い大人たちは、私がどうしようもない不良品だとあざ笑い、後ろ指をさし、陰口を叩き、見下し、コケにし、馬鹿にし、オモチャにし、だまし、服を破り、犯し、けり飛ばし、心を破り、壊し、私の泣き声で笑い、痛めつけ、殴りつけ、首をしめ、私はつらくて、痛くて、また犯されて、やめてと叫んで、それでもあの人たちはやめてくれなくて、言うことを聞けと怒って、私は諦めて、感じるのをやめて、人ではなくなっていきました。


 私がアイドルを始めたのも、頭の良くない私をだましてスカウトをするような、悪い事務所に拾われたからです。父にも妹にも怒られました。迷惑をかけました。それでも最後は私を認めてくれました。


 私が途中で移籍を行ったのは、いまお世話になっているプロダクションの社長が、私の身を案じ、移籍先として勧誘をしてくれたからです。社長には心から感謝していました。


 おかげで私は様々な活動を経て、多くのファンの方々と交流を深めることが出来ました。


 ライブでみんなと空気を共有している間だけは、自分の病気を忘れて、幸せな気持ちになれたのです。ファンのみんなは私にとって希望でした。先立つ不孝をお許しください。


 本当にごめん。


 私は大人になっても愚かでした。二十歳になっても、頭の中だけは中学生くらいのままでした。損得の話が分かりませんでした。愛するファンのためなら、何でもするつもりでした。大好きな父と妹の生活と、その笑顔を守るためなら、マネージャーをしてくれていた父に内緒にしながらでも、身体を使ってお金を稼ぐつもりでした。


 恩返しをしたかったのです。私は私にしか出来ないことを見つけたのだと、勘違いをしていたのです。父に内緒で引き受けた仕事が、闇営業だと私が知ったのは、もっと後のことでした。ファンが喜ぶから服を脱げなんて、なぜ私がその話を信じたのかは、今となってはもう思い出せません。


 でもそのときは、周りにいた人たち全員を信じていたのです。


 どうしようもなく、愚かだったのです。


 私は、私を認めてくれる人を信頼したかったのです。


 闇営業を紹介してくれた社員さんは、私の信頼を裏切って、逃げてしまいました。


 その軽率な信頼こそが、周りへの裏切りだったのだと知り、私は深く絶望しました。


 自分の行いは、自分で責任を取らないとならない。そのくらいの知能はありました。


 私は闇営業を続けました。父と妹に楽な生活を送ってもらうはずが、父と妹をこれ以上悲しませないように、闇営業を続けなければなりませんでした。闇営業をやめたら、全てを暴露して、アイドル生命を絶ってやると脅されたからです。


 抵抗出来ませんでした。私には力がありませんでした。力があれば悪い奴を倒してやれるのに。そんな妄想をしました。そして私は、先月も服を脱ぎました。


 私は消費されていきました。でも、身体はまだ動きました。父と妹、そしてファンの皆に心配をかけたくなかったので、健康には気をつけました。睡眠も出来るだけとるようにしていました。シャワーを浴びても、心の汚れだけは取れませんでした。


 心は日に日にやつれていきました。心はすり減っていくのです。ゆがむのです。心に傷を負えば、傷跡が一生残るのです。傷口は黒い絵の具のように、楽しかった思い出すらぬりつぶしていくのです。魂を汚していくのです。それが目に見えないから、周りの人は、傷を負った人間に無理をさせるのです。苦しいと愚痴を言えば、誰にだってそういう時期はあるとか、誰だって苦しいとか、聞いてもいない誰かの事情を私に押し付けてくるのです。私の傷なんて見えもしないくせに、私の心を見てきたかのように説教をするのです。


 私が消費された理由は、もちろん私が愚かだったからです。私を闇営業に誘ったり、次の仕事を紹介したりする人達が、お金を求めて私を消費したというのも、一つの理由です。


 しかし、どれも本質的な答えではありません。一番の理由はそこではないのです。


 私に声をかけた人にも、家族がいたかもしれません。ノルマがあったのかもしれません。指示を出していた人も、似たような環境にいたのかもしれません。


 仕事だったのです。誰もが自分の居場所を守るのに必死だったのです。仕事に貴賤がないと言うのなら、誰があの人たちを責められるのでしょうか。


 私は消費されました。人柱になりました。もともとは居場所を探していた私です。消費されるということは、求められているのと同じ意味なのだと学びました。私はそういう居場所を手にしたのだと考えました。消費される側なのだと、諦めてしまいました。


