第39話 その名前に恋をして
私は彼に促されるまま、もう一度例の図書館を訪れていた。
「ここに最後のピースがある、というか、ないともう迷宮入りなんだ」
建て替えられてしまった図書館に何が、と思いながらも、そこまで強く言われてしまえばこれ以上は何も、と言えるわけもなく、再び館内を歩く。
面影なんてどこにもない。
ノスタルジーの欠片も感じさせない真新しい創りに、いったい。蔵書さえも全て新しくなったように綺麗で、いくら記憶を取り戻す原因になった場所だとはいえ、頼りすぎに思えた。
案の定彼の記憶に訴えかけるものは何もなくて、とうとう裏口に続く細い通路にまで来てしまった。ガラスパネルには市のイベントや職員の募集要項が掲載されていて、その前に置かれた長机にも同様のビラが等間隔で並べられている。
そこで彼はひた、と足を止めた。
「ここ。ここの造りだけは、当時と一緒だ」
後もう少し歩けば外に出てしまう、そんな自動ドアを前にして彼は言った。元々はこちら側にしか車を止められる場所がなかったな、とか思い出しながら、「確かにここだけは同じだね」と相槌を打った。
ドアを背に、右手に並ぶ長机に視線を落とした彼は、「ここ、ここで俺はミカに出逢ったんだ」と口にした。
「こ、ここ?」
「そう。厳密には、ここでミカを知った」
「えっ――」
どういうわけか、頭が理解するより先に視界が切り替わっていく。古びた通路に無造作に置かれた長机。随分と適当に置かれた手作りの絵本の数々。
――私はそれを、知っている。だってそこには、私の描いた本だってあったのだから。
「みんなに、うんめいのひとがいます」
母は地域のサークルに入っていた。私が小学生に上がるまでは仕事に復帰しなかった母は、幼稚園が終わってからは習い事や趣味の面倒を見てくれたけれど、絵本を手作りするのは彼女自身の趣味のようだった。
展覧会が近付いてくるとピリッとした空気もあって、いつもの優しさとはどこか違う雰囲気に憧れた私は、自然とそこに私のも置いてほしいと願った。
「ママの本、ママじゃないお名前を書くのはどうして?」
「それはね、ペンネームっていうの。お名前をちょっとだけお洒落するのよ」
そんな、そんな些細な、けれど大切なことを。
どうして今の今まで、思い出せなかったんだろう。
「ひまわりみか」
彼が振り向く。私もまた、彼と目を合わせる。
ほんの気まぐれで付けた名前だったから。
ひまわりは私が幼稚園の年長の時に所属していた組。みかは確か、その時好きだった先生の名前。みかで覚えてなんかいなかったし、ここに来るまで、そんな安易な理由で付けたことなんて思い出せるはずがなかった。
「もしかして、愛世、愛世があの絵本の……」
母はロマンチストだった。
父とは運命的な出逢いだったと、今でも時折口にするくらいだ。
いたって平凡な家庭の、ごくごく普通の両親。
そこにどんな物語があったのかなんて、知ろうとしてこなかった。でも二人には二人の、浮き沈みのあるストーリーがあったんだろう。
絵筆を動かす母は、必ずロマンスを描いていた。
一節だけ、私は母の絵本から借用した。
〝みんなに、運命の人がいる〟
ただ、それだけ。
それだけの一節に。
「そんな、そんなことだったの、あなたが、みかって名前にこだわった理由」
「あの時展示されてた絵本は他は大人ので、漢字だらけだったから、〝ひまわりみか〟のしか読めなかったんだよ」
「ばか、それだけであなたはこんな苦労を背負いこんだっていうの」
桜の花びらが降りかかる中、私たちは家路をゆったりと歩いていた。
「俺の親は、俺ができてしまったから別れられないみたいな結婚生活だった。幼いながらも二人のぎくしゃくした感じはよく分かってさ、何か俺、邪魔なんだろうなって思ったのを覚えてる。そんな時に、あの絵本だけが、俺の視線の高さにあって、俺にめくってほしそうにしてた」
私が絵本を出したのは後にも先にもあの一度だけ。小学校に入ると母は仕事に復帰して、サークルを離れてしまった。
「うんめいのひとって本当に俺にもいるんだろうか。俺が本を読むようになったのは、きっとその問いが俺の中であったからじゃないかな」
濡れた頬にひとひら触れて、離れなくて。
「そんな大事なこと、忘れないでいてくれよ」
「あなただって、きっかけさえ覚えてくれてたら、もっと早くに気付けてたのに」
その一枚を取りのけて微笑みかけてくれるあなた。
でも、二人は最初から赤い糸で結ばれていたわけではなかった。
「俺たち、どっちもバカだな」
「ね、ロマン性の欠片もない」
それは歩み出すためのきっけ。
それは立ち止まらないための後押し。
それは最後にもう少し手を伸ばすための余力。
いつだって諦めそうで、離れそうだった。
初めから結ばれていただなんて、とても言えない。
私たちはこれからも悩まなければいけないし、二人でいるために努力し続けなければならない。
今隣にいるあなたも、私も変わっていくのが当然で必然で、相手をどんなふうに視界に入れていて、どのように受け止めているのかを共有し、そのズレを上手く合わせていかなければならない。
運命の人なんて誰にだっていやしない。
最後に目を瞑るその一瞬まで、私たちは互いに手を伸ばしていなければ決して一緒ではない。
「愛してる」
私は彼の手を取った。
約束は、願掛けみたいなものだから、確かな事実をずっとあなたに届け続けようと思う。
「俺も愛してる」
あまりに不確かな私たち。
かろうじて繋ぎ止めてくれるその名前に、けれどずっと恋をして。
不器用に、今日も歩んでいく。
その名前に恋をして 杏珠るる @Lelou_Ange
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます