泡沫の夢

あなたの元へ

「ようやく、帰ってきた…」

懐かしい岸和田の風景を見たとたん、私の口から言葉がこぼれ出た。明治二年、七月。私は、仲間と思い出を置いてきた此処に、帰ってきたのだ。




***


海路から本州へと送られて、そこから岸和田まで歩いて帰ってくるのに、随分と月日が経った。道中は長廣さんとその部下数名がいたから、あまり寂しいとは思わなかった。なんといっても、ようやく岸和田に帰れると思った気持ちのほうが強かっただろう。

颯たちを残し、一人旅立った去年の夏からほとんど一年が経過している。長いようで、短い一年だった。いつのまにか私の黒髪は、結っても腰の辺りにくるぐらいまでになり、背も少しだけ伸びた。颯たちは、どこか変わっているだろうか。そんな気持ちを胸に抱きながら、私は長廣さんと一緒に岸和田城の門をくぐった。

城の中ではいつも通り、少人数が掃除に勤しんでいた。皆藩主の顔を見ると、おかえりなさい、よくぞご無事で、などと口々に言って、微笑みを浮かべた。長廣さんも、嬉しそうに微笑み返している。その横顔を見て、私もふっと表情を緩ませた。

長廣さんは真っ先に廊下を突き抜け、そそくさと台所の方へと足を向かせた。城の家事は、茶々が先導となって仕切っている。くのいちとの仕事を両立させるのは忙しかろうに、それでも仕事をこなす茶々はやはり凄腕だ。

私と長廣さん、二人して台所をひょっこり除くと、白い前掛けを付けた茶々の背中が見えた。もうすぐお昼時なので、昼餉を作っているのだろう。私はその背中をじっと見つめていたけれど、長廣さんは彼女に向かって歩みを進めた。


「茶々。、只今戻りました」


長廣さんが後ろでそう、静かに呟いた。鍋をかき混ぜていた茶々の手が止まり、ゆっくりと後ろを振り向く。若紫の瞳は、驚きと嬉しさに見開かれている。茶々は長廣さんの顔を数秒間見つめた後、静かに彼の胸に頭を預けた。その目じりには、きらりと光る涙。長廣さんは、優しく茶々を抱き寄せる。台所に差し込む夏の日差しが、二人の頬を明るく照らした。

「長廣はん、おかえりやす」

茶々が優しく呟く。二人は軽く抱擁を交わした。

「ただいま、」

私は、台所をそっと後にした。今は、二人にしてあげよう。




***




そして私は廊下をなんとなく歩いて、城の中をふらふらと巡っていた。巡りながら、颯や葵と出会った日を思い起こしていた。私が初めて人斬りをした日、颯が旅仲間に加わった日、彼が三色団子を買ってくれた日、葵と出会った日……。そんなことを考えながら廊下の角を曲がろうとすると、誰かとぶつかりそうになった。すれすれのところですっと躱したとき、相手の動きが止まる。どうしたものかと顔を上げると、橙色の瞳が私をじっと見つめていた。私は、ふっと微笑む。


「ただいま、葵」


私がそう口にすると同時に、葵が泣きながら笑った。涙が彼女の頬を濡らし、葵は嬉しそうに、安心したように微笑んでいた。私は彼女に向かって手を伸ばし、両手を背中に回す。すぐさま彼女も私を抱きしめ、人肌のぬくもりが伝わってくる。

「ずっと、待っとったで!律ちゃんが、絶対帰ってくるって…!」

絞り出したような声は懐かしく、私の瞳を滲ませる。

「遅くなってごめん」

「謝らんでいい…おかえり、おかえり律ちゃん!」

温かくて優しい葵の声が、張りつめていた心を解かすような。そんな気がした。しばらくの間、私たちは再会を喜ぶ涙を流した。葵は、もうこれでもかというくらい大声を上げて泣いていたけど。

「葵、もう大丈夫。私はずっとここにいるから」

嗚咽を漏らす大好きな親友の背中を、私は優しくさすりながらそう言った。葵はだんだん落ち着いてきたみたいで、私から両腕をほどいて向き直る。それから、朝日に輝く朝顔のように可愛らしい花笑みを浮かべた。

「せやな!」

彼女のその笑顔を見て、私もふんわりと微笑み返した。

「はやちゃんにまだ会うてへんやろ?案内するで」

「うん、ありがと」

葵は私の手を優しく引いて、城の外へと向かった。城の門を過ぎて、町の通りに出る。それからまた歩き出した。一体颯は今どこにいるのだろうか。



***



葵に手を引かれて連れてこられたのは、こぢんまりした味のある屋敷の前。規模は小さいほうだが、周りに並ぶ家と比べると少し大きい。葵が立ち尽くす私に手招きをし、屋敷の戸口へと消える。その背中を追って、私も屋敷の中に足を踏み入れた。まだ建てられたばかりのようで、家の梁や細かい装飾などはまだ色あせていない。掃除を念入りに行っているようだ。埃は少しも見えない。そんな思考を巡らせながら、私は颯のことは考えないようにしていた。こんな立派な屋敷、良いところの娘さんが住んでいそうだと、そう思ったから。もし颯が、私を死んだとして他の女子おなごと夫婦になっていたりしたら。私はたまらず逃げ出すだろう。颯がそれで幸せなら別にいい、けれど。私を一番近くで褒めてくれる人が、私があんなに愛した人が隣にいないなんて耐えられない。そう考えた時、胸の奥がずきりと疼いた。

「はやちゃん、はやちゃん。出てきーや!」

葵がとある襖の前で立ち止まって、部屋に向かって声を掛けている。私は俯いて、自分のつま先に目線を落とした。

「どうしたんだよ、何かあるのか?」

懐かしく、愛おしい声とともに、襖がゆっくりと開いた。その瞬間にそそくさと葵は屋敷の奥へ姿を消し、廊下に立つのは私だけ。颯が顔を出したとき、私の群青の瞳と彼の漆黒の瞳がぶつかった。

がた、と襖を思い切り押し開け、颯は私の顔をまじまじと見た。暫くの沈黙。それから颯は、安心したような優しい微笑みを浮かべた。そして、ずっと彼の顔を見つめ続ける私の躰を、優しく抱き寄せた。その途端に、懐かしい爽やかな香りが鼻を刺激する。黒文字の木のような爽やかな香りは、また私の瞳を濡らした。

「律、おかえり。待ってた、ずっと待ってた…」

「うん、私も。…私も逢いたかった」

絞り出した声は震えて、情けなかった。だけど、頬を伝う涙と嗚咽はなかなか止まらない。颯の着物の背中を手でしっかりつかんで、私は彼から離れまいと抱きしめた。

「なんか変だな。今日は素直だね、律。可愛いよ」

「ばか、」

「愛してる」

「私も、大好き」

優しく温かい彼の手が頬を撫で、私の顔を引き寄せる。お互い同色の前髪がふんわりとぶつかると同時に、唇を重ねた。少しだけ冷たくて、湿った唇は涙の味がした。短い口吸いを終えると、彼の濡れた瞳と視線が絡まる。私たちは微笑んで、再度抱擁を交わした。


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