 現実を受け入れれば受け入れるほど、心の傷が増え、身体と心とのギャップが大きくなっていきました。身体は健康なのに、心が動かないのです。ゾンビだったのです。


 私は命令された通りに動くだけの人形になりました。皆のオモチャになっていました。父や妹、ファンのために輝こうとしていた私は、もうどこにもいませんでした。


 そのうち、この事件はニュースになる。芸能界で似たような闇営業をしている先輩方が、メディアの手で次々に暴露されているのを知っていた私は、すでに気付いていました。


 けれどこれ以上、父と妹に迷惑はかけたくはありませんでした。


 私自身も、もう苦しむのは嫌でした。涙はとっくに枯れていました。心は割れました。必死でした。でも無力でした。精神遅滞の脳みそで、頑張って考えました。騒動の原因を取り除き、父と妹にも余計な負担をかけず、私の負担も減る方法を考えました。その最も無駄のない方法が、死ぬことだったのです」





 綾乃が涙を紙に落とす。


 ぬぐいもせず、鼻をすする音をマイクで鳴らす。





「死は逃げではありません。救いでもありません。死んだ人間に未来なんてないですから、救われたなんて後で感じることもありません。


 ですが死んだ人は、いま生きている人のオモチャになります。生きている人は、好き勝手に死んだ人のことを語ります。好き勝手に悪口を言われ続けるのはイヤでした。だから私は遺書を書いて、みんなに聞いてもらう計画を立てました。


 父に相談をしました。妹が泣く姿を見たくはありませんでした。父は悲しみました。普段は温厚な父が、狂ったように怒りました。それでも私は、死にたいと伝えました。父が協力してくれないのなら、自分で自分を殺すつもりでいました。一か月後、やせ細った父は、私の願いを受け入れてくれました。


 私を殺してくれるのは、プロポフォールという白いお薬のようです。血管にたくさん流すと、眠るように死ねるそうです。その後私はエンバーミングという処置を受け、葬式の準備を整えてから、皆さんにお会いすることになります。


 こうして私の無念を、皆さんにお伝えさせてもらいました。私と似たような境遇にある子が声を上げやすくなるように、私はあえて死を選びました。


 死には勇敢も愚かもありません。色も味も付いていません。死は死なのです。それでも皆さんが私の死に意味を求めるのであれば、私と違って多くの知識を持つ皆さんの手で、私の死を意味のある死にして欲しいのです。


 この遺書は、きっと双子の妹である綾乃が読み上げてくれているのでしょう。私と同じ声帯を持っている綾乃に読み上げて欲しいです。妹には負担をかけないように努めていましたが、最後の最後に負担をかけてしまうようです。


 ごめんね綾乃。お父さんと一緒に臨海公園で遊んだ時みたいに、また家族だけで遊びたかった。でも近づいたら、私の汚い部分がバレてしまいそうで、汚いって思われたくなくて、何も言えなくちゃったんだ。害虫扱いされたらどうしようって、怖くなっちゃったんだ。こんなお姉ちゃんで、本当にごめんね。綾乃のことが大好きだったよ。また来世でも会いたい。家族不孝者の私が地獄に落ちないように祈って欲しい。次こそは、皆で幸せになれると嬉しいな。 四條紗那 』」







 綾乃が右拳をマイク台に叩きつける。


 キン、とハウリング音が広い室内に反響した。


 下唇を強く噛んだ綾乃が遺書を左手で握り潰し、その拳でマイク台をまた殴りつける。


「一体誰に、この怒りを差し向ければ良いのですか。何故あの子が死を選ばねばならないほど、社会はあの子につらく当たったのですか。どうして見逃されているのですか。自分の居場所を守るためなら、他人の居場所を消してもいいんですか。差し控えても構わない許容って何なんですか。どうしたら私たちは、人並みに幸せになれたのですか」


