第四話 別れの時
プリムラが人間界に降りてきて、五日目。
プリムラは、今日、氷の国に帰らなければならない。
けれど、そのことを言い出せないまま、とうとう日も暮れ始めてきた。
「プリムラ、どうかしたの?」
〝何のこと?〟
「今日の君は、何だか浮かない顔をしているように見えるから。何かあったのかなって」
グレビレアが心配そうな面持ちで、プリムラの顔を覗き込んだ。アイスグリーンの瞳が、不安そうに揺らめいている。
「ねぇ、プリムラ。君は……氷の国に住む、お姫様か何かじゃないの?」
グレビレアが尋ねる。その声音は、確信を持っているような響きをはらんでいた。
プリムラは、
そして、グレビレアの片手を優しく掴んだ。
〝私ね、わかったの。寒い冬があるからこそ、温かさを感じることができるって〟
プリムラは、氷のように冷たい指で、グレビレアの手のひらに言の葉を綴る。
〝それに、冬が来なければ、氷売りのあなたは困るでしょう?〟
「僕は、冬が来なくたって……氷が手に入らなくたっていいんだ。君が、ずっと一緒にいてくれたら……それだけで、幸せだよ」
〝……ありがとう〟
プリムラは、嬉しくて、笑う。
〝ねぇ。一つだけ、お願い事をしてもいいかしら〟
「もちろんだよ。一つだなんて言わなくても、君の願いなら、僕は何でも叶えてあげたい」
〝……それじゃあ、あなたがいつも身に付けている襟巻き。それを、私にくれない?〟
グレビレアは、首元に巻いていたアイスグリーンをとって、プリムラの首元に優しく巻きつける。グレビレアの瞳と同じ色だ。
「うん。とてもよく似合ってるよ」
〝ありがとう〟
プリムラは、ポケットに入れていた塊を取り出した。オーロラの結晶だ。
これを使うなら、グレビレアのためにと決めていた。自分に温かさを教えてくれたグレビレアのために、願いの力を使いたかった。グレビレアに、自分も何かを返したかった。
〝これがあれば、お金でも、富も名声も……あなたの欲しいものが何でも一つ、手に入るわ。あなたの願いが叶うの〟
プリムラは、言の葉を綴った手のひらに、オーロラの結晶を落とした。
「……いらないよ」
けれどグレビレアは、オーロラの結晶をプリムラの手元に返した。
「さっきも言ったでしょ。僕は、君がそばにいてくれれば、それだけで幸せなんだ。プリムラがいなくなってしまうのは……悲しくて、寂しいよ」
そして、プリムラの目を真っ直ぐに見つめながら、自身の一番の願いを口にする。想いを、口にする。
(でも、私には……氷の国を見捨てることは、できない。私は私の責務を、全うしないと)
〝 〟
プリムラは、口パクで、祈るように呟いた。
そして、グレビレアの手を、両手で握りしめる。
どうか彼が、幸せでありますように。
私のことなんて忘れて、温かな世界で、笑っていてくれますように。
グレビレアの代わりに、何度も何度も願い事を繰り返しながら、そっと目を閉じる。
そして、温もりを、手放した。
プリムラは、返されたオーロラの結晶を小棚の上にそっと置いて、家を飛び出した。そのまま振り返ることなく、走る。
後ろからグレビレアの呼び止める声が聞こえたが、それでもプリムラは、振り向かなかった。
足元を凍らせて、その上を滑るように進んでいく。
小高い丘を越えて、森の中を抜けて、そして、あっという間に、凍えるような冷たさが漂う氷の国へと帰ってきた。
「帰ったのね」
「……はい。ただいま帰りました」
「持ち帰った品は?」
「これです」
プリムラは、グレビレアから受け取った襟巻きを、母親の前に取り出して見せる。
「では、それを祭壇へ」
プリムラは、言われた通りに、アイスグリーンを祭壇に置く。すると祭壇が、眩い光を放った。
「これからはあなたが、氷の女王よ」
「……はい」
「そして私は、お役御免ということね」
母親はそう言って、氷で出来た玉座から降り立った。
すると、祭壇と玉座の間にある、氷で出来た揺り籠に、小さな命が芽吹いた。――また、新たな氷の命が生まれたのだ。
プリムラはこれから、次期氷の女王となる赤ん坊を育てながら、人間界に冬を生み出すことになる。
「……さようなら、グレビレア」
プリムラは、呟いた。そして、氷の玉座に腰を下ろす。
先程まで座していた母親――嘗ての氷の女王の姿は、もう此処にはない。
そしてプリムラは、次第に、男のことを忘れていった。
温かさで満ちていた心も、今では氷のように冷たく、何の感情も持ち合わせなくなってしまった。
けれど、一年に一度。冬を生み出す時期。
城の天窓から見える美しいオーロラを目にすると、プリムラは、胸に痛みが走るのを感じていた。
けれど、その痛みの正体が何なのか、決して考えることはしなかった。
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