7.あなたを幸せに
「ですから、それの何が問題なんですか?」
自室に引き上げようとしていた涼真は、電話中の母親の言葉に足を止めました。
普段の母親らしい落ち着き払った声でしたが、リビング中に響き渡る声量です。怒気を孕んでいる様にも感じられます。
一体誰と話しているのでしょう。涼真は耳をそばだてました。
相手の声は聞こえてきませんでしたが、母親の話している内容から、何となく事情が分かってきます。
「ええ、私は交際を認めていますよ。他に誰か困る人がいますか?」「校長先生に報告して、何の意味があるんです?」「水口先生を教師でいられなくさせる事が、あなたの目的ですか?」
母親は相手を問いつめ、最後には「お話にならないので失礼します」と、自ら電話を切りました。
ふーっとため息を吐き、涼真の方を振り向きます。母親にしては珍しく、何かを言い
「水口先生の話だったの?」
涼真が尋ねると、母親は憂鬱そうな顔で頷きました。
「彼女の同僚で、学年主任だとかいう先生からの電話よ。その人は、あなたと水口先生が公園でキスをしているところを見たんですって。その人の考えでは、生徒と個人的な繋がりを持つ教師は存在してはいけないらしいわ。それで、校長先生に報告する事を検討しているのだそうよ」
淡々とした口調で告げられる事柄のひとつひとつが、涼真には衝撃的でした。
「どうやら彼は、私もその考えに賛同するものと思っていたみたいね。私がそれを否定したら、ひどく動揺してたわ」
「じゃあ、母さんは……」
水口先生をかばってくれたのだ、と分かりました。いつも涼真への干渉を避け、放任している様に思えた母親が、今回は味方をしてくれたのです。
「別にあなたの為ではないわ」
母親は涼真から離れ、ソファーに腰掛けながら言いました。
「ただ単に、水口先生が教師を辞める必要なんてないと伝えただけよ。彼女は変わり者だけれど筋が通ってるわ。教師にはぴったりじゃない」
先生の事をそう話す母親は、目を細め、優しい表情をしていました。
涼真は、授業をしている先生の姿を、ふと思い浮かべます。スーツの袖に付いてしまったチョークの粉や、生徒に何かを訴えかける真剣な眼差しを。
「涼真」と母親が呼びかけます。先程までとは違う鋭い目で、こちらを見上げています。
「先生を幸せにすると言った事、ちゃんと守れる?」
返事が出来ませんでした。
もちろん守らなければいけません。けれど、自分がキスをしてしまったせいで、先生は教師を辞めさせられるかも知れないのです。もしそうなってしまったら、守るどころか、傷つけてしまった事になります。
「大切な人を裏切ってはいけないわよ」
静かにそう言うと、母親はテーブルに置いてあった編みかけのセーターを手に取り、編み物を再開しました。
涼真はオフィス街の公園のベンチに、ひとりきりで座り込みました。
どうしてここに来てしまったのか、自分でも分かりません。ここに来れば、自分の犯したあやまちを取り消せる訳でもないのに。
けれどもう、どうしようもありませんでした。自分のせいで、先生が先生でいられなくなるなんて。
辺りはすっかり暗くなっています。仕事帰りのサラリーマンが、木枯らしの冷たさに肩をすくめながら、そばの道を通過していきます。
いつもなら、ペットショップで先生に会える時間です。初めてあの場所で会って以来、ほぼ毎日そこへ行き、顔を合わせているのです。
今頃、先生はあの場所にいるだろうか。
そもそもあんな出会いをしなければ、先生に迷惑を掛けずに済んだのに。そう思った時、勝手に涙が零れ落ちました。
かっこわるいなと思っても、止めどなくどんどん涙が出てきてしまいます。
手の甲で乱暴に拭い、歪んだ視界をクリアに戻そうとします。すると、さっきまで何もなかった地面に、パンプスを履いた足が現れました。
はっとして見上げると、一番会いたかった人がそこに立っていました。
「こんばんは」
嫌味のない、どこまでもまっすぐな声で、先生は挨拶をしました。
「どうしてここにいるの?」
「先生こそ、どうして」
「私は星野君を探しに来たの。ペットショップに行ってもいなかったから」
自然な調子で言い、涼真の隣にするりと座ります。いつもと何も変わりがありません。
「で、どうしてなの?」と、先生は涼真の目をじっと見つめてきます。
「自分でも、よく分かりません。ただ、先生に会わせる顔がないと思って。僕のせいで、僕達が付き合ってる事が、他の先生にバレちゃったから……」
「何だ、そんな事? 別に気にしなくたっていいんだよ。だって私、教師の仕事にこだわりなんてないし」
先生はくすくす笑っていました。その笑顔も含め、全てが嘘である様に、涼真には感じられました。
「やっぱり、辞めなきゃいけないんですか」
「まぁ、そうなるんじゃないかな。強制はされなくても、辞めないといけない雰囲気にはなると思う。そういう辞め方しちゃうと、他の学校に転勤するっていうのも難しくなってくるだろうし。でも別にいいの。この仕事にそこまで思い入れないし、どうせ私――」
「そんな風に言わないで下さい」
涼真は語気を強め、先生の言葉を遮りました。先生の大きな瞳が揺れています。
「僕、授業をしている時の先生が好きだったんです。何かを伝えたいっていう思いに溢れていたから。こだわりがないはず、ないじゃないですか。僕の為に嘘吐かないで下さい」
先生は諦念に近い笑みを浮かべ、下唇を軽く噛みました。
「そうだね。何だかんだでこの仕事、気に入ってたのかも。何か大切な事を、人に伝えられる仕事だって思ってて……本当にそんなものを伝える事が出来たのかは、分からないけどね」
少なくとも先生の思いは、生徒達にも伝わっていただろうと、涼真は思います。
けれど、それを口にする事は出来ませんでした。自分さえいなければ、先生は自分が納得するまで教師を続ける事が出来たのに。
涼真が黙っていると、先生は「さて」と手を叩きました。
「星野君、今教科書持ってる?」
「え?」
その問いかけの意図が分からず、涼真は戸惑います。
「持ってないの? 制服着てるから、てっきり学校帰りでそのままここに来たのかと思ったけど」
「いえ、いったん家に帰ったので今は……」
「そっか」
先生は頷きつつ、自分のショルダーバッグを開くと、中から本を取り出しました。生物基礎の教科書です。
「はい、これ貸してあげる」
「……どういう事ですか?」
「今から授業を始めます」
面食らう涼真を見て、先生はにっこりと微笑みました。
「教師を辞めたって、私は星野君の先生だよ。いつだって授業は出来るんだから」
再び涙が出てくるのを、涼真は堪えられませんでした。先生はそんな様子に気づいていないかの様に、平然と授業を進めます。
「では、教科書の171ページを開いて下さい」
震える手でページをめくりながら、幸せだ、と涼真は感じました。こんなにも近い距離で、先生の授業を独占出来るなんて、自分にはもったいないくらい幸せだ。
今この時だけは、この幸せを噛みしめていよう。行く先の不安なんて、考えずにいよう。
でもいつかは、先生の幸せを、ずっと守っていける人間になれます様に。
すてきないきもの 緑苔ピカソ @pikaso
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