7-2 魂の欠片を人質にする

 徒歩三分ほどのパーキングに白いバンが停止していた。年季が入っている。車体のへこみや傷も目立っていた。車窓はスモークになっていて、中までは見えない。助手席のサイドガラスが割れている。その破片で勲矢さんは怪我をしたのだろう。


 助手席側のドアを開けると、シートの上にガラスの破片が飛び散っていた。ワイシャツの袖を伸ばして、手を切らないように除去してから車内に乗り込む。


「後ろに滅菌した持針器もろもろが入った箱がある。糸と針も入っているはずだ。私は運転しながら君と話をするから、上手いこと縫ってくれないかな。やれるだろう?」

「やれますが、先に目的地を教えて下さい」

「帝国ホテル東京。有楽町と新橋の間くらいだ。理由については、伝えるべきことを伝えたあとに話すとしよう」


 勲矢さんがキーを回すとエンジンが始動し、徐々に加速しながら公道へと入って行く。僕は転ばないように座席にしがみつきながら、後部座席へと移動した。


 後部座席のシートは全て倒されており、段ボールやらクリアケースやらが積まれていた。


 一つ一つにシールが貼られている。手前側に手術機材と記された段ボールがあった。開く。中に様々な機材が分別されずに収納されていた。その中から必要な機材を選択する。


「勲矢さん、糸のこだわりとかありますか」

「君がやりやすい物で構わない」

「目についたのが5―0ナイロンだったので、それで縫います。局麻はご希望があれば打ちます」

「是非お願いしたいね。近藤組からの依頼は高齢になったお偉方の訪問診療がメインで、たまに飛びこみの死体処置をするくらいだから、前線に立っている組員の治療は担当していなかったんだけれど、未だに根性縫いなんてやっているのかい?」


 麻酔なしで縫合する、暴力的な治療のことである。


「無駄に傷を負うなという教育の意を込めて、実施する機会はありましたよ」

「私にも教育が必要という嫌味かな」

「一針一針に、恨みつらみを込めるつもりではいます」

「神経や脈管を絞扼しないように、慎重な治療を願いたいものだね」


 機材をもって助手席に戻る。包装を破ってプラスチックのシリンジと針を取り出す。麻酔薬の入ったポリアンプを折って、中身を吸い出した。


 勲矢さんの側道部に張り付いたガーゼを除去する。こめかみに三センチほどの傷が斜めに入っている。消毒液がしみ込んだ綿球で消毒をする。赤信号を見計らって、傷に沿って注射針を入れた。勲矢さんの身体が小さく跳ねる。


「やるなら、やるって一言かけてくれ」


 皮膚の直下に麻酔液がしみ込んでいく。内側から薬液に押された皮膚が、水ぶくれみたいに傷口に沿って膨隆した。


 車が動き出す。


「昔のシラガ先生も、声かけなしで麻酔してたな」

「勲矢さんが、シラガ先生を殺したそうですね」

「あまり思い出したくない昔話だ。依頼とはいえ、嫌な仕事だった」


 僕を逃がそうとしたシラガ先生は、組長さんの指示で始末された。勲矢さんは業務を受注したに過ぎないのだろう。


 この人にとっても望んだ結果でなかったのなら、責めるだけ無意味だ。


「シラガ先生なら、除痛を第一に考えそうなものですが」

「あの人が大学業務と闇医者を兼業していた時代の話だよ。頭はキレるけれど患者に厳しいことで有名だったっけな。元は僕の先輩だったんだ。医学原則や科学的根拠エビデンスは徹底して遵守するけれど、そのためなら患者の苦痛も厭わない医者だった。『最終的に患者にとって利益になるから』と事あるごとに呟いていたけれど、そういうのもあって、訴訟も抱えていたのがシラガ先生だった。ある側面では正しい治療ではあるけれど、患者にとっては正しくない治療と捉えられたんだよ。我々の業界じゃあたまに聞く話だ」


 金属製の持針器に糸付きの針を装着する。左手に持った鉤付きのピンセットで皮膚の切れ端をつまみ、針を差し込む。


「昔からシラガ先生とは交流があったんですね」

「君が生まれる前からずっとね。シラガ先生が近藤組と関わり出したのは、複数の訴訟を抱えて、心を病ませ始めていた時期だ。裏稼業の方々の手で訴訟をもみ消してもらう代償として、闇医者を始めたらしい。ヤクザは金の羽振りがいいし、裏の世界なら表立ってやれないような治療もやれたから、シラガ先生としては良き縁だったんだろうね。私はその後継者として、闇医者稼業に誘われたんだ。仲は良かったから」

