7-3 決裂の時

 勲矢さんが、車道からタイルの敷かれた道に上がる。


 まるで旧友に会うかのように、組長さんに軽く手を上げて挨拶をした。


「これはこれは稲葉組長。私なんかに会うために、先回りまでして頂いて誠に有難うございます。私の行先がよく分かりましたね、と言いたいところですが、今日はここの一番広い会場を押さえていましたから、少し調べれば足が付きますよね。色々隠蔽はしましたが、今日の今日までバレなかったのは、本当に助かりましたよ。組員の皆さんもご苦労様でした。煽り運転はやめた方が賢明ですよ。妨害運転罪が適用されますからね今は」


 誰も返事をしない。鉄仮面を被ったように、組員たちは眉一つ動かさなかった。


 すぐに勲矢さんを取り押さえようともしない。人目があるせいだろう。


 組長さんが渋面で言う。


「随分と余裕じゃねえか勲矢。尻尾巻いて海外に飛んだとばかり踏んでいたが、ケジメを付ける覚悟くらいはありそうだな」

「覚悟なんてしていませんし、する必要すらないでしょう。私が稲葉組長のもとへ直接頭を下げに来ているのならまだしも、今回は近藤組が私を必死に追跡したからこそ、こうしてお会いするに至ったわけです。会いたくて会っているのではありません」

「寂しいこと言うなよ勲矢。長年ビジネス関係を築いてきた仲だ。介錯くらいはしてやるつもりではいるんだぜ俺は」

「どうあがいても、私を殺したいのですね」

「殺したいんじゃない。殺さなければならねぇんだ。問題の始末にゃ責任を負う存在が必要なことくらい理解してんだろ。そのお役目がてめぇに回ってきたってだけだ。マスコミも、酒の入ったチンピラみたいに喚き立ててやがる。余計な情報にまで首を突っ込みだすのも時間の問題だ。おめぇの名前にだって、いずれ到達する」

「近藤組との因果関係をそぎ落とすために、予め私の存在を消しておこうという訳ですか」

「遅ぇんだよ。ニュースが流れた時点で気付け」

「気付いてはいましたよ。いずれマスコミが私に辿りつくことも、理人くんの存在をほのめかせれば、マスコミ連中の興味が引けることもね。そうすれば、いずれは近藤組の悪事も露見する」

「てめぇ、よもや」

「理解が遅かったのは稲葉組長の方だったようですね。情報をマスコミにリークさせたのは、他でもない私ですから」


 組長さんが、奥歯で苦虫をすり潰したような形相で恫喝する。


「相当死にてェらしいなァ小僧、とっととその首を差し出せや裏切り者がよぉッ」


 心底意外そうに、勲矢さんが相槌を打つ。


「所詮はヤクザの頭だったようですね。私の想像力が至らなかったようで、稲葉組長の認知機能が衰えている点にまで気が回りませんでした。心中深くご察し申し上げます」

「おちょくってんのか勲矢ぁ、何を企んでやがる」

「何も。私も人の親ですから、今までの騒動を振り返ってみて、首魁に恨み言の一つや二つくらいぶつけてみたいと愚考してみたまでです」

「今ここで俺の顔に唾を吐いて、てめぇになんの得があるってんだ」

「損得を勘案できるくらいには、ボケてなさそうで安心しました。しかしですね稲葉組長、私はこうお伝えしたはずです。恨み言の一つや二つぶつけてみたいと。一人分や二人分と申し上げた方が分かりやすいでしょうか。私は前座でしかないんですよ」


 僕と外を仕切っていたドアが、勲矢さんの手で真横にスライドされる。


 組長さんは腹にイチモツを食らったような面持ちで、車の中から現れた僕に注視した。


 車窓にはスモークがかかっている。僕が一緒に乗車しているとは、察していなかったらしい。


 僕は勲矢さんに言いつけられた通り、発泡スチロールのケースを持ちながら車を降りた。


「てめぇ、部外者を連れて来てどういうつもりだ。そんなに空気の読めない男だったか」

「すっとぼけるのは止して下さいよ稲葉組長。貴方が育てた闇医者でしょう」

「俺とそいつは初対面だ。名前も知らねえ」


 前に組長さんと会った折に、僕は絶縁を言い渡されている。


 シラを切りとおすつもりらしい。


「あーあ。おめぇのせいで、部外者まで俺らは処理しなくちゃならなくなった。おめぇは人殺しだよ勲矢。キズモンならまだしも、カタギにまで手をかけちゃお仕舞ぇよ」

「いいえ、もう決着は付いています。わざわざ理人くんを闇に葬る必要もありません」

「決着だ?」

「はい決着です。このホテルの中にある『あの子が出した答え』を前にすれば一目瞭然ではありますが、それはそれとして、理人くんの話も伺ってみたいとは思いませんか。一方的に絶縁を突き付けたのでしょう。彼にだって伝えたい想いがあるはずだ。違うかい理人くん」


 僕は発泡スチロールの箱を左腕に抱えたまま、反対の手で車のドアを閉める。


「勲矢さんが仰ったように、伝えたい想いは沢山あります。ただそれを、適切に言葉に出来るかというと難しいですね」

「そこの部外者、もう喋るんじゃねえ。てめぇと俺は無関係だ」


 組長さんが白杖で地面を突いて威嚇してくる。


 あれほどの惨状を繰り広げ、僕に唯一残された家族を足蹴にした末に、殺しておいてもなお、一方的に無関係を貫き通す腹積もりのようだ。


 話の筋さえ見いだせれば、また僕を殺そうともするのだろう。


 僕にはもう失うものがない。後ろに下がる理由もない。


「僕はこれまで、近藤組に大変お世話になってきました」


 努めて笑顔で口上をする。


「幼少のみぎり四代目近藤組に拾われた僕は、実父であるシラガ先生の下で医術の修行を積み、この身一つで生計を立てられるまでに育てていただきました」

「ヤク漬けにされて耳まで遠くなっちまったのか、なあおい」


 聞く耳を持たないという意味なら正答である。


「恨みを心に募らせているのは語るまでもなく、しかしながら、それを適切に申し上げるだけの語彙力も持ち合わせておりません」

「てめぇら、こいつを黙らせろ」

「暴力はやめておいた方が賢明なんじゃないですか。大声にびっくりした僕が、うっかり手を滑らせてコレを落としたら、一大事ですからね」


 忌々しそうに組長さんが口を閉ざす。ただならぬ気配を察知したらしい組員は、飛び出そうとしていた寸前で、前傾姿勢のまま固まってしまった。


 両手に持ち直した発泡スチロールのケースを揺らして、周りに見せびらかす。


「これ、分かります?」

「ちっ。俺のエンコか」

「そうですね。エンコです」


 蓋を開ける。ドライアイスのもやの中から、指入りの瓶を取り出す。


「指詰めをエンコ切りと呼ぶ理由が知りたくて、シラガ先生に所以を尋ねたことがあります。諸説あるようですが、もともとエンコは猿猴えんこう、ようはおサルさんを指す言葉が略されたという説もあるようですね。手や指を落とすという責任行為をもって、一家との縁故えんこを切る、謝罪の態度を示すという含蓄もあるようですが、僕個人としては、苦痛をもってサル畜生を教育する一大イベントと捉えた方が腑に落ちるなあと」

「ぐちぐち管を巻いてんじゃねえ。早く返せや。そいつは俺の指だぞ」

「そうです、これは人質です。勲矢さんが保身のために取っておいた切り札です。ですが、どうも勲矢さんは、既に目標を達成されたご様子。これはもう用済みなんですよね?」


 勲矢さんに目配せをする。沈黙があった。僕はそれを肯定と受け取った。


「裕也さんに教わったのですが、不要になった人質ほど足かせになるものもないですよね」


 残りの瓶が入った発泡スチロールのケースを、勲矢さんに預ける。瓶の中で浮遊している指を見せつけながら手元の蓋を開けた。揮発したアルコールが、目と鼻粘膜にしみる。


「人質の扱いについては、太古からバリエーションが豊かに存在します。たとえば鎌倉時代中期にあったとされる元寇では、蒙古兵が捕虜にした日本兵を木板に張り付けて、それを盾としたそうです。資源の有効活用ですね。僕の手元にある人質も有効活用すべきだと考えますが、さて、僕がとれる行動はさほど多くはありません」

