無力感


畳に広げた斬奸状を、俺は文字も読めなくなるまで無言で破り捨てた。今夜零時。やつらは「黒羽」の拠点を指定してきた。

口先ばかりじゃないか、守るだなんて。全然守れていない、むしろ遊馬の言った通り守られているだけだ。律があの針を斬ろうとしなかったのは、斬撃によって針に付着した毒が俺たちに飛ばないようにしてくれたのだと思う。そこまで気を配ってくれる彼女は、どこまで優しいんだ。

「…俺が行く」

「………うん、分かった」

重々しい雰囲気の中、俺は口を開いた。葵も茶々も俺と同じ気持ちなのだろう。律に毒を盛って攫った蛇女への怒り。守られるだけの不甲斐なさ。そして、助けられなかったという敗北感。俺だって、悔しくて悔しくてたまらない。行き場のない気持ちを、俺は闘争心に変えて挑むことにした。







肌にまとわりつくような、ねちっこい空気を感じて私は目を開いた。息が詰まってむせかいりそうなお香の匂い。どこもかしこも煌びやかな装飾がされている大きな部屋の畳に、私は投げ出されていた。まだぼんやりする頭を動かして、部屋の全貌をつかもうとする。すると、私の近くに胡坐をかいて座る女がいた。

「…面倒なことをしてくれたね」

「そんな顔しないで。かわいい顔が台無しじゃない」

にやにや笑いを絶やさないこの女は、昨晩岸和田城を襲撃に来た女だ。音もなく城の壁を這いあがってきて、難なく天守閣に入ってきたのを覚えている。毒を食らって私は倒れてしまい、この女に拉致された。毒消しを偶然持っていたので、それでだいぶ毒を抜くことができて死ぬことは免れた。

「わてはガガチ。お嬢ちゃんは?」

「言う訳ないでしょ」

「んふふ。かわいいわね」

そう言うと女はべろりと舌なめずりをする。その顔面を殴ってやりたいが、手足は拘束されていて動けない。愛刀と脇差は岸和田城に置いてきてしまったし、縄を切る手段がない。最大限の嫌悪を凝縮して睨みつけるが、この女にはまったく通用していない。どうにかして颯たちの元へ帰らなくては。そう思った時だった。

ガガチが私の一つに結った黒髪を手にして、すうと匂いを嗅いだ。ぞわっとするとともにもしかしたらという考えが浮かぶ。そして私のその思考を読み取ったかのように、ガガチは口を開いた。

「そうよぉ。わては女色なの」

耳元で粘着質な声で囁き、ガガチは私の耳を舐め上げた。ここで反応してしまえばこいつの思う壺だ。私は懸命に瞳をぎゅっと瞑って唇を噛んだ。躰を撫で上げるいやらしい手つきに背筋に悪寒が走るのも耐える。気色が悪い。私を愛しむように優しく包み込んでくれる颯とは違って、欲にまみれた乱暴な手つき。こんな状況でも、なにもできずに目をぎゅっとつぶっていることしかできない自分に嫌気が差した。

結局、守れない。その上心配や迷惑をかけるだけでなにもできない。ただただ人殺しなだけの駄目な人間だ。

こんなの、颯が嫌いになってもしょうがない。こんな私を助けに来るかどうかも分からない。

頬に舌を這わせられ、奴の唾液で肌が湿る。生暖かさに吐き気を覚えたその時、部屋の外でなにか騒ぐ声が聞こえてきた。けれど。



もうどうでもいいや。生きてても死んでいても、どうせ迷惑をかけるだけ。



外の騒ぎようも、ガガチのねちっこい囁きも私の耳にはもう届かなくなっていた。ぎゅっと握っていた拳をはらりと開く。颯に愛されなくなってしまったら、もう生きる意味も希望もない。そのくらい彼は、私を惹きつけて依存させていた。




師範せんせいを、一人で苦しめるつもりはありません。俺に頼ってください」




彼が言ってくれた言葉が、向けてくれた笑顔が鮮やかに脳内に蘇る。ごめんね、颯。私、迷惑かけてばっかりだよね。私の隣にいて幸せだったのかな、楽しかったのかな。


「分かんないや…」


思わず零れた声は、涙に濡れて震えていた。強がりで、天邪鬼で、素直じゃない私の手を引いてくれた人。こんな私を認めてくれた人。

私の隣にいて幸せになれないのなら、早く離れたほうがいいよ。心の真ん中ではそう思ってるはずなのに、どこかでずっと居てほしいという我儘な自分がいる。颯が助けに来てくれなかったら、私どうすればいいんだろう。どうしたらいいの?自分がどうしたいのかも分からない。


涙が頬を伝って畳に染みた。その時。


「律」


最愛の人が、名前を呼んだ気がした。

その瞬間、周りの音や景色が一瞬にして戻ってくる。壊れた襖に、土埃と血の匂い。そして部屋の入口に立つ、颯の姿。

「助けにきたぜ」

拠点を守っている人は多かっただろうに、すべて斬り伏せてきたのか。斬れない刀だったはずなのに、いつの間にか研がれて紅蓮に染まっている。私が驚いていると、颯を見据えたガガチがゆっくりと口を開いた。

「まだ零時じゃないのよ。時間が分からないの?」

「分かってる。でも、迎えに来るのは早い方がいいだろ」

そう言った颯の顔は、いつもと違っていた。声音も、明らかに違う。いつもの優しくて少し生意気な表情でも声でもない。だけどその言葉は、私の心を風となって揺らした。颯が刀に着いた血をぱっと払うと、畳を血の赤が彩る。

ガガチは私を横抱きに抱えると、部屋の隅へ移動させた。おそらく、戦う気だ。ガガチは脇に置かれていた刀を手にすると、にやりと笑みを浮かべた。

「折角、わてが手に入れたのに。欲しいなら力づくで奪ってみなさい?」

「上等だ。お前みたいな下衆に渡さない」

「…口が悪いわね」

そこで初めてガガチは不機嫌そうな表情を見せ、鋭く舌打ちをした。対する颯も目の色を変えている。怒っている、ようだ。それが分かるなり、なぜか少し安心する自分が居る。私のことをまだ必要としてくれている、その事実に私の彷徨っていた心はすとんと落ち着いた。ずっとそれが心配だったのか、臆病だな。

心で少しの葛藤をするが、颯からは絶対に目を離さない。伏せたまつ毛を再びあげて、颯に目線を上げた。ガガチは強い、颯と生きて帰れるかまだ分からないのだ。

「嬲り殺してやる。糞餓鬼」

ガガチはそう言うなり、禍々しい剣気を露わにした。どっと倒れそうな威圧、心臓が凍るほどの殺意。しかし颯も負けていない。いつもの漆黒の瞳を吊り上げて、ガガチを同じくらいの冷たい殺気で見つめていた。


ひゅっと風をきる音がして、二人は動き出す。

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