第31話 シンクロニシティ
「ミカ――」
目を覚ました彼は、私を見て、すぐにかぶりを振った。
病室の丸椅子に座る私に向けられたのは、小暮君がしていたそれとは明らかに違う、もっと
「愛世さん、だよね」
永い夢が終わった時、人は哀しみや絶望より、虚しさを覚えるのだと知った。
「そうだよ。久しぶりだね、中辻君」
「……忘れてないよ、愛世――さんといた時のこと」
でも、呼び捨てにすることもできないんだね、とは言い返せなかった。
だってここにあるのは、私が中学の教室や川辺で目にしたのと同じ、何かをずっと抱えたまま無理をして生きていた頃の瞳だったから。
ダーツを指示通りに当てて申し訳なさそうにするひょうきんな彼は、もういない。
「記憶、完全に戻ったの?」
「多分、人間が必要な分については」
ああ、違う。こんなにも、こんなにも異なっている。小暮君はこんな物言いはしない。
「何から――」
「あ、気付かれたんですね、小暮さん」
看護師さんが入ってきて、私は椅子を引いた。
「ご同伴の方は待合で少し待っていていただけますか?」
「分かりました」
軽くお辞儀をして、待合のソファに腰を下ろした。
小暮君の記憶を保っているというのはおそらく嘘ではないだろう。単に中辻君の記憶だけが戻ったのなら、あんな言い方はしないはずだから。
だけど、これから私と彼とはどんな関係を気付けば良いんだろう。小暮君と私は恋人だった。それを引き継いで、よく似た彼と擬似的な関係を構築する? あんな些細な物言いだけで、違いを感じてしまうのに?
恐れていた事態は、思ったより早く来てしまった。誰なのか分からないミカについて調べるより、終着はすぐそこにある気がする。
(だから言ったのに。これでもうお終いにすれば、滑稽な夢だった、で済むんじゃないの?)
ウサギを抱いたアイセが囁く。ああ、そうだ。だって中辻君は私の恋人じゃない――
「田中さん、田中さん」
さっきの看護師さんの声がして、私はハッと顔を上げた。
「ああ、すみません」
「また彼の隣にいらっしゃって大丈夫ですよ。先生も点滴が終わったら出て良いと仰っていましたし」
「ありがとうございます」
閉め切られたカーテンを開けるのには不安が伴った。
(これでまた小暮君に戻っていたら良いのに)
そんな酷い感覚が頭をよぎった時、私は自分を最低だと思った。
私はいったい、誰を愛しているんだろう。
「大丈夫だよ、入って」
でも、同じ声がしたら、開けずにはいられなかった。
「俺たちの探すミカについて、何か思い出せたような気がしたんだ。そうしたら、急にこめかみに激痛が走って、気が付いたらここにいた」
何から話せば良いか、という問いを私にさせないためか、彼は要点をかいつまんで話してくれた。
「まずは愛世さんに、謝らせてほしい」
「……何を?」
「俺たちが再会した夜についての説明、あれは不十分だったから」
「どういうこと?」
「あの頃の俺は、記憶を失う前と失ってからの記憶が混濁していたんだ。その次の朝には俺は確か、愛世を通して白井実花に謝ってただろ?」
二日酔いで朦朧としていたから確実に思い出せる自信はなかったものの、確か彼はこんなことを口にしていた気がする。
〝俺は、君に決して赦されないような真似をした。でも、身勝手だとしても、謝りたかった。最後に覚えているのがあの日の顔っていうのが嫌だったんだ〟
言われてみれば、私が実花ちゃんじゃないミカを演じることだけを求められているだけなら、そんな言葉が出てくるのは不自然だ。
「でも、そんな、今更そんなつじつま合わせをしたって……」
整合性の高い人間関係なんて、私たちの間にはほとんど何の意味も為さない。今目の前にいるのが中辻君だろうと小暮君だろうと、それですらない第三の存在だろうと、正直、次に私がどんな行動を取れば良いか分からない、ただそれだけがハッキリしている。
「さっきは完全に記憶が戻ったと言ったけど、正直、俺は今誰なのかと聞かれたら、誰だとも言える気がしない。中辻が好きだったもの、小暮が好きだったもの、いったいどれが本当の俺なのか……」
私は我慢ならずに彼の頭を抱きしめていた。
「誰でも良いんだよ。私は――」
(他にいないから)
そう言いかけて、
「どんなあなたの傍でも、あなたが遠ざけない限り傍にいるから」と言い直した。
でも、果たしてそこまで私は自分をコントロールし続けることができるだろうか。
今彼を慰めるための言葉が、安易で軽率な誓いになって、最終的に傷付ける羽目になるのだとしたら――
雑念を振り払って、私は二人の彼に向かって「大丈夫、大丈夫」と唱え続けた。でも実際は、何より私に対して言い聞かせていた。
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