隻影

葵や颯、茶々に一言声をかけて、私は戊辰戦争の戦地へと旅立った。みんなに会うのはこれで最後かもしれないし、そうじゃないかもしれない。夜闇に沈む涼しい夏の道を、私は師匠と並んで歩いていく。師匠はさっきから何も言わず、手にぶら下げた提灯で道を照らすだけだった。

茶々、葵、颯。私、絶対生きて帰るから。

強い決意を胸に、私は足元に落としていた視線を暗い道の彼方へ向けた。




***



だいぶ歩いて戦地へ近づくにつれて、争いの爪痕が土地に表れ始めた。打ち捨てられた刀に、血に染まった羽織。死人を弔ったのか、土が盛り上がっているところもあった。颯たちと岸和田で別れてから二週間が過ぎようとしている。途中で戦争へ参加する藩士たちと合流しながら、馬などを使って私たちは会津を目指していた。暦は葉月になり、暑さも本格的に夏になってきている。だが今日はあいにくの雨で、数メートル先も霧が濃くてよく見えない。しっとりと濡れた前髪を掻き上げ、私は顔を前へ向けた。

「師匠、人の気配がする」

「お前も気づいたか、流石俺の弟子だな」

「あっそ」

「冷たいなぁ」

濃霧の向こうから気配を殺すように近づいてきたのは、偉そうな身なりをした男だった。師匠よりも年がいっている顔だったが、それよりも葵とはまた違った人を観察するような目をしていた。

「お待ちしておりましたぞ、東さん」

「待たせて悪かったな、正治まさはるさん」

正治と呼ばれた男が微笑みながら師匠の肩を叩き、師匠はにかっと笑い返している。そして正治という男は私に向き直り、ふっと会釈をした。この人、位が高い人なんだろう。動作のすべてが上品だ。

「お初にお目にかかります、お嬢さん。私は伊地知正治いじちまさはると申す者です」

「律です。敬語じゃなくて大丈夫です」

「分かった。では参ろう」

ぶっきらぼうに答える私を気にすることもなく、伊地知さんは濃霧の中を歩く。その背中を追って、私と師匠も歩み始めた。そうして歩いている間に、こそこそとなるべく小声で今回の作戦と私たちの持ち場などを詳しく説明してくれた。

この前にあった東北戦争は、東北諸藩が「奥羽越列藩同盟」として新政府に対立する軍事同盟を結成したことがきっかけだ。そのため、今回の戦いは東北戦争の延長線上にある。そして、今回私たちが攻撃を仕掛けるのは「奥羽越列藩同盟」の中心となる勢力、会津藩だ。

会津に同情的な東北諸藩を攻めようという意見も出たそうだが、先に会津を攻めるのが適切と伊地知さんは考えたらしい。そして、今回の作戦に至る。

話を聞けば、伊地知さんはとても策士な人のようだ。師匠に聞けば、片目と片足が不自由なのに関わらず、白河口の戦いでわずか700の兵で2500名の幕府軍を撃破した超凄い人らしい。「類まれな軍略家」なんて異名もあるそうだ。

「まあ、持久戦が苦手なだけだ。軍略家なんて買いかぶりすぎだなぁ」

私が異名のことについて問うと、伊地知さんは照れくさそうに頭を掻いた。傲慢な人ではなさそう、意外と謙虚だ。そして伊地知さんは優しい眼で私を見ると、背中をぽんぽんとかなり控えめに叩いた。

「お嬢さん。どっちの味方につくのか、早い目に決めておいた方がいいぞ」

「…分かってます」

私は、一体どっちの味方になりたいのか。それはもう半分ほど決まっている。従来のように幕藩体制で国を治めれば、それぞれの大名が好きなことを言ったりしたりするだろう。そう言った意味では、私は新政府を支持したいと思う。同時に「人を殺さずに済む世界」を新政府が作ってくれるのではないか、という淡い期待を彼らに託してみたいのだ。

せめて、愛する人、この目に留まる人々を護りたい。そんな私の思いが届くかどうかは、私の行動で決まる。

そんな思考を巡らせている内に、濃霧に包まれた母成峠が見えてきた。ついたぞ、という伊地知さんの声に顔を上げると、真っ白い霧にすっぽりと包み込まれた峠が目の前に佇んでいた。

「お嬢さんは薩摩藩と土佐藩に混ざって本隊についてくれ。よろしく頼むぞ」

「はい」

そこで伊地知さんとは別れて、師匠とともに本隊へ混ざった。しっとりと濡れる黒髪を耳に掛け、手を刀の柄に触れさせて私は歩み始めた。


戦いの火蓋が再び、切って落とされる。

私は群青の双眸を見開くと、峠のはるか彼方を見つめた。

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