「あの診療所を継ぐべきだったのは、勲矢さんだったということですか」

「君が現れるそのときまでは、そうだった」


 上の方から傷口を縫合していく。贅沢を言えば、皮膚の下にある筋肉と上皮とを別々に縫合したかったが、そんな余裕はなかった。こんな揺れる車内で、細かい作業なんて出来るはずもない。あえて筋肉と皮膚を同時に拾って縫い上げる。


「僕の出生をご存じなんですね」

「もちろん」


 思わず手が止まる。


「僕とシラガ先生、裕也さんが血縁だっていうのは最近知りました。母親のことは、まだ教えてもらっていません」

「母親については私も知らされていない。丁度シラガ先生が、闇医者一本で稼業を始めたあたりだったかな。前にシラガ先生と関係を持った女が、無戸籍のまま君をあの診療所に連れてきたらしい。女の方はすぐ雲隠れしたようだけど、理人くんの存在まで無に還すわけにはいかなかったんだろう。そのあたりから、シラガ先生の患者への接し方が丸くなったように思う」

「無戸籍というのは」

「日本の国民としてカウントされていない、という意味だよ。君は小学校にも行っていなかったはずだ。国民として認識されているのなら、義務的に学校で教育を受けなければならない」

「シラガ先生が闇医者だから、僕の戸籍を作れなかった?」

「そうじゃない。近藤組からの圧力だよ。君を無戸籍のまま育てて、闇医者として純粋培養したがったんだ。国に人として認められていない君が不祥事を抱えたところで、近藤組は『そんな人間を雇用した覚えはない』と言い張ればいい。火煙の消し方は工夫がいるだろうが、戸籍を持っていて、正規雇用した人間の足を切るよりかは、よっぽど縁を切りやすいからね。実際に君は縁を切られたんだろう。不躾なのは承知しているけれど、リビングで綾乃と会話しているのを聞かせてもらったよ。裕也くんのことは、本当に残念だった」

「残念だと悔やんでいるのなら、とっととこの騒動を終わらせて下さい」

「そのつもりだ。だから君を迎えに来たんだ。迎えに行く途中で、盗聴器の存在が発覚されるのは想定外だったがね」


 車の多い大通りから細い道に入っていく。


「シラガ先生には、近藤組に返しきれない程の借りがあった。裕也くんが組員になったのもその係累であり、君を育てる方針になったのも、元を辿ればシラガ先生自身が蒔いた種だ。そんなんだから、シラガ先生は君を闇医者にするのは最後まで反対していたね。でも決定的に、君を医者として育てなければならなくなった事件があったんだ」

「事件?」

「私だよ。シラガ先生に会いにきた私が、ほんの思いつきで、君に図鑑と百科事典をプレゼントしたんだ。歌舞伎町周辺に子供が楽しめるものもないし、あの診療所にはテレビがないから、当時の君にとっては、たかが図鑑されど図鑑だったんだろう。その日から君は本の虫になった。すぐに人体にも興味を持った。私が気まぐれで渡した本が、君に知識欲を植え付けてしまい、知識の宝庫たるシラガ先生に憧憬を抱かせるための導線を作ってしまったんだ」


 生まれて初めて本をもらったときの記憶なんか覚えていない。


 思い出せないほど記憶を遡った幼き頃に、知識を得る悦びを得ていたからこそ、今の僕があるのだろう。


「それでも大成はしないと私は予想していた。まともな大学教育も実地指導もなく、ましてや近藤組のコントロール下に、有力な医師が育つはずがなかったんだ。しかし君の才能と知識欲は、その壁をも超えて、闇医者として充分な技量を持つまでになった。この前会ったときに言っただろう、『成長したね』と」

「なぜあのとき、僕に接触を図ったんです? 僕が勲矢さんを捕まえるって考えなかったんですか。僕らは貴方をずっと探していたんですよ」

「気まぐれだよ。理人くんと綾乃の二人の安否は、常に確認していた」

「だったら、綾乃の前に顔くらい出してあげたらどうなんですか。泣いてましたよ。紗那ちゃんが近藤組の闇営業にどっぷり浸かって、枕までさせられて、それを自分だけ知らされていなかったって、助けられなかったって。今のあの子に必要なのは僕なんかの慰めじゃなくて、実の父親である勲矢さんの声と弁明だったんじゃないんですか」

