第32話 オッド
タクシーに乗った私たちは、車内で全く喋らなかった。目的地以外は何も話しかけてこないドライバーで助かった。
ガラス窓に反射する私の瞳は潤んでいた。けれど、決壊することはなかった。何かもっと劇的なものがない限り、私が思い切り泣くことはできない気がした。
「心配だから、今晩は泊まっていって良い?」
彼が断らないのは分かっていた。でもその心配は、彼の体調を気遣ってのことではなかった。記憶が戻ったことで、彼が私の視界から外れるのが不安だった。実花ちゃんのところに謝りに行くかもしれない、そんな妄想さえあった。
「お願いするよ」
一つの器に宿った二つの魂。いつまでも小暮君がその主導権を握ってはいられないとは何となく察していたけれど、じゃあその記憶を保ったままの中辻君は「どちら」なんだろうか。
混ざり合ったあなたは、全く違う誰か? どうどう巡りだ。考えても仕方ないのに、ベッドに横になった彼が壁に顔を向けたのを確認してソファに腰を落ち着けたら、またその問いが帰ってきた。
――だって私が付き合っていたのは小暮君で。
――中辻君は実花ちゃんを引きずっていて。
――主導権が長年動かしていた方に有利だとしたら。
要するに私は、怖かったのだ。
(あーあ、来ちゃった)
膝を抱えてめそめそする器。
それを後ろから指差して憎たらしげに見下ろすアイセ。
「仕方ないじゃない。私はこんなにも私が愛おしいんだから。私だけが愛されない可能性が生まれたら、途端に崩れ落ちるのは目に見えてる」
その隣に足を伸ばして、後ろに手をついて意地悪く片方の口角を上げる愛世。
それをついに正面から同じ頭身で見ていた私。
「何、どこ、ここ」
(頭の中、夢の中、別にどこでも一緒)
「都合の良い結論を出すための脳内会議? ダサくて醜い私にはぴったりの場所」
私は頭を抱えて膝を抱える器と同じ顔を作った。けれど、泣けるそれと違って、こちらは瞳を小刻みに揺らしてわなわなと唇を震わせることしかできない。
(彼と違って、私は全部一緒なのに)
「誰かさんが認めたがらないから、分裂したようなフリ」
お酒でようやく朧気にできるくらいの希薄でいて果てしなく私な私。
「大丈夫、私の本音はこの愛世だけが知っているんだから。実行するのがあなたなだけで、美しさに執着して醜い私はあなたより私らしい」
(凡人。常人。本当につまらない)
――と、思うけれど。
――私は少しだけ、普通の人とは違っている。そうね、言い換えるなら、とてもとても、浅ましいから。
――器、私、アイセ、愛世でもダメなら、創り上げてみせるだけの力はあるらしいから。
――初めまして、私。私は、結果。行動の果てに誰かの目に映るようになった、結果としての私。
――区別しやすいために名前を与えるなら、ふふ、一番嫌な名前をあげる。
横髪をくしゃっと掴んでいた両手の五指の隙間に滑り込んでくる冷たい指先。
――ミ、カ。
夢はおしまい。
それでも見たいなら、微睡むしかない。自分自身に、強い呪縛をかけて。
気が付けば、私はソファで寝落ちていた。眼前の彼は寝返りを打っていた程度で、相変わらず誰かまでは判断ができない。
――私が何であっても、彼が誰であっても、関係ない。
――私は彼の所有物で、彼は私のもの。
私は胸元より少し下までずり落ちていた掛け布団を首元まで引き上げた。
今彼の一番近くにいるのは私だ。
不幸せにならないで済むなら、私が誰かなど、瑣末な話だ。
過去に生きる実花ちゃんでも、彼を愛したようで自分が可愛い臆病者の客観的な視点でもなく。
あの夜、歪な形でもこっちに向く目があると知った悦びだけが、愛されることを使命かのように受け止めてきたこの、心の答えだ。
彼の背中にそっと顔を押し当て、この温もりが他の何処にも行かないよう祈り続けた。
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