善と悪
その日の夜、大きな物音で私たちは目が覚めた。
ばきっという木製の何かが壊れる音がして、私は反射的に枕元に横たえていた愛刀を握る。
どこからともなくすきま風が吹き込んできて、京の町に咲き誇る桜の香りを運んできた。どうやら道場の方の戸が壊されたようだ。
白い寝巻のまま、愛刀を手に私は道場へ向かう。そこには、私よりずっと背の高い男が立っていた。
「夜分遅くになんなの。迷惑だから帰ってよ」
「それはできないですねぇ、お嬢さん」
その男は、既に細い糸目を一層細くして、にやりと笑った。気色が悪い。
その襲撃者に嫌悪感を抱いたとき、男は腰の刀に手を掛けた。鋭い音が道場にこだまして、壊された戸から差し込む月明かりにぎらりと輝いた。
「
「誰も聞いてないし、頼んでないんだけど」
どうやら冬弥さんの聞いた噂は少し遅れていたようだ。その人斬りは道場を狙って襲いに来るらしいから、こいつで間違いないだろう。短い会話が済んだ後、私たちは一斉に動き出した。男は刀の刃を、私は刀の棟を向けて互いに斬撃を繰り出す。
戦闘経験こそあるが、私は刃を人に一度も向けたことがない。だって、これまで守るべきものは自分だけだったから。
がきぃん、と刀がオレンジ色の火花をぱっと散らした。こいつは強い。この間町で撃退したチンピラよりも手ごわそうだ。
「シッ…!」
気合の息を短く吐いて、私は得意の返し技を発動させ、男の眉間を棟打ちする。どん、と鈍い音がして、私の剣戟は命中した。そこで気を少し緩めてしまった私は、死角からの脇差に気づけなかった。
「安心するのはまだ早いよ、お嬢さん」
「…っく、」
体を貫くような鋭い痛みに体を縮こめると、男に腹を思いっきり蹴られた。私は無様にも後ろに大きく吹っ飛んで、地面に横たわった。
視界が霞む。痛みというのは何年ぶりだろうか。
立て。早く。じゃないとやられる。
守れ。冬弥さんと颯が奥で寝ているんだ。私が今諦めてどうする。
「はっ…!」
気合を入れて立ち上がると、私は再び愛刀を握りしめた。よろしくね、相棒。刀はそれに応えるように、きらりと輝いた。
次は確実に仕留める。そう決意して刀を構えた時だった。
「
「颯?!あ」
危ないから出てくるな。その言葉は、彼には届かなかった。
私が受けるはずだった剣戟に、彼は胸を引き裂かれた。生生しい音がして、目の前で颯が膝から崩れて倒れた。床には、赤い鮮血の水たまりが広がっていく。
「俺は、
昨日の颯の一言が、鮮やかに脳内に蘇った。
充満する血の匂い。
私は正気を保っていられそうになかった。こいつは人斬り、本物なんだ。
私はずっとどこかで、人斬りなんて居ないと思い込んでいた。甘い戯言を信用し続け、夢の中に閉じこもっていた。
現実なんて見てこなかった。
「どうしました、お嬢さん?今更怖くなりましたか?」
「……」
私の刀って、なんのためにあるんだっけ。何かを守るため?なにを?
そんなの、最初からなかったのかもしれない。
人は斬っちゃいけない。人殺しは絶対にだめ。
そんな暗黙の了解が、私の中にしみ込んでいた。それは、自分を守るため。自分が傷つかないため。
だからここで諦めるの?颯はまだ助かるかもしれない。
人は斬っちゃだめ。そんなの誰が言ったの?
颯を見捨てて、こいつを生かして帰す。
そんなものが善だというのならば。
「殺してやる。かかってこい」
私はいつしか、そう口から言い放っていた。その言葉を聞いた男は、愉しそうににやりと気色悪く笑った。
そこで私は、人生で初めて人に愛刀の刃を、切っ先を向けた。男の黒い瞳に、群青色の私の瞳が映る。
男が動くより早く、私は男の胴体を薙いだ。手ごたえがして、男は私に剣筋を触れさせる前に絶命した。そう、死んでしまった。これで私は人斬りとなった。
特に感情の起伏は起きず、颯の胸の傷を応急手当して、背負って冬弥のところへ向かった。
「私、明日にはここを出ていきます」
「…分かりました」
颯の傷の手当てをしながら、私は冬弥にそう言った。彼はなにかをこらえるように俯いたが、それ以上なにも言ってこなかった。
今や人斬りとなった私に、師範をする資格はない。
その意思を汲んでか、冬弥は箪笥からまだもらっていなかったお給金を出すと、私に手渡した。そして、小さく涙に濡れた声で言った。
「ありがとうございました…。いつでも、困ったら此処に帰ってきてください」
彼は分かっている。きっと私がこの道場のために絶対に戻ってこないということを。
「ありがとう。冬弥」
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