第二話 温かさ
プリムラは、歩き続けた。冷気漂う森を抜けて、小高い丘の上に辿り着いた。空を仰げば、澄みきった青色の中、細くかすれた白い雲が、どこまでも遠く伸びている。
地面に腰を下ろし、柔らかな芝生をそっと撫でてから、両手を上へとかざしてみる。そして、グッパッと、開いて閉じての動作を無意味に繰り返す。
「……変な感じね」
プリムラは、ボソリとつぶやいた。
城の外に出るのは生まれて初めてのことだ。
肌を撫でる柔らかな風や、降り注ぐ陽光、濃い土の匂い。そのどれもが、プリムラの心をふわふわと浮き立たせて、不思議な気持ちにさせた。
「やぁ、こんにちは」
声が聞こえた。若そうな男の声だ。
プリムラはその姿勢のまま、ゆっくりと背後を見る。
そこに立っていたのは、気の良さそうな雰囲気を纏った少年だった。
襟付きのシャツを腕まで捲り、その上に革製のベストを着ている。首元には、柔らかな布でできたアイスグリーンの襟巻きをしていた。
「あっ、と。驚かせちゃったかな? 僕はグレビレア。この辺りに住んでいてね。氷売りをしているんだ」
自らをグレビレアと名乗った男は、側までやってくると、空に向けて掲げたままだったプリムラの手を、そっと掴んだ。
そして、そのあまりの冷たさに、ギョッとした様子で目を見開く。
「君、何て冷たい手をしてるんだ! 冬にはまだほど遠いっていうのに……もしかして、長時間川にでも潜っていたのかい?」
プリムラは答えようとして、けれど、口を閉ざした。
氷の国の者は、地上の人間と言葉を交わしてはいけないという掟がある。
その声を聞いたら最後、人間は心の臓まで凍ってしまうと云われているからだ。
プリムラは首を横に振ってから、男の手のひらに、指で文字を書いた。
〝私の手は、いつも冷たいの〟
「君、声が出ないの? ……いや、今はそんなことよりも、君の手の冷たさの方が問題だ。女の子が身体を冷やすのはよくないからね。よければ僕の家に来ないかい? 暖炉があるんだ。温まっていくといいよ」
暖炉。プリムラが初めて耳にする言葉だった。
どんなものなのか気になったプリムラは、グレビレアについて行くことにした。
そこから歩いて十分ほどの場所に、グレビレアの家はあった。丸太を積み重ねて造られたその建物は、家というより、小屋と呼ぶのがしっくりくるような佇まいをしている。
「狭いところだけど、ゆっくりしていってよ」
扉を開けたグレビレアに続いて中に入ったプリムラは、初めて目にするものばかりの空間に、目をぱちぱちと瞬かせた。
「暖炉を使うには、まだ早いけど……今日は特別だ」
プリムラが視線を彷徨わせている間に、グレビレアは薪を並べて火をつけた。
(……これが、暖炉)
プリムラは、大きな瞳を瞬く。白い睫毛が、ふわりと揺れる。
揺らめく焔に、目を奪われてしまったのだ。
「もしかして、暖炉を知らないの?」
プリムラは、暖炉の炎から目を離さぬまま、静かに頷く。
「本当に? 君、ずいぶん変わってるんだね。もしかして、どこか遠くの国から来たとか?」
グレビレアは小首を傾げながら、暖炉に火を焚べる。
すると、火花がパチッと弾ける音が響いた。
驚いたプリムラは、思わず、隣にいたグレビレアの手を掴んでしまう。
「ふふ、驚いた?」
「っ、……」
声を出しそうになったが、慌てて口元を押さえて、コクリと頷く。そして、グレビレアの手のひらに、人差し指を沿わせる。
〝すごく驚いたわ。これが温かいってこと、なのね〟
今度はグレビレアが、驚いた顔をした。
暖炉が温かいのは、当然のことだ。そんなこと、幼子でも知っている。
けれど隣にいる少女は、そんな当たり前を、知らないようだ。
「……温かいものは、もっとたくさんあるんだよ」
〝そうなの?〟
「うん」
〝たとえば?〟
「そうだなぁ……お日様の光を浴びたふかふかのベッドに、グツグツ煮立てたミルクスープ。森にいるリスのふわふわな毛並みや、子どもたちの元気な笑い声。良くしてくれる街の人たちも、あったかいよ」
〝すごい。温かいって、たくさんあるのね〟
プリムラは、目を丸くする。
そんな表情に、グレビレアはおかしそうに笑った。
「ねぇ。君は、これから行くあてがあるの?」
プリムラは、首を横に振った。腰元まで伸びた珍しい白髪が、ふわりと揺れる。
「そっか。……君さえよければ、だけど。僕の家で過ごしていかないかい? 狭いところだけどさ」
〝いいの?〟
「あぁ、もちろん。こうして出会えたのも何かの縁だ。もっとたくさんの温かいものを、教えてあげるよ」
プリムラは少しの間考えてから、頷いた。
こうして、人間界での五日間を、グレビレアのもとで過ごすことに決めたのだ。
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