墓参り

ようやく周りが落ち着いてきた頃、私は師匠の住んでいた家を訪れた。岸和田に来てからだいぶばたばたした日々が続いていたし、たまには柏尾兄と師匠と楽しく過ごした過去の記憶に浸りたかった。まあ実を言えば、師匠が少し恋しくなったのだ。

颯も近所の店を手伝わなければいけなかったらしく、今日は葵に留守番をしてもらっている。彼女はなんでも嫌な顔せず快く引き受けてくれるから、とても優しい。嫌な顔をすれば私たちが気を遣うと考えて、我慢してくれているのだろう。本当に、葵は昔から頑張り屋さんだな。

そんなことを考えながら道を歩いていると、ふんわりとした既視感が頭を襲う。昔、よく出入りした屋敷。見慣れた広い庭。おんぼろの道場は、見た目は全然違うけれど冬弥さんのところの道場を想起させた。ここが、師匠の家。

「こんにちはー律ですー」

少し声を張ってそう言ってみたけれど、誰も来るはずがない。しんと静まり返った家に、私の声が響くだけだった。強い哀愁を感じながら、私は道場の方へ回った。

道場の大きな扉をがらっと開けると、がらんとした広い部屋が広がる。履物を脱いで、私は礼をしてから道場へ足を踏み入れる。いつのまにか首に巻いていた襟巻を、そっと外して腕に抱きしめた。

中心まで歩いて行くにつれ、昔の記憶が瞼の裏に鮮やかに蘇る。生まれて初めて木剣を握った日。修練をしたくないと言って、師匠に怒られた日。壁に傷をつけてしまって、師匠に笑われた日。修練を積み重ねて、初めて師匠に褒められた日。自分のお父さんのように思うようになった日。町で泥棒を捕まえた師匠を、かっこいいと思った日。全部全部、楽しく輝かしい昔の思い出。もういないあなたとの大切な思い出。

全部全部思い出す度、涙が頬を伝った。ぐっと噛んだ唇からこらえきれない声が漏れて、道場の静かな空気を揺らした。

もう、悲しくない。仇はとった。大好きだった師匠のために、大好きだった兄弟子を切り殺した。もう、みんな居なくなってしまった。

抑えきれない嗚咽は次第に大きくなり、私は小さな子供のように泣きじゃくった。その度に、胸の奥がぎゅうぎゅうと苦しい。思い出さないようにしていたのに。どうして、どうして。

「ったく、任意って言っただろうが」

後ろで、呆れたように笑う声。今ではもう懐かしいその声は、二度と聞くことが叶わないはずだった。

今すぐ、後ろを振り向きたい。だけど、そうしたら師匠が消えてしまうんじゃないか。そんな思いが交錯して、私は道場の床に座り込んだまま動けなかった。

「お前は頑張り屋すぎるんだよ。昔っから、なあ?」

「だって、師匠に褒めてほしくて…」

揶揄うように笑う声に、私は子供のように拗ねた態度をとった。しかし、師匠はがははは、と豪快に、愉しそうに笑った。

「ごめんな、あんまり褒めてやれなかったからな。じゃあ~これならどうだ?」

その声と共に、頭をぽんぽんとされる感覚。その時ばかりは、私は上を見上げた。しかしそこには誰もおらず、頭の上には庭の木の葉が乗っているのみ。新緑の若々しいその葉は、風に乗って道場に入ってきたのだろう。私がふと庭の木に目をやると、懐かしい人影。そこには、優しく目じりを下げた師匠の姿が、確かにあった。

「師匠、ありがとう…」

「おう。強く生きろよ、律」

そんな声が、聞こえた気がした。強い風が吹き込んで、思わず目をつむるとそこには誰も居なかった。ただ、木の葉が楽し気に揺られるだけで。

私はゆっくり立ち上がって、涙でぼやける視界を袖で拭った。師匠からの形見の襟巻をまき直し、道場に向かって一礼。それから戸を閉めて、師匠の道場屋敷を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る