母成峠の戦い

どおん、と大砲のはじける音がして、湿った地面が泥を飛ばして窪みを作った。天候の悪いこの空気でも、大砲の火薬のにおいがした。

鼻腔に焦げ臭いにおいを感じながら、私は素早く峠を上る。木々の間を駆け抜け、台場を目指して疾駆する。耳元でびゅうびゅうと風を切る音と、大砲の轟きがこだました。

「敵襲!!敵襲!!」

「お前らがさっさと倒せ!」

急斜面を駆け上がってきた私は、まず一つ目の台場へとたどり着いた。姿を見るなり幕府軍隊士が周りに向かって、私がやってきたことを叫んで知らせる。たちまち私は大勢に取り囲まれ、一斉に攻撃を仕掛けられた。一人だけだからって、舐めるな。

心の中でそう呟くと、私は姿勢を低くとって幕府軍隊士たちの足元を薙ぎ払った。ざくっと手ごたえが肩に伝わり、地面に赤い花が咲く。隊士の悲鳴と怒号が入り混じって、場は混沌状態に陥った。

「たった一人になに手古摺ってる!早く殺せ!」

その場の隊長と思われる隊士が、ほかの隊士たちにそう叫ぶ。しかし、もう遅い。皆足首の腱を斬られ、痛みも含めてもう立ち上がれないはずだ。呻き声を漏らす隊士たちがそこら中に蹲って刀を手放している。その様子を見た隊長は、瞳に恐怖の色を浮かべた。

「ばっ、化け物!化け物!」

「何とでも言えば」

私がそう言い放つと、彼は刀を手に逃げ出した。私は逃げる彼の背中を縦に斬り裂き、足で蹴って転ばせた。

「仲間、見捨てていいの?まだ生きてるけど」

私の問いかけに、彼はぎゃんぎゃんと五月蠅く喚く。

「五月蠅い五月蠅い!離せ!」

私は心底苛ついていた。隊長という立場でありながら、仲間を見捨てて逃げ出すその精神に。隊長だからこうしなければならない、といった自分の価値観を押し付けるのは駄目なことだって分かっている。だけど、刀も抜かずに偉そうに踏ん反り返る姿を見ていて、苛つかずにいられただろうか。自分だけ助かればいいと逃げ出すこいつを隊長に命じたのはどこのどいつだろうか。私は無意識に刀を振り下ろし、隊長と思しきこいつの頭を刀の棟で打った。がくりと意識を手放した彼を一瞥して、私は台場に置かれた大砲を真っ二つにした。

「駄目だよ、律。感情に任せたら駄目」

愛刀を流れる鮮血を払いながら、私は戒めの言葉を自分自身に掛けた。伊地知さんに言われたじゃないか、皆を護るために先陣を切って襲撃してくれって。人を護るための刀なんだ、これは。感情に任せて斬っちゃ駄目だ。

私は思いっきり自分の頬を叩いた。口の中が切れて、血の鉄のような味が口内に広がる。そして小雨の濃霧の中を、再び前を目指して走り始めた。



***



一体、いくら人を斬っただろうか。鉛白色の袴は、一部泥や返り血で赤や茶色に染まっている。はあはあと息を吐きながら、私は後ろを振り返った。なるべく苦しまないように、一撃で屠った隊士たちが地面に横たわっている。真っ二つに叩き斬られた大砲と、たった一人の私。何も考えられず、頭の中が真っ白になった私の頭上で、大砲のはじける音と火薬のにおいがした。まだ、頂上に隊士が残ってる。はやく始末しないと。ただそれだけ考えて、私は再び走り出そうとした。その時。

「あの、護ってくれてありがとうございます!」

背後から声がした。顔を向けると、全身傷だらけの薩摩藩隊士が私を見ていた。その後ろにはここまで生き残った新政府軍本隊の皆達。

「無事でよかった」

私は彼らに薄く微笑むと、頂上を目指して駆け出した。



頂上には大勢の幕府軍隊士が居て、大砲にて新政府軍と渡り合っていた。そんな大勢の人たちの背中を見ながら、私はそこに突っ込んでいく。濃霧のせいで姿はあんまり見えないらしい。足音でようやく気付いたのか、一人の隊士が大声を上げた。