「君に詰問されるまでもないよ。私が綾乃と接触しないのは、あの子に累が及ばないようにするためだった」

「もうとっくに巻き込まれています。巻き込まれているというか、綾乃は自分で考えて巻き込まれに来たんだ。その決意の重さを勲矢さんが認識しているようには、僕には感じられない」

「それは君の感想でしかない。なんにせよ、私はまだあの子と会うわけにはいかなかった。ひとたび会えば、紗那の行方について説明をしなければならなくなってしまう。それは紗那の意向に反する行いだ」


 細道から再び大通りに出る。車窓に映った看板には、明治神宮と記されていた。四方向に車線が伸びた大きな交差点を直進する。


「紗那の意向については、目的地に到着したら語らせてもらいたい。口だけで伝えても、伝わり切らない部分がある」


 実の娘を殺した理由も、その中に含まれると僕は解釈した。


「縫合を終えました。上に何か貼って、保護しておきましょうか」

「機材が入っていた別の箱に、テガタームが数枚入っていたはずだ。目的地に着くまでまだ時間がかかる。探してもらってもいいかな」


 傷口などを守る透明なフィルム材のことだ。裏面がシールになっている。透明で大きな絆創膏に近い。


 後部座席に移動して別の箱を開ける。


 薬剤だったり書類だったり、はたまた器材だったりと、あまり整理がされていない。


 五分くらい探したところで面倒になってきた。フィルム材を一つ欠いたところで死ぬわけでもない。縫合もしてあるのだから、露出したまま放置するのはどうだろう。


 点滴薬が入っていた段ボールをよけると、奥から腕に抱えられる大きさの発砲スチロール箱が出てきた。


 蓋は青いが器の部分は白い。水色の紐がついており、持ち運びできるようになっている。中に保冷剤が入っているのか、触れるとほのかに冷気が感じられた。


「その中に入っているのは、私の保身材料であり、稲葉組長が私を探している最たる原因でもある」


 ルームミラーで僕の動きを見張っていたらしい。


「近藤組が勲矢さんを探しているのは、紗那ちゃんを殺害したからだそうですね」

「そんなのは、複数ある理由のうちの一つでしかないよ。開けてごらん」


 僕は折った両膝で箱を挟んでから、蓋を掴んだ。


 恐る恐る引き上げる。発泡スチロールの擦れる音が耳障りだった。


「私が仮に近藤組に捕まっても、簡単に殺されないための予防線を張る必要があったんだ。ありていに言えば、こちら側にも人質が必要だった」


 中には、小指が入った瓶が二つ収められていた。


 難破した小舟のように、薬液の中で浮いている。


「組長さんのですか」

「エンコを詰めたときのものを、高濃度のエタノールに漬けて保存していたんだ。ヤクザにとっては、魂の欠片も同然の代物だよ」

「組長さんも、昔にそう仰っていました」

「それをかっぱらって隠していたんだが、もう用済みだから持ってきたんだ。処理方法は検討中だから、良い案があったら提案してくれ」


 まもなく目的を果たすから、最後にコレを使って、近藤組をからかってやろうという魂胆らしい。


 人質、か。


「近藤組には恩義があります」

「律儀だね」

「でも恨みもあります」

「妥当だ」

「なによりシラガ先生と裕也さんを殺された点において、一切の良心の呵責なく復讐をしてやりたいと願う気持ちがあります」

「近藤組は大きな組織だ。今後を生き延びたいのならお勧めはしないし、方法を指南するのも難しい。アイデアがないからね。私だって近藤組の腹をえぐれるなら、えぐりたい」

「この指、食べてしまいませんか」


 運転中の勲矢さんが噴き出す。


 思いつきで提案してみたにしては、上々な反応だった。


 魂の欠片同然の代物を目の前で食されるのだから、屈辱以外の何物でもないだろう。


「僕だけでもやりますよ。僕は組長さんが悔しがる顔が拝みたいので」

「どうして『食べる』なんだい?」

「深い理由なんてありませんよ。強いていえば、近藤組にとって今の僕らは、逃げ惑う蟲みたいなもんですからね。腐肉を貪る害虫みたいで、お似合いじゃないですか。それに、必死に探していたものを目の前でオシャカにされたら、さぞかし不愉快でしょうし」

