俯く、立ち上がる

山の木々の爽やかな香りが、私の鼻をくすぐる。小雨が当たってぱらぱらと木の葉が音を立て、ひんやりした霧が私の頬を撫でた。ゆっくり目を開けると、私は木陰に横たわっていた。隣を見ると、先ほど刀を打ち合った斎藤がこちらに背を向けて座っている。

「ん、起きたか」

「なんで助けたの?」

「…なんとなくだ」

「ふうん」

未だにこれが夢なんじゃないかと心のどこかで思っている自分がいる。敵である彼が私を助ける理由なんて、初対面だし全然ない。でも敵である私も、今彼と斬り合おうとなんて思わなかった。ひょっとしたらこいつお人好しなのか、でもそんな顔には見えないな。訝しげな目線を斎藤に向けていると、彼ははあっと大きい溜息をついて口を開いた。

「お前はまだ刀を握るべきじゃない。覚悟が足りてない」

斎藤は私に向かってきっぱりと言った。その言葉に、私は悔しさと苛立ちが湧く。

「どういうこと」

「そのままの意味だ。お前は人の命を背負う覚悟ができていない」

「そんなわけ…」

「あの時自分の目標を見失っているようでは、まだまだだな」

「…」

斎藤の言葉が図星で、私は黙りこくって俯いた。いつだって私の傍には守るべき人がいて、手を伸ばせばすぐに届いた。にっこりと微笑み返してもくれた。だけど、今回は似ているようで少し違う。漠然とした大勢の人数を「守る」って言ったって、私には実感が湧いていなかったのだろう。守るだけならまだしも、顔も知らない人のために顔も知らない人を斬るとなったから、私は途中で迷走してしまったのだ。なるほど、斎藤の言う通りじゃないか。脚下照顧きゃっかしょうこの心を忘れてはいけない、私ってなんて愚かだったんだろう。

「お前、大義のために戦うなんてしたことないだろ?」

「当たり前でしょ」

「ふ、だろうな。らしくない」

「何とでも言え…」

私は膝を抱えて、そこに顔を埋めた。自分の無力感と虚しさ、悔しさがこみ上げてきて、気持ちが海底にぐっと沈んだような気分がした。暗く黒く沈んだ気持ちは、目の前から色彩を奪っていく。泣きたかったけど、なぜか泣けなかった。

「落ち込んでるのか」

「……だったらなに?」

斎藤が急に私を揶揄うようにそう言ってきて、私はさらに泣きたくなった。ぶっきらぼうに言い返した私の声は、小刻みに震えていて弱々しかった。もうしばらくは話しかけてほしくなかったけど、斎藤は気にせず私に向かって言葉を続けた。

「人のために手を汚すのは、善の心を少なくとも持つものにとっては辛く苦しい。それでも、俺たちが汚れ仕事を引き受けるおかげで助かる命があるんだ。まあ、奪わないといけない命もあるがな」

「……」

「どうだ?俺が言うと説得力が増すだろ」

「まあね」

斎藤の声色は、静かで落ち着いていた。新撰組という大義のための組織に加担しているだけあって、これまでの苦労は計り知れないほどあったんだろう。だから、こいつは肝が据わっている。でも、どこか幸せを諦めているような目をしていた。人の愛情を受けなかったような、冷たい心が声色にも表れている。

「ありがと。あんたのお陰で覚悟が決まってきた」

「次は、本気で殺し合おう。律」

「…うん」

私が感謝を述べると、斎藤はすくっと立ち上がった。浅葱色の羽織をしっかり着直すと、私に向かって生意気にそう言った。そしてゆっくりと歩き始め、真っ白な濃霧の中へ消えていった。

「あ、あいつ、どっちに誰が居るくらい教えてよ…」





私が新政府軍の方へ戻ると、大歓声を浴びせられた。斎藤と戦う前に峠の道で出会った少年がにっこりとした笑顔で駆け寄ってきて、私に愛嬌たっぷりの微笑みを見せた。

「とても格好よかったです!まるで蒼い鷹のようでした!!」

「あ、ありがと」

どうやら母成峠のこの戦いは、私が先陣を切ったおかげで一日で終了してしまったらしい。大砲で少なからず死者は出たものの、こんなに死人が少ない戦は初めてだと伊地知さんにも感謝された。皆の笑顔を見ていると、斎藤の言葉も相まって、戦場で刀を振るう覚悟ができた。この笑顔を守るため、戦いのない世界を新政府に託すために私は戦うんだ。そう、心にしっかりと焼き付けた。

「律、ご苦労さん。やっぱすげえな、お前は」

「し、師匠…その怪我…」

わしわしと頭を撫でてきた師匠の手を払いながら、私は師匠の躰へ目を向けた。あちこち傷だらけで、右の脹脛ふくらはぎなんて皮がずるりと向けて血が絶え間なく流れている。一体なにが…

「まあ、名誉の負傷だ!はっはっは!!」

「なにが面白いのそれ。早く治療受けてよ」

豪快にがはははと笑う師匠の背中を、治療隊の方へ押しながら私はそう言った。腕に力を込めたとき、ふと脇腹を斎藤に刺されたことを思い出した。ぱっと視線を向けても脇腹はそこまで痛まない。不思議に思って小袖の合わせを開いて覗いてみると、包帯がまかれていた。なんだ、あいつ結構お人好しじゃん。そう思いながら合わせをもとに戻したとき、気づいたことを呟かずにはいられなかった。

「あの助平野郎…」

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