第38話 灰になっても

「カレ、すっごい心配してるよね」

 私はカレが誰だかまでは分からないフリをした。

 今まで、ずっと実花ちゃんを敵だとばかり思っていた。実花ちゃんもまた、彼を狙う人だと思っていたから。でもこの世界は思ったよりずっと狭くて、同じ一人を取り合って競う人なんている方が稀だから。

 遠い過去の印象を求めてやまない実花ちゃんと、ほんの一瞬知り合った人の珍しさにあてられた女の争いは最早醜いだけだった。

「だと思うよ。まずは実花ちゃんが元気になるのが一番大事だよ」

 これが普通の人間の振る舞いじゃないのは分かっている。世間一般の認識からすれば、一人の男性の元カノと今カノが同じ空間にいるだけのことだもの。

 でもこれは小説の設定でもなければ、演劇の脚本でもない。

 ただ一つ、現実。そう、実際のことでしかない。私が彼の恋人で、実花ちゃんがかつての恋人であるということ。真実と事実が一致するたった一点がそこにある。

 後はそれへの受け止め方を、二人がどうするかという話。

「彼ね、私がちょっとでも無理しようとしたら、すぐそんなの俺がやるからって言ってくれるの」

 そうだね。恋人が苦しむくらいなら、自分が率先して苦労しようとするから。

「それに、辛いことがあっても、先に私がどんな日だったのか聞いてくれるの」

 分かるよ。それが彼にとっての存在意義だったんだもの。

 でも、手の内を明かさなかったら、優しさを見せられた方は、それが思いやりしにしか感じられないよね。

「私はカレのそんな優しさが、とても愛おしかった」

 第一の優しさは誰にでも平等に与えられる冷たさ。一定の距離まで引き寄せる確かな優しさに似た、極限の本心は隠した小ずるいやり口。

「どんな私でも、柔らかく受け止めてくれるんだよ。愛世ちゃんのカレシも素敵だろうけど、私のが一番だと思うな」

 屈託など笑みに、もう「それは勝てないなあ」と笑いかけるより他なかった。無理に浮かべると言うよりは、無理にでも浮かべたかった。

「恋人といる時の私たちがきっと世界で一番美神だよね」

 あなたとは、何の関わりもない友だちとして知り合いとして出逢いたくなかったけれど――あなたに踏み込む人は、これまでどれほどいただろう。よほどいただろうのに、今この時あなたの傍、すっかり骨と皮になってしまっただけのあなたの手を切なく握るのは私だけしかいないあなた。

「いっそ私たちが付き合ったら最高の美神になったりしてね」

「たまにはカレに嫉妬させたいし、付き合ったフリしてみるー? いいよー?」

「良いかもね」

 私がどんな情報を含めて表情を創り上げているか、今のあなたには伝わらないことがこれで分かった。私はあなたの友だちでしかないと受け止められているんだろう。

 この頬に二つの滴が伝わっていたことは、最後まで理解してはもらえなかった。


「中辻君の記憶を持つあなたは、彼女がまともに戻ったら、どうするの」

 その質問は、彼女に会いに行くより前にぶつけるべきだと思った。けれど、いざ口にしようとすれば、喉元で随分とつっかえるものだった。

 それでも、あなたを前にしたら、言わない方が恥ずかしいことに思えた。少なくとも、私はそれを抱えたままあなたに誠実に対応できない。乱れて崩れて、半井君が指摘したとおり、苦しさにまみれた人にしかならないだろう。

「……実花とは、一緒にいられない。俺は彼女が好きになった俺ではないし、彼女の想いに応えようとした頃の俺でもないから。――あんなふうになった実花を放って生きていくことは、許されないのかもしれないけど」

 罰とか咎だとか、私たちの痛みを簡便に言い換える言葉はありふれている。けれどそのどれも自己満足で、誰の痛みも肩代わりはできない気がした。


「ねえ、実花ちゃん」

「なーに、愛世ちゃん」

 ずっと前に出逢えていたら、私はあなたを――私たちはあなたを救えたのかな。

 その世界線では私は、指を咥えて二人が一緒になるのを見つめていたのかもしれない。可能性の世界はいくらでも考えつく。

 でも私の眼前にあるのはただ一つの現実。

「私、彼氏のこと、誰よりも幸せにしたいと思ったんだ。実花ちゃんの頑張る姿を見て」

「きっとできるよ、愛世ちゃんなら。結婚式には絶対呼んでね」

「うん」

 あなたは美しい。誰より、何より、美しい。どれだけ間違っていて、わがままで、私の大切な人を傷つけた過去があったとしても。

 それでも、全部を帳消しにできるほど。

 まっすぐにあなたの愛する人の方を向いている。

 屁理屈と自己満足。あなたはこれからも苦しみ続けて、誰に話してもその振る舞いは是認されはしないだろう。私と彼はあなたを置いて前に進んで、過去を生き続けるあなたは今とどこかずれた時間を歩んでいく。

 いつか全て気付いた時、私とあなたは敵対するのかもしれないけれど。

「私たち、友だちだからね」

 あの教室から出て行った彼を生かしていたのは、他ならぬあなた。

 憎たらしく、憎みきれない人。

 きっとあなたがどんな見た目、どんな名前だったとしても。

 私はあなたの友だちになれて良かったと、灰になっても言いたい。

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