嵐の前夜


今回の標的「霧」は、いつ襲ってくるか分からないそう。そのため、私たちはこの大きなお屋敷に泊まらせてもらうことになった。正直、もうちょっと質素なところがよかった。今夜はあまり寝られなさそうだ。

そう思いながら、大きな屋敷を探索する。さっき通った吹き抜けの廊下に行くと、やっぱり美しい庭園が目に留まった。

「綺麗…」

水面に浮かぶ桜の花弁は、風に吹かれてふよふよと移動している。どうやら池には鯉だけでなくほかの魚も居るようで、時々水面からぱしゃっと音を立てて飛び跳ねる。そして、白い腹をきらりと光らせながら水の底へ潜っていく。

ざああと音がして、風が竹林や森を揺さぶる。そのたびに春の香りを鼻に運んできて、私の黒髪をふわりと揺らした。

「どうだ。この庭は綺麗だろう?」

「はい。とても」

庭園の風景に見とれていると、後ろから大河さんが話しかけてきた。私は前々から気配を感じ取っていたので、そこまで驚くことなく会話を始める。

「昔、儂の妻が生きておった頃に、この庭を造ったんだ」

「そうですか」

「妻は優秀なくのいちだった。だが、葵が12の頃に任務へ行ったっきり帰ってこなかった」

「今は、葵は何歳なんですか?」

「20。この間なったばかりだ」

驚いた。葵ったら私より年上だったのか。やっぱり人は見かけによらないって言うもんだな。そんなことを感じながら、大河さんの言葉に耳を傾ける。

明治では、もう江戸の頃のように忍は必要とされなくなってきている。そして、今回の「霧」という奴のせいで、忍の人数は激減しているらしい。理由は不明だが、忍だけを狙った暗殺がここのところ増えていて、知り合いまでもが消息を絶っているらしい。一体どういうことなのか。忍に恨みでもあるのだろうか。

「すまないな、律よ。儂の無力のせいでまだ小さなお主と、お主の刀に再び血を吸わせることになってしまった」

私が推理の思考を巡らせていると、大河さんは申し訳なさそうに眉を下げて謝ってきた。ちょっとびっくりしたが、先ほどもそんな面影を見たので顔色を変えずに私は口を開く。

「お気になさらず。私は、人のためなら汚れ仕事も受け付けると決めていますので」

私が大河さんを見上げると、彼はまた少し哀しそうな顔をした。そして、お昼ご飯ができたら葵が呼びにくるだろう、と言い残して去っていった。19の女子おなごに人斬りをさせるのは、おそらく気分が悪いのだろう。自分よりはるか年下の女子おなごに、自分を守るために人を殺せ、など、私がその立場だったら死んだほうがましと思う。しかし大河さんは「親方」と呼ばれていた。それなりにまだやらなければならないことがあるのだろう。そのために、私を使って死を免れるまでして。

「偉い人の気持ちは、私には分かんないや」

私がそう呟くと、池の魚がちゃぷんと飛び跳ねた。



***


その日の夕方。竹林や森からかあかあと鳴きながら飛び立つ烏が、とてもざわめいていることに私は気づいた。こういうのは人間より動物のほうが敏感だということか。

少し緩んでいた気を引き締め、襲撃者に備える。相手はこっちを殺しに来る、ならば殺し返すほどの覚悟をしておかねばならない。

「どこからでもかかってこい」

そう呟くと、私の体の中から無駄なものがすうっと抜けていく気がした。

「律、ここにいたのか」

「颯。どうしたの」

「いや、探してただけ」

「ふうん」

春のオレンジ色の西日に照らされ、部屋には影と光の境がくっきりと浮かび上がる。私と颯用に用意された部屋で、私は相棒となる愛刀を磨きはじめた。今回使い物にならなかったら困る。奴と殺す気で戦わねばならない。

油用下拭紙を使って、刀に塗ってある古い油をふき取る。この間も手入れしたが、だいぶ時間がたっていて汚くなっているだろう。打ち粉をつけるのも済ませて、私は刀身をしばらくじっと眺めた。鏡のように綺麗になった刀身には、艶やかな黒髪に群青色の瞳をした私が映る。少し傾けると、愛刀はきらりと光を反射した。

「俺も、日本刀買おうかな」

「人斬りでもするの?やめたほうがいいよ」

「いや、律を守るため」

とくにそれしか動機が見つからなかったため、雑に質問してみた。しかし、返ってきた言葉は、私の予想をはるかに上回った。

手入れが終わって抜群の切れ味になった愛刀を鞘に優しく仕舞うと、私は颯の方に向き直った。さぞ私が驚いた顔をしていたんだろう、颯は小さく微笑んだ。

「馬鹿」

私がそう言っても、颯はいつもみたいに諦めたような腑抜けた顔はしなかった。代わりに、私に向かって嬉しそうに微笑みかけてくれた。

私の頬は、いつのまにか熱を帯びていた。

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