 握りしめられた遺書の潰れる音が、スピーカー越しに僕らを苛める。


「誰か教えてよ、お願い、答えてよ」


 細い呟きがマイクに乗る。誰も返事をしようとしない。


 問題の渦中に身を置いていなかった人の回答なんて、あまりにも軽すぎて、綾乃の心にまで届くとも思えなかった。


 でも僕なら。


 僕なら、綾乃と一緒に考えれば、その答えを導き出せるのではないだろうか。


 都合の良い言葉で大人たちに操られ、『自分の居場所はここなんだ』と錯覚させられた挙句、身と心を削らされて、破滅の道程を歩まされた身として。


 綾乃は以前に、僕と紗那ちゃんの目が似ていると言っていた。


 似ているどころの話ではない。


 同じなのだ。


 きっと綾乃は、目の奥にあるものまで垣間見ていたのだろう。


 人として尊厳を冒され、心を壊された絶望の淵でなお、世界に救いや希望を求めて足掻いてしまう、そんなゾンビみたいな僕らの生き様を。


 空気を読まないシャッター音だけが鳴り続ける中で、僕は席を立った。


 カメラのシャッター音が増える。


 撮りたいのなら、好きなだけ撮ればいい。


 マイク台に向かう途中、近藤組の若衆にホールドされた勲矢さんを、入り口のあたりで見つけた。


 顔は傷だらけだが、生き延びられたらしい。


 目を丸くした綾乃に言う。


「みんなで考えよう。幸せになる方法」


 返事を待たずに、綾乃の前にあったスタンドからマイクを奪い取る。


 綾乃を優しく押しのけ、マイク台の前に立つ。


 大量のフラッシュを浴びせられる。マシンガンで射撃を受けているみたいだった。


「指名手配中の『リヒト』と申します。僕は物心つくときに近藤組に拾われ、闇医者として育てられました。外の世界を知って脱走したのが、つい先々週の話です」


 今までで、一番のどよめきがあった。


「四條紗那さんのエンバーミングを行ったのは僕です。事情はまったく知らされておりませんでした。ふとしたきっかけから紗那さんの調査を始め、苦しみの紆余曲折を経て今日ここにいます。悪夢のような日々でした。悪い異世界に放り込まれたようでした。僕はどうしても皆さんに知ってもらいたいことがあり、綾乃さんからマイクをお借りしています」


 皆が幸せになれればいいのに。 


 僕もそう思う。


 無理だとも思う。


 幸せになれる人の席は、もしかしたら予め決まっていて、不幸な人がいるからこそ、誰かが幸せでいられるのかもしれない。


 それでもその二者が上手く折り合いを付けていけば、最低最悪な不幸に遭遇する機会も減らせるのではないかなんて、期待もしている。


「この世界は大変生きづらいものです。コンビニで買い物一つするにしても、他人の目が気になって息が詰まりそうになります。肌がぞわぞわして、皮膚の上を蟲が走っているような悪寒が走る時もあります。僕はそんな世界が嫌いでした。それでも何処かには、僕が好きになれるような世界もあるんだとも信じていました。今でも探しています。四條紗那さんの言葉のように、皆が幸せになれるような世界があればいいと願っています。僕らはこれから、それを探さねばなりません」


 何年かかるかなんて誰にも分からない。


 ヤクを抜く苦しみがあったとはいえ、僕も一度は自殺を考えた身だ。生まれ変わった気持ちで前に進むしかない。


「思いもよらないような罪の数々を、僕はきっと背負っているのでしょう。指名手配をされる程なのです。よっぽどの事件なのです。罪は雪がねばなりません。『罪だなんて知らなかった』は許されないのです。この会見が終わり次第、僕は自首をするつもりです」


 そのときは、勲矢さんも一緒なのだろう。


 組長さんにもご同行を願いたくもあるが。


「償い終えたら、僕は、僕と似たような人たちのために、何をどう成せるのかを検討するつもりでいます。皆さんが言う普通の人として生きられない、そんな普通じゃない人のために生きたいのです。勝手ながら、皆さんにはその証人になってもらいたいのです。僕を追って下さい。僕を見つけて下さい。僕を見て感じるものがあれば、世界のために動いて下さい。どうか、宜しくお願いします」


 マイク台に頭が付きそうになるほど、深く一礼をする。拍手はない。


 言いたいことは言い終えた。


 十分間の休憩を挟んでから、質疑応答を行いましょうと提案をする。


 反論はなかった。


 戸惑いの延長線上にある無言なのか、文句がない故の無反応なのか。


 時間をかけて咀嚼をしてもらいたい。すぐに飲み込まなくて構わない。瞬時に理解が及ぶような事件ではない。そんなに容易く飲み干されても困る。僕を僕たらしめた、皆が知らない世界について頭を悩ませてもらいたい。


 他人事で構わないし、エンタメとしてでも構わない。


 幸せを育んでいるその裏側に、屍山血河の世界があることを、決して忘れないで欲しい。


 綾乃に肩を叩かれる。


「父さん、来てる」 

「会いに行こう」 


 もう一つの目的を果たさねばならない。


 綾乃と勲矢さんがすれ違ってから、だいぶ時間が経過してしまっている。


 報道陣に礼をしてから、壁沿いを進む。


 シャッター音がうるさい。


 逮捕される直前の写真だから、きっと釈放後に見比べられるのだろう。


 変わらないさ。


 老いたとしても、もう人生の芯は定められたのだから、僕自身の在り方は変わらない。


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