「敵襲!!直ちに対応せよ!」

私に向かってくる隊士は、全員一撃で屠る。いつのまにか戦いのときに感じていた緊張感も感じなくなっていて、ふわふわと舞うように隊士を斬り伏せた。周りの人が誰も息をしなくなったところで、私は動きを止める。その時、ふと視界に浅葱色にだんだら模様の羽織を着た男の背中が映った。

「人斬りに堕ちた顔だな。もう元には戻れん」

背の「誠」の一字を翻して、男は振り向いた。男の吊り目の奥には、赤い眼光が鋭い光を放っている。師匠の目よりも、ずっと冷たくて痛い。私がずっと黙っていると、男は刀をぴしりと構えた。一切の隙が無い構え、おそらく強敵だろう。

「新撰組三番隊組長、斎藤一」

「律」

ぽつりと私が呟くと、斎藤と名乗った男は刀を振るった。私はその刀を無心ではじき返す。オレンジ色の火花がちりりと散って、焦げ臭いにおいがした。私は後ろに思いっきり飛びのいて間合いを取る。それから低い姿勢で突っ込んで行くと、斎藤は驚いたような顔をした。彼は刀で私の刺突攻撃を防ごうとしたが、正確に防ぐことはできなかった。鋭い剣戟が斎藤の肩を貫き、私は刀を思いっきり引き抜く。

「ぐっ…!」

斎藤の呻く声が聞こえたが、同時に私の脇腹にも鋭い痛みが走った。刀を突き立てられ、私の脇腹からは鮮血があふれ出る。ばっと引き抜かれて、私はふらっとよろけた。体力の限界だ、長時間動きっぱなしだったせいで。よろけたところを突かれ、刀で胸を引き裂かれる。反動で私の躰は後ろへ傾き、地面にどさりと崩れ落ちた。

しゃきっと刀の音がして、斎藤の切っ先が喉元に突き付けられる。少しだけ刀を押し込まれて、私の喉元に血がつうと垂れた。

鎌鼬かまいたちのような女だ。血がまるで出ない」

斎藤は肩の傷を庇いながら、私を見下ろした。血のような赤い目は、冷たく私の胸を引き裂いていく。

「殺したいなら、殺せば」

「なぜ抵抗しない?先刻まで刀を振るっていたというのに」

体力の限界と、大量出血でおぼろげになる。灰色の曇り空と濃霧を見上げながら、私は瞳を閉じる。その時、無意識に斎藤に口を利いていた。

「もう、分からない。……分からないんだよ」

いつだって私は、人を護るために愛刀と自分の両手を血に染めたはずだった。でも今回は、なんだか違う気がする。私は一体誰を守っているんだっけ。

颯や葵、茶々の身の安全のため。戦わなくて済む世界を、新政府に託すため。そうだ、そうだった。ひたすら無心で戦い続けていたから忘れてしまっていた。でも。

「なるべく人斬りはしたくない。けどしなきゃ皆が殺される」

皆の幸せを守れるなら、私はどんなに手が汚れたっていい。そう決めたじゃないか。何をいまさら、人でなくなることを恐れているのだろうか。

「私はまだ、人間のままで居たいみたい」

私はそう呟くと同時に、温かい涙が頬を伝うのを感じた。やがて喉元に突き付けられた刀は離れていき、代わりに躰を斎藤に持ち上げられた。私はぶらりと垂れ下がった手に、愛刀をしっかりと握りしめる。絶対に落とさないように。


「お人好しの小娘か、お前が刀を握るのはまだ苛酷だな。自分の首をあまり締めすぎるな」


斎藤のそう言った声に、少し慈しみの心が紛れていたのは気のせいだっただろうか。

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