「後がない奴ほど、聞いてもいねえ能書きを垂れやがる。ご高説賜った所で肘を入れるようだが、エンコがどう人質になるってんだ。ああ? 俺にとっちゃあ魂の一部であるのも否定はしねえがよ、仮に地面に捨てられても、業腹だがまた薬に浸けりゃいいだけだ。さっさと語れよ。下らねえ戯言抜かしたら、その役に立たねえ舌を俺が直々に刻んでやる」

「それには及びませんよ組長さん」


 手に取るように分かる。


 この人は僕に怯えているのだ。


 丁重に扱うべき人質を地面に捨ててオシマイなんて、僕がそんな勿体ない使い方をするはずがないじゃないか。


 結局のところ組長さんは『その程度の扱いで勘弁して欲しい』という願望を、『やれるもんならやってみろよ、どうなっても知らないけどな』と煽って、こちらの判断を揺さぶろうとしているだけなのである。


 小手先だけで、会話を自分に有利な方向へ誘導しないといけない程に後がないのは、向こうの方だ。


「僕はこう思うんです」


 近藤組には恩義もあるが、それ以上に恨みがある。


「復讐をするなら、その人の尊厳を踏みにじるのが一番てきめんだって」


 瓶の中に手を突っ込んで、組長さんのエンコをつまむ。


 魂の欠片にして誇り、尊厳である。


 乾燥してざらついている。ゴムを掴んでいるみたいで触り心地は最悪だった。薬液の中から引っ張り出すと、僕の手に付着したエタノールが揮発して、消毒したあとのように体温を奪っていった。


 口元に持っていく。


「おい待てやコラ」


 黒服を押しのけた組長さんが、白杖の底を鳴らしながら僕の方へ駆け出してくる。


 知らなかったな。


 かの四代目近藤組組長でも、そんな顔をするのか。


 懇願する子供のように、今にも泣きそうじゃないか。


「洒落になってねえぞ、この野郎ッ!」


 僕はそのたった数センチしかないヤクザの魂を、砂糖菓子を食べるように口の中へ放り込んだ。


 上下の歯の間に肉塊が挟み込まれる。バキバキと骨の折れる音が頭頂部にまで伝導する。


 エタノールの焼けるような苦味が、すぐに口腔内全体に広がり始めた。上咽頭を逆流して揮発したそれが鼻粘膜を痛めつけてくる。


 組長さんが、蜘蛛の脚のように忙しく白杖を動かしながら、目と鼻の先の距離まで接近する。白杖を真下に投げ捨てて、僕の首に両手を伸ばした。


「やりやがった、やりやがったな理人!」


 金切り声をあげながら、全力で気管を絞められた。


 ガラス瓶を落とす。存在意義を失ったエタノールが、瓶の破壊音と共に飛び散る。


 苦しい。ぐちゃぐちゃに噛み砕いた肉の塊を、組長さんの眉間を目掛けて吐き出す。狙いがずれた。鼻尖部に当たって、ずるりと地面に落ちてしまう。


 組長さんの両腕を掴む。右の足底を腹に当てて押しのけた。


 バランスを失った組長さんが尻もちをつく。


 決裂の時だ。


 僕は右足で、食いかけの指を思い切り踏み潰した。


 組長さんが声を裏返す。


「殺してやる、ぶっ殺してやる! この恩知らずが」


 白杖を拾い上げた組長さんが突進しかける。


 それを周囲の組員が、身体づくで引き留めた。


「離せてめぇら! ざけんじゃねえ!」

「落ち着いて下さいオヤジ! 不味いですって!」


 こんな人目につく場所で殴り合いをしても、近藤組にとって不利益にしかならない。既に異変を感じたらしいエントランスのドアマンが、ホテルの中へ避難してしまっている。警察が来るのも時間の問題だ。


「っせぇ! 俺に指図すんじゃねえ!」


 体躯を大きく揺さぶった組長さんが、組員たちの制止を振り切って上段に白杖を構える。


 僕は反射的に頭を腕で抱えた。


 白杖が袈裟に薙がれる。左腕に直撃した。すかさず鳩尾に蹴りが入って吹っ飛ばされる。


 背部からバンのドアに衝突する。僕が姿勢を整えるよりも早く、組長さんが杖で僕の胸や脚に追撃を入れる。


 奇声を上げながら幾度となく僕を打擲する様は、餌を取られて激昂する猿のようだった。


 足腰に力が入らず姿勢を維持出来なくなった僕は、バンのドアにしなだれて座り込んだ。


 体力を消耗しているのはお互い様らしい。


 疲弊した組長さんが杖に体重を預けて、僕を見下ろす。


「てめぇお前、まだ戸籍ねえんだろ。日の本からは人間とすら認められてねえ塵芥の分際で、なに人様のエンコを潰してくれてんだよ。てめぇは国にすら見捨てられた、非公式の奴隷みてぇなもんだ。身分を弁えろっつってんだよ!」


