第37話 罪悪感すら抱けず

 冬がやってきた。

 年末年始を超えて後期の試験を終えれば、私たち四年生は就職して学生を終える。

 彩りを失いつつあるキャンパスにはまた長い休みを期待して浮かれつつある低学年と、自分の行く末を案じて俯きがちな高学年とがいる。

 でも実際は私がそんなふうに見たいだけで、実際はひとりひとり複雑な事情と簡単には片付けられない理由とを抱えながらそこにいると、今なら分かる。


「ミカが誰なのかは、取り戻した記憶の中にはなかった」

 落ち着いた私たちは、ようやくゆっくりと今ある情報について共有することになった。

 ソファの隣同士に座っているから、世界一近くに居るというのに、時にその距離は無限大に遠くも感じられた。

 彼は未だ渋っていたけれど、私がその両の拳に手を当てて「大丈夫」と伝えると、硬い表情は崩れた。

「白井実花は俺にこうあってほしい、という思いがあったんだと思う。期待の押しつけと言ってしまったらそれだけなんだろうけど、俺も最初はそれに応えようと全力で向き合ったから、上手く行っているような感じだった」

 思い出したことについては、たとえ実花ちゃんであっても隠さないでほしい(もちろん、彼のどうしても伏せたいことまでは詮索しないと念を押した)と言った。かつて二人がいた写真立ては空っぽになって、でも私がそこに入れ替わることもなかった。

「実花は――どこかおかしくなかったか」

 とてもぼんやりした質問に私がキョトンとすると、普通の人間じゃないと思うような場面がなかったか、と言い直した。

 中辻君について語る時、まるで今でも付き合っているかのような陶酔状態にあったと告げると、彼は目を伏せた。

「      」

 横文字のようだった。聞き返すことはできなかった。

「寝付けない時に飲む睡眠導入剤なんだけど、眠りにつくまでに副作用で幻覚とか幻聴が見えることがあるんだ。人によってどんな効果が出るかはまちまちなんだけど、実花は過去に戻ったような感覚を覚えるらしい。現実の俺じゃなくて、昔の俺と話してるみたいな感じになって、それがよっぽど心地良かったみたいで。寝れないから飲むってより、副作用が欲しさあまり、薬を飲むようになった。ほとんど薬物依存みたいになってて、もうやめてくれって言ったら、物凄く罵られた。まるで、実花じゃないみたいだった」

 項垂れる彼の頭を抱いた。薬物依存という言葉の強さはおぞましかったけれど、目の前の彼の苦しみにだけ目を向けると誓った私は、今日ばかりは多少強かった。

「どんな俺でいれば良いか分からなかった。実花と仲が良かった頃の俺にはもう戻れないし、かと言って当時の俺でいれば罵倒される。甘い言葉を必死に考えてかけて、限界の状態でご機嫌取りをするような状況だった。でも俺は、実花を責めたくはなかった。俺を求めてくれる人を捨てたら、俺が居なくなってしまう気がした」

 家庭で失ったものを、実花ちゃんに求めようとして頑張ったこと。けれど実花ちゃんが欲しいものとズレていて、その違いが少しずつ鮮明になって、二人の歩む道は最終的に大きく違っていたこと。

 彼の震えから、それが伝わって来たものの、私はまだ自分の認識がそれで正しいかは確認しなかった。彼が吐き出すと決めた以上、言葉が本当に詰まるまでは、待つことに決めていた。

「睡眠導入剤も含めて薬は慣れるから、同じ分量じゃ効かなくなっていくんだ。でも用量を超えて飲めばいわゆるオーバードーズになって、自分じゃ制御の効かない状況になる。薬を一気に飲んだ時は、意思疎通なんてとても図れない状態にまでなってた。まるで別人みたいな彼女を前にして、俺はもう、一緒には居られない気がした」

 それでも、それでも、と二度続ける彼は、ここまで彼といた私によく似ていた。

「俺が実花を知らないだけなんじゃないかと思って、実花の飲んでる薬を勝手に飲んだんだ。意識が飛ぶだけで、まるで過去なんて見なくて、その時の俺にはやっぱり、それがヤバい薬にしか思えなかった」

 喧嘩したんだ、と口にして初めて、彼は涙した。私を愛している間は泣くまいとしていたんだろう。私は片方の真珠をすくうと、「どんなあなたたでも受け止めるから」とだけ伝えた。

「もう薬を飲むのはやめてくれと言った俺に、実花は唯一の救いを奪おうとする奴に対する抵抗を見せた。当たり前だよな……俺はもう、実花の敵だったって言うのに」

 最後の日、彼は実花ちゃんのもらっていた薬を全文持ち出して彼女の家を離れたという。

「……本当に愚かだったと思う。同じ量で効かないなら、実花が飲むより多く飲めば、意味があるかと思って持ち出した全部を飲んだんだ」

 ……それが中辻君としての最後の記憶。ハッキリしているのは、かつて付き合っていた人がいるだろうと確信した記憶喪失状態の小暮君と、今までの日常。欠けた記憶を埋めようとしつつ消えたくない彼の矛盾が、結果的に私と彼とを結びつけた。


  私の前に座る二人組の女子から「えーっ!?」という声が聞こえたから、私は現実に戻ってきた。

「ミスコンの白井さんって、ヤバい人だったの?」

「あくまで噂だよ? でも、聞いちゃったからあのスタイルの良さも何て言うかちょっと分かるっていうか」

「詳しく教えてよ」

 人の会話に聞き耳を立てるなんて真似はしたくなかったけれど、味方とか敵とか簡単に二分して世界を見たくなかった私には、あくどいやり方だろうと、友だちの背景が知りたかった。まゆつば物なら、信じなければ良いだけなのだから。

「体型を維持するのに薬めちゃめちゃ飲んだりしてたらしいよ。副作用で今入院してて、理性もちょっと飛んでるんだって」

 ああ、それでも事実を孕みながら、きっと世界は真実に辿り着こうとまではしないんだろう。

「そうまでして人より美人でいたいとか、逆に不細工じゃんね」

「だよね、分かる〜」

 私にはちっとも分からない。彼女は私の辿り着く可能性の一つだった。愛される他の兄弟に自分を引き比べて、何か足りないと自分責めて、やっと意味を与えてくれた人。そんなの、惚れ込むに決まっている。

 本当に中辻君が唯一無二の存在だったんた。

〝愛世ちゃんはさ、この人のためになら死ねるなって思ったこと、ある?〟

 死ななかったんじゃなくて、死ねなかっただけなんだったとしたら。

 あなたと、ちゃんと話したいとさえ思ってしまった。

 分かるよ。あなたの愛する人は、こんなに素敵なんだ。

 惚れない人がいる人が可笑しいよね。


 丸井君のネットワークに頼れば、実花ちゃんの入院する病院を突き止めるのは容易かった。

「あ、愛世ちゃん!」

 ベッドの上の実花ちゃんは酷くやつれていて、でもその理由をもう解ってはいないようだった。理由は分からないものの体調不良で気を失って、安静が必要だから入院しているのだと足早に説明してくれたから、私は「早く良くなると良いね」としか言えなかったし、罪悪感もこれまで通りには抱けなかった。

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