第36話 言葉
「もしかして田中の彼氏君?」
「そうだが」
「彼氏ならさ、彼女をこんなに追い詰めてやるなよ」
半井君は私の半歩前に出たかと思うと、右腕を前に出して立ちはだかる素振りを見せた。
「ちょっと、半井君、何言い出すの」
らしくもない煽りに戸惑う。彼はそんな意地悪い素振りをするような人では断じてないはずだが、眼前の動きは完全に私の印象とは相反している。
「田中は君のことで凄く悩んでる。安心してくれよ。僕はただの高校時代の同級生だから。たまたま田中を見かけて、しんどそうに見えたから、無理言って話を聞いただけ」
「それで。俺じゃ愛世と不釣り合いだってか?」
「違う。よく見ろよ、田中の顔を」
私の顔を見た彼は、唇を噛んだ。
「田中は君の話を苦しそうに、でもとても大事そうに話した。二人がどうあってこんなふうに追い詰められたのかは伏せたまま、君のことをどこまでも想いながら自分の不安を吐き出した。だからこそ、今の君の顔を見て、僕は君のもとに田中が駆け付けるのを認められない」
ある曇りの日。
もうすっかり夜が明けたというのに、教室は暗く、蛍光灯の一つが切れていたからか、中辻君の席はとりわけ陰って見えた。
窓の向こうを見つめる彼の机の上には、いつもの文庫と違って縦長の書籍が題名を伏せて置かれていた。
「読み終わったの?」
「変なこと、聞いて良いか」
私の方を向かないまま、彼は言った。
「どうぞ?」
「愛し合っていても、愛が全く二人の間になくても、子どもはできるよな」
「う、うん」
「愛の果てに生まれてきた子と、ただの結果としてできた子は、どこかで差がつくのかな」
「ご、ごめん、何の話?」
「さっきまで読んでた小説の話」
それだけは、嘘だと分かった。読み終えたのは小説じゃない。どうしてそんな嘘を吐くのかまでは、分からなかったけれど。
「さっぱりだけど、足りないなら、後からくれる人を見つけたら良いんじゃないかな」
ふと、彼が目を丸くして私の方を向いた。私はそっと首を傾げた。
「そう、だな。道は後ろだけじゃ、ないな」
何か気付けたのか、彼は晴れやかな顔になって、私はもう、天気なんてどうでもよく感じていた。
「確かにな」
彼はあっさりと背を向けて歩き出した。その姿の、何と寂しげで、儚げなことか。
「待って!」
追いかけようとする私の腕を、半井君が掴んでいる。
「なんで、なんで急にあんな態度取るの。それに早く追いかけなきゃ」
「そんなやみくもな感じで行って、どうすんの? 喧嘩して終わりでしょ」
「でも!」
「どんな言葉をかけるかくらい、考えてから行きなよ。さっきの話しぶりじゃ、どう話すか、分かってないんでしょ」
「何なの、半井君には関係ないじゃん!」
「あるよ」
一瞬だけ見せた遠い目が、再びそこにあった。
私は力を抜いた。半井君ももう、掴む手に力を込めてはいなかった。
「葉山と付き合ってたんだ」
葉山――
「別れる直前の葉山の顔が、今の田中とそっくりだったんだ。自分と他人の悪いところばっかり見て、それをどうにか良くしようとして、元からあった良かった部分がおろそかになる。あいつからなけなしの笑顔を奪ったのは、僕なんだ。もっと落ち着いて話してれば、本当の意味で向き合えてれば、葉山は――」
だから、とこぼした半井君は私から手を離した。
「田中の彼氏が何を抱えてあんな態度を取るのか、僕は知らない。今、彼は歩み寄るだけの力がないんだろう。彼の中にはまだ、田中が一緒に居たいと思った良さがあるはずなんだ。どれだけ変わろうと、心惹かれた事実は、消したくても、消せない。忘れられないのは、嫌な出来事だけじゃないんだよな」
物事の明暗を見る時、どちらをより多く見るかの話だとすれば、私が目を向けていたのは、間違いなく悪い方だ。
「葉山と別れて以降、幸せにしてあげられなかった自分を責めて、同時にもう一度幸せになる方法を探してばかりいたんだ。でも田中を見てたら、葉山を幸せにしたいと思ってた頃を思い出せて、田中にも幸せでいてほしいと思ったんだ」
〝同じタイプのザ・明るい! みたいに思ってた子がさ、実は物凄い考えるタイプだった、みたいなことが本当にたくさんあって〟
「半井君も、ザ・明るい! ってタイプじゃなくて、物凄い考えるタイプだったんだね」
「……へ?」
「無自覚だったんだ」
「……かも、な。いや、葉山以外に対しては、ただの能天気なバカのはずなんだけど」
そこにどんな物語があったかは知らない。ただ、私たちはわがままな部外者だから、関わる人みんなに、幸せであってほしいと軽率に願う。
「引き留めてくれてありがとう。また、勢いだけで彼と向き合おうとするところだった。私、彼とちゃんと話してくる」
