第五話 融解
プリムラは、二十六歳になった。
そして、次期女王のアングレカムは、十三歳。氷の国の女王になるためには、為さねばならない儀式がある。
「アングレカム、あなたも十三になりました。人間界に赴き、五日間過ごしてくるのです」
「はい。わかりました、お母様」
プリムラは、オーロラの結晶を手渡した。アングレカムは、受け取った結晶をポケットに入れて、部屋を出ていく。
遠ざかっていく背中を見つめながら、プリムラは思い出していた。
――自身の母親とも呼べる、前女王のことを。
彼女とは、必要最低限の端的な会話をするばかりだった。
けれど、一度だけ。プリムラは母親に、尋ねてみたことがある。
「どうして人間界から気に入った品を持ち帰らなければならないのですか? それには、何か意味があるのですか?」
「忘れないためです」
「忘れないため?」
「えぇ。そして命を繋ぎ、幾星霜を重ねていくための……大切なものなのです」
プリムラには、その意味が、よくわからなかった。
けれど、いつもは強張っている母親の相好がほんの少しだけ緩み、穏やかな表情をしていたので――その行為がとても大切であるということだけは、理解することができたのだ。
それからプリムラは、ぼんやりと夢現で日々を過ごしていた。気づけば、ずいぶん長い時間が経っていたらしい。
厚い氷で出来た扉が、ギィッと音を立てて開かれる。
姿を現したのは、娘のアングレカムだった。人間界で五日間を過ごして帰ってきたのだ。
「ただいま帰りました」
「……帰ったのね」
「はい」
「持ち帰った品は?」
「これです」
アングレカムは、大きな星のような形をした白い花を一輪、取り出して見せる。
「では、それを祭壇へ」
アングレカムが花を祭壇の上に置けば、眩い光が弾けた。揺り籠には、新たな氷の命が生まれる。
今度はアングレカムが、次期氷の女王を育てながら、人間界に冬を生み出すことになるのだ。こうして冬は、巡っていく。
「これであなたが、この国の女王よ」
「はい」
「そして私は、お役御免ということね」
プリムラは、氷で出来た玉座から降り立った。けれどこれから、どうすればいいのかわからない。
為すべきことが終わったら、その次は……どうすればいいのだろう。
その時、祭壇の上に置かれたままのアイスグリーンが、キラリと光った。
「……グレビレア」
プリムラは、呟く。
そして、かつて触れた温もりを、思い出した。
――プリムラは、もう、氷の女王ではない。
プリムラは走った。
もう、氷の力は使えないから、自らの足で。
小石や枝を踏んでしまい、足の裏が切れた。血が滲んで、ズキズキと痛みだす。
けれど今のプリムラには、その痛みすらも気にならなかった。むしろ、心地よいくらいだ。生きていることを、実感できるから。
森を抜けて、小高い丘を越えて、辿り着いたのは、丸太で出来た小さな家。
けれど、そこに――グレビレアの姿はなかった。家はボロボロに朽ち果て、見る影もなくなっていた。
それはそうだ。
あれから、十三年の月日が経っているのだから。
「……何故かしら。今度は、ここも痛くなってきたわ」
足裏だけでなく、今度は身体の真ん中の辺りが、ズキズキと痛みだす。
そして、プリムラは気づいた。
この感情が、悲しくて寂しい、なのかもしれない、と。
お別れをする時、グレビレアに教えてもらった感情だ。
あの時のプリムラには、はっきりとわからなかったけれど、氷の女王の冠を降ろした今なら、よくわかる。
あの時も、そして、今も。
私は、グレビレアが側にいないことが、こんなにも悲しくて、寂しいのだ、と。
プリムラは、ポロポロと溢れてくる涙を止めたくて、目元を手で覆う。
その手に触れたのは――懐かしさを感じる温もりだった。
「お嬢さん、そんなに冷たい手をして……もしかして、長時間川にでも潜っていたのかい?」
プリムラは、ゆっくりと顔を上げた。
目を見開けば、目の縁に溜まっていた涙の雫が、ポロリと零れ落ちる。
「君、声が出ないの? ……いや、今はそんなことよりも、君の手の冷たさの方が問題だ。女の子が身体を冷やすのはよくないからね。よければ僕の家に来ないかい? 暖炉があるんだ。温まっていくといいよ」
プリムラは口を開こうとして、けれど慌てて、言葉をぐっと飲み込んだ。
(……いいえ、違うわ)
私はもう、氷の女王ではない。我慢する必要など、ないのだ。
「……えぇ。ぜひ、あなたの家に行きたいわ」
プリムラは、微笑む。
グレビレアも、泣きそうな顔をして、笑った。
「……よかった」
「それにしても、あなたはどうしてここに……?」
「コレが、教えてくれたんだよ」
グレビレアが握りしめたままの手のひらを開けば、オーロラの結晶から虹色の光が放たれ、プリムラに向かってまっすぐに伸びている。
「……ねぇ。一つだけ、お願い事をしてもいいかしら」
プリムラは、尋ねる。
グレビレアは、目を細めて頷いた。
「もちろんだよ。一つだなんて言わなくても、君の願いなら、僕は何でも叶えてあげたい」
「それじゃあ、これからずっと……私をあなたの側に、いさせてくれる?」
男はまた、笑って頷いた。
美しい女の手をとって、もう、離さないと。
誓いを込めて、涙に濡れた頬に、口づけを落とした。
――――季節は巡る。
この国に、再び厳しい冬がやってくる。
けれど、何も愁うことはない。
君と一緒なら、どんな寒さも乗り越えることができる。
木々に降り積もった、真っ白な
これから先、必ず訪れる温もりに、幸せに、胸を躍らせながら。
そうすれば、ほら。
花笑みの季節は、すぐそこに――。
融解のしるべを君に 小花衣いろは @irohao87
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