 血混じりの唾を横に吐き出して僕は言う。


「歳を取ると、人間って猿に先祖返りするんですね。何から何まで勉強になります」

「そんなに死に急ぎてえか、じゃあ喜んで死ねよ」


 組長さんが白杖を持ち上げる。弓で矢を射貫くような構え。柔らかい喉を力任せに穿てば、気管はもとより脊髄まで貫けてしまう。その凶器から放たれているのは明確な殺人衝動、数秒後に我が身へ降りかかるであろう死の宣告だ。


 しかし杖の底の延長線上にあるのは首ではない。眼球である。眼窩を構成するいくつもの骨の真裏には、人間の活動中枢を担う脳が収納されている。首を狙うよりも対象を確実に死に至らしめるだけの急所に相違ない。


 死んでたまるものか。


 白杖が風を切って撃ち出される。


 首の筋肉を最大限に振り絞って、顔を右側にずらす。


 耳の真横で破裂音が散った。


「避けんじゃねえ、疾く去ねや!」


 金属の擦過音と共に、白杖が引き抜かれる。


 穿たれたドアには銃口ほどの穴が開いている。外装が打ち破られ、中身が丸見えになっていた。


「稲葉組長、それくらいにしたらいかがですか」


 脇で傍観していた勲矢さんが、残りの指が入った発泡スチロールのケースを撫でる。


 止めるのが遅いんですよ。


 死ぬところだったじゃないですか。


 ぼうっと、一人だけ傍観している場合じゃないんですよ。


「次はてめぇの番だ勲矢。なんなら二人共々、仲良く拷問にかけてやる。尊厳を踏みにじるのが一番だっていう意見は理人に同意してやるよ。無麻酔で爪皮を剥ぐなんて生ぬるい。下半身が裁断機にかけられるその一部始終を見せてやった後に、起きたまま頭の中身を開いてやる。死なない程度に脳みそを切り分けたり、電磁気を当てたりするんだよ」

「私はともかく、まだ若い理人くんだけでも見逃して欲しいと願うところではありますが」


 哄笑した組長さんが、白杖を長銃のように肩に担ぐ。


「命乞いをすんのが遅ぇんだよ。見逃すわけねぇだろう。あとはおめぇらを回収して」


 喉に餅が詰まったかのように、組長さんは喋るのをやめた。


 蝋人形のように固まっている。


 その隙に僕は痛めつけられた身体に鞭を打って、車の外装伝いに立ち上がった。


 勲矢さんが、もう一つの瓶と発泡スチロールのケースを床に放り落とす。


 音がする。


 むしゃむしゃ、ごりごり。


「予想はしていましたが、最高に不味いですねこれ。人間の食べものじゃないですよ。海外で食べさせられたゴキブリの揚げ物にすら劣る。噛んでいるだけで不愉快になります」


 食べている。


 勲矢さんが、組長さんの指を噛み砕いている。


 飲み込んだ。


「稲葉組長には理人くんに傷害を働いて頂きましたので、次は僕に対しても傷害罪を犯して貰うとしましょうか。心情的に殺意が湧くような演出を心掛けましたが、昂揚感の調子は如何でしょう。憤怒に熱をくべるだけの体力は、まだ残っておられるでしょうか。今すぐ私の腹を裂けば指を取り戻せるかもしれませんよ? どうします? 殺りますか?」


