第33話 少しずつ違う私たち

 私は以前より自分の見た目にこだわるようになった。決して多くない貯金を切り崩して、今までより高い美容院に行ったり、今までは着るのがためらわれた大胆な服も買ったりした。

 どうあがいたところで私が実花ちゃんに成り代わることはできない。骨格や身長、声に顔の造形からして全く別物なのだから、無理に近付ければかえって不細工に見えるに違いない。

〝ちゃんと見てもらえるように、自分磨きに徹した。カレの好きな本を読んで、カレが好きな見た目になれるよう努力して、自分でも付き合っていることを誇りに思ってもらえるような自分であるよう努力したかな。私なんて要らないって言われないように、自分を全力で育てた〟

 けれどその心の在り方だけは、模倣して自分なりに昇華できると思った。

 彼が街で何気なく視線を向けるマネキンやすれ違う人をチェックして、好みを把握する。彼が目を止めたお店のお菓子をこっそり買ってプレゼントする。作家については知識があまりになかったから、とりあえず『河童』を読んでみたものの、どうしてそれを中学生にして理解できるのかさっぱりだった。今の私なら、何となくは分かったような気にはなれたけど……。

 私の変化よりずっと大きな変化をしたはずの彼は、この振る舞いについて何も言及してこなかった。


 ある朝、突然「鎌倉に行きたい」と言ってきた。テレビに映っていたのは、遠く東北の海だというのに。

 その声色は小暮君ではなく、中辻君だった。

「鎌倉?」

「あの町並みが好きで、たまに行きたくなるんだ」

 小暮君なら「鎌倉に行かない?」と提案してきただろう。静かに心に決めたことを口にするのは、私の知っているようでよく知らない、あの頃の続きなんだろうか。

 時折窓の奥を見つめながら、ここが自分が居場所でないと感じているような、ひとりぼっちの目。

「うん、じゃあ行こう」

 私はどんなふうに彼に話しかけていたっけ。何も考えていなかった頃の無邪気さが、今の私にはない。どこで落としてきたのか、誰に奪われてしまったのか、無知を丸出しで声をかける私は、この身体には入っていない。

 記憶を何一切失っていないというのに、私は当時の私とまるっきり違うと感じる。記憶の繋がりがあってさえこんななのに、それがずっとない時間を過ごさなければならないというのは、どれほどの苦痛だったんだろう。


 電車に揺られながら、私は何かを話していた。どこかから拾ってきた付け焼き刃の知識を、必死に語ってみせる。彼は時々寂しそうにはにかみながら、相槌を打ってくれた。それは中辻君のではなく、小暮君の仕草だ。昔の彼なら、そういう時間には文庫本を開けていただろう。

 鎌倉に来たのは初めてだった。想像していたよりずっと静かで、こじんまりとした町に感じた。観光地というのはもっと煌びやかで、少しうるさいくらいで、苦手な場所だと思っていたのに。

 そこにいる間中、私でない私が身体を動かしていたような感覚があった。あなたが望むだろう振る舞い、あなたが喜ぶだろう話、あなたが見たいだろうもの、全部全部、あなたのためで、ここが鎌倉だろうと新宿だろうと那覇だろうと関係ない気がした。

 小さな硝子細工を様々な角度から眺めては、柔らかく笑むあなたは、果たして、どちらなんだろう。

 小町通りを抜けて、鶴岡八幡宮まで来たところで、彼はふと足を止めた。

「俺は誰なんだろう」

 彼の目は、『河童』を読んでいた頃と同じだった。問いかけの形は二人とも同じなのに、声色は決して私の恋人ではない。あなたの恋人は――

「あなたは――」

 分からない。答えるのが恐ろしかった。私の答え通りに、あなたは生きてくれるだろう。

 私は不意に自分の願いが何だったのかを忘れてしまった。

「……ごめん、分からない」

「変な質問したな、悪い」

 再び歩き出すあなたを呼び止められれば、どれだけ安心できただろう。

 けれどその呼び名は、質問の答えと同じだったから。

「良いんだ。時間がきっと、解決してくれる」

「そう、だね……」

 ねえ、実花ちゃん。貴女みたいな強烈な自我があれば、私はこんな身を灼かれるような痛みを感じずに済んだのかな。

 涙腺が熱くなっても、私はまだ、泣けない。私の好きな人はすぐ目の前にいるはずなのに、私を見てはいない。こんなにも、こんなにもあなたの願う通りに生きているというのに。

「あなたは、実花ちゃんともここに来たの」

 彼が振り返る。私は両手でフレアスカート裾近くをぎゅっと握って、好きな人によく似た人に一番苦しい問いかけをした。彼の質問には、答えなかったくせに。

「……来た。でも、ここが好きなのは、元からなんだ。愛世と、ここに来たかったんだ」

 答えは知っていた。あなたの足取りは見知った場所を行くそれだったから。だとしても、嘘を吐いてほしかった。誠実であることは、私には重すぎた。

「そっか、そうだよね、変な質問してごめんね」

 涙より、笑顔の方が、よっぽど楽に用意できる。

「鶴岡八幡宮行こうよ。ね、案内して」

 あなたの次の言葉を奪った私は、少しだけ昔に戻っていた気がした。

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