「血なまぐさいヤクザどもに育てられただけあって、猟奇的とも言えるユニークな発想をするんだね君は。まあ、証拠の隠滅も図れて都合も良い。幸いにして使用されているのはホルマリンでもメタノールでもなくて、エタノールだ。無害ではないが健康被害のリスクは低い。自分の指で酒造でもする気だったのかね稲葉組長は。吐き気すら覚えるよ」


 車両の後ろから、大きなエンジンが吹かされる。


 頭を出してバックウィンドウから音源の方を視認すると、黒いヘルメットとライダースーツを着た集団が追いかけてきていた。ぱっと見ただけで三台はいる。死角に隠れているバイクを含めると、その倍近くが潜んでいるのかもしれない。


「もう追い付かれたか。飛ばすからつかまってて」


 バンのエンジンが大きくがなる。車体が揺れる前に発泡スチロールの蓋をした。


 スピードを出した車が、黄色信号を無視して左折する。急激な重力負荷で僕の身体が車のドアに衝突する。遅れて大量の箱が僕を押し潰してくる。


 発泡スチロールの蓋を開けて、組長さんの指の入った瓶を確認する。無事だった。


「あと十分もあれば到着するんだが、堪え性のない連中で困る」

「公道で暴力なんて」

「有り得る。相手は近藤組だ」

「ですよね」


 法に抵触しなければ、殺人すらも是にするのがヤクザであり、法が照らせる範囲は限定的である。人目に触れず、通報もされず、被害者の口を塞ぎ、証拠さえ残さねば法的に認知されない。今の僕らが警察に通報できないと理解していて、追撃を行っているのだろう。


 お天道様でも、屋根の下までは見通せない。


 赤信号で停止する。ドアが横からガンガンと殴られている。ノックと捉えればノックなのかもしれない力加減ではあるが、威圧行為以外の何物でもない。


「この車が目的地の十分圏内に入っている時点で、私たちの勝ちだ。いきなり銃口を突き付けられるみたいな、後先考えない野蛮な行為さえされなければね」

「ヤクザ相手に無理な要求でしょうそれは」

「どうせ帝国ホテルにも回り込まれているんだろうが、カタギの前でヤンチャをする時代でもない。今されてるみたいな煽り運転がせいぜいだ。暴対法を舐めんなよと」


 青信号になる。


 絶え間ないノックが車内を脅かす。構わず勲矢さんはアクセルを踏み込んだ。


 スピードメーターの針がぐんぐん上昇していく。四〇、六〇、八〇。車窓から視線を投げ出す。バイクの数が五台に増えていた。前方以外の三方を囲まれている。超近距離にいるが、走行中は手を出してこない。護送されているようですらある。


 十階以上はある大きくて茶色い建物が見えてくる。あれが帝国ホテルなのだろう。


 百以上の小さな窓がついた長方形の建物の真横に、背の低い平べったい部分が連結されている。ヤクザマンションの敷地がゆうに二つは入る大きさだ。公道に面した車両侵入口には複数の旗が掲げられている。日の丸もある。そこから奥に進んだところに、タクシーが二台ほど停車している。


 勲矢さんは減速せずに敷地内に乗りあげて、送迎者乗着場の一番端に車を停止させた。


「大将のお出ましのようだ」


 茶色いタイルが敷かれた乗着場には、バイクに乗っていた近藤組組員と思しき男たちの他に、増援らしい組員が十人余りも集まっていた。僕らが車から降りてくるのを今か今かと待ち構えているらしい。


 最後方には小平さんの姿もある。


 裕也さんを始末した慰労を込めて、休暇に入ったということもなかったようだ。感情が全て顔から抜け落ちたように生気がないが、身体の調子が悪いわけでもないのだろう。


 隣に佇む組長さんは小平さんを気遣う風でもなく、手に携えた白杖を剣のように地面に突き立て、炯々と眼光を放っていた。


「理人くん。その発泡スチロールのケースを任せてもいいかな。外に出るときも持って出てきて欲しい」

「渡すんですか?」

「向こうの出方によるよ。物品や証拠を提示するタイミングは、それが最も効果を及ぼす時期を見計らって決めるべきだからね。その舞台は、これから私が作ってくる」


 そう簡単に返すつもりはないのだろう。


 表情を引き締めた勲矢さんが、エンジンを切って外に出る。


 静かに運転席のドアを閉めると、車の前を横切ってホテル側へ回り込んで行くのであった。

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