 組長さんが指一つ動かさない。怒気のやり場を失って顔を赤黒く変色させている。


 あからさまな挑発を受けて頭が冷えたらしい。貧乏ゆすりをするように白杖を地面に突き立てたまま、口を一文字に閉ざしたままだった。


 ホテルのエントランスから、警備員らしき制服を来た五人の男が飛び出したのが見えた。


 あの警備員たちが介入した時点で、形勢は一気に逆転するだろう。無関係の一般人を相手に喧嘩を吹っ掛けるほど、近藤組も考え無しではないはず。


 勲矢さんの手を借りて立ち上がる。


 すると勲矢さんは、僕の耳元に顔を寄せてこう囁いた。


「三階、富士の間に全ての答えがある。走れ」


 最低限の情報伝達。


 答えとは、つまり。


 迷っている余裕はない。


「君は行きなさい」


 身体ごと引いて、勲矢さんから顔を離す。


 勲矢さんが柔和な笑みを目尻に湛えている。我が子を優しくさとす父親のような表情に僕は目を疑った。場違いな笑みが過ぎる。その皺に刻まれた父性を、今になって露呈する意図が計り知れない。ましてや僕の実父でもない。


 返事はしない。その一秒すら惜しい。休むにはまだ早い。


 道路側へ出て、一直線に警備員の方へと疾駆する。


 背中に大量の怒声が突き刺さった。


 組員が追ってきている。


 地面を連打するかのような足音が、逃走中の僕を脅迫しているみたいだった。


 構ってなどいられない。


 警備員の一人が僕の方へ進路を変える。


 手を伸ばした僕は、事件に巻き込まれた被害者を装って、警備員の腰にしがみついた。


「あそこでヤクザが暴れているんです!」

「なんだって!?」

「僕は応援を呼んできます!」


 手を解放して、エントランスの方へと駆け出す。


 追手の対処を強制的に引き受けさせられた警備員の避難がましい誰何が、僕の後頭部を小突いた。だからといって足を止めるわけにはいかない。


 エントランスの屋根下に入る。正中では自動回転ドアがゆっくり稼働しており、その脇には自動ドアが設置されていた。


 若いボーイが手前側の自動ドアから出てくる。すかさず僕はその背後に回り込んだ。


「ごめんなさい!」


 ボーイの背中を押し飛ばす。追手の一人と共に、大理石の床に倒れ込んでくれた。


 自動回転ドアの中へと踏み入れる。遅い回転を促すべくガラス戸をプッシュし、転がり込むように正面フロアへと侵入した。


 足が緋色の絨毯に沈んだ。高い天井には絢爛なシャンデリアがぶら下がっている。左右には高級感漂うソファが設えられ、外の喧噪など存ぜぬとばかりに客が座している。


 奇異の視線をぶつけられた。建物内に迷い込んだ犬の扱いである。


 今更だった。僕は異物だ。その通りだ。ヤクザに追われて逃げ出してきた人間が、こんな高級ホテルに相応しいはずがない。


 僕は大きく息を吸った。


「助けて下さい!」


 この救援要請に、どれだけの効果があるのだろう。


 それでも。


「外でヤクザに殺されそうな人がいるんです! 四代目近藤組組長が、凶器を持って暴れているんです! 誰か警察を呼んで下さい! お願いします!」


 フロアの一角がざわつき始める。小石が落ちて揺れる水面のようだ。一人が席を立つと、また一人と客が荷物を持って移動をする。エレベーターや階段を使って上へ走る人がいれば、通路の奥へ逃げる人もいる。騒ぎが波と化して広がっていく。


 受付カウンターの裏から従業員が何人も飛び出してくる。次の追手が、エントランス側から迫ってくるのとほぼ同時であった。


「待てやコラァ! ただじゃ済まさんぞボケがァ!」


 警備員とボーイの網を潜り抜けてきたらしい。


 右手奥に階段を見つけた僕は、脱兎のごとく走り出した。


 まだ捕まるわけにはいかない。このまま三階まで駆け上がろう。


 不意に、カメラのシャッター音が飛びこんできた。


 逃走をせずに、暢気にこの異常事態を写真に収めている変わり者がいるらしい。


「なに撮ってんだコラ! 勝手に撮んじゃねえ!」


 一枚や二枚どころではない。複数人がカメラを構えて一部始終を撮影している。


 彼らには是非、暴力を含めた近藤組の悪事を全て、記録に残してもらいたい。


 巣を突かれた蜂のように逃げ惑う客に紛れながら、全速力で階段を駆け上る。


 踊り場で上へ折り返した際に、中年の女性客から罵声を浴びせられた。


 ジェスチャーで謝罪の念を送りながら、人の間を縫うように進んでいく。


 段を飛ばしながら、僕は呼吸も忘れて階段を駆け上がった。

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