今度は半井君の顔を真っ正面から見つめて。どうしてこの人が好きだったのか、一瞬、思い出せなかった。
「ああ、田中ならできるさ」
まるで私を深く知っているような言いぶり。遠く懐かしむようなその眼はきっと、胡桃ちゃんとの会話の中で出てきたんだろう。
半井君を置いて、ひた走る。とても就活用のパンプスには向かない動きだけれど、ぼんやり歩くのはやっぱり違うから、足が痛まない程度に彼の家までの道を急ぐ。
東京の人たちだって、リクルートスーツで夕刻の道路を走る珍妙な女には多少目をやる。でもそんなのは、どうでも良かった。
彼にどんな言葉をかけるかは、あんなに大見得を切ってなお、やはり分からないまま。
歩道橋の真ん中に彼はいた。
「中辻君! 小暮君!」
今のあなたがどちらかなんて、あなたにすら分からないなら、私なんかに分かるわけがない。でも過ごした時間は全部本物だ。中辻君と中学の教室で過ごした刹那も、小暮君と明かした幾多の夜も、それが何者かなんて意識してのことじゃなかった。
その口から出る言葉が好きで、その手が選び取るものが好ましくて、迷い続けるあなたが、私にはずっとずっと近く思えた。
もう一度振り向いてくれたその顔の、どれだけ愛おしかったことか。
私は、あの夜、顔がとても良かったという理由だけで、彼に相席を許可したわけじゃないと思った。これまでほんのりと好ましく思ってきたアイドルも、あるいは半井君さえも、本に落ちるその視線の角度や、瞬きの仕方や、まとう雰囲気の一瞬一瞬が似ていたから。
私は、色んなものを好きになれるほど器用ではないらしい。飽き性でテキトーな私が、何故か彼の近くには足繁く通っていたということ。
それを許してくれるあなたの優しさに、甘えていて、どこかでとても愛おしさを覚えていたこと。
〝愛の果てに生まれてきた子〟だから、愛されることは当然だと思っていた。あなたもまた、人を愛することに長けていた。
当たり前すぎて、それが恋心だなんて、気付けなかった。
「私は、あなたの恋人だから!」
ああ、ダサい。就活終わりの格好ででこんなことを叫ぶなんて。今どき中学生だってこんなこっぱずかしい真似、やらないだろう。
もう、周りの目なんて良い。今、ここに大好きなあなたがいる。それより尊いことがこの世界のどこにあるだろう。
彼のもとへ走る。彼はもうそこから立ち去ろうとはしない。
「水切りが下手な中辻君も、上手な小暮君も、どっちも居てくれて良いから! どちらかにならなきゃいけないとか、どう振る舞うのが正しいかとか考えなくて良いから!」
変わらないものなんて何一つない。でもそれだと時々困るから、神様は人にそれを与えることにしたんだろう。
「だから! 弓弦君は私の、愛世の恋人なの!」
〝あいせちゃんって変な名前〟
〝だって、あいせちゃんって名前、他に聞いたことないもん〟
それで良い。この名前は、あなたに呼んでもらえたら、私が何より、嬉しいから。世界を愛せなくて良い。世界に愛されなくて良い。
ただ一人、あなたに。弓弦君にさえ呼んでもらえたら。
「あんまりデカい声張り上げるなよ、恥ずかしいって」
くしゃっと笑う。そんな弓弦君も、愛おしい。
抱きつく私の後頭部を彼はひとしきり撫でてくれた。
「嫉妬で狂いそうだった。もう他の男と二人で飯食いに行くのはナシな」
「うん、ごめん、配慮が足りなかった。高校の同級生だったからとはいえ、迂闊だったね」
「仕返し、一つだけして良いか?」
「嫌だけど、嫌な思いさせたから、良いよ」
背中に回された手に一層力が入ったのを感じた。
「あいつのこと、好きだったろ?」
「……うん」
嘘をつける人は確かにいるけど、私たちは嘘がつけない二人として歩いていこう。どちらも、向いてない。
「さっき言ったよな。愛世は俺の恋人だって。余所見してくれるなよ?」
「弓弦君って、結構束縛キツいタイプ?」
「別に猫かぶりはしてないって、元々。でも執着はちゃんとあんの」
「それはなくしちゃダメだし、なくさせないからね」
「それはこっちの台詞」
私たちには言葉の要らないたくさんの時間と、それにも増してたくさんの言葉を交わす時間が必要だ。
だってどれだけ考えてもお互いの気持ちは分からず、言葉以上のものだと思っていた触れ合いですら埋められなかった隔たりを埋めようとする想いの具現化がそれだから。
言葉にできない想いを伝える心の揺れ動きが有り余るほどある。でも、相手に少しでも自分を分かってもらおうと願うなら、ヒトは進化の過程で手に入れた言葉を補わなければならないだろう。
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