第29話 実花と愛世

「突然だが、中辻が今月いっぱいで転校することになった。ご両親の仕事の都合だそうだ」

 今月いっぱいと言っても、もう残り一週間もない状態での報告だった。中辻君はその時クラスの中心よりはだいぶ離れたところにいたから、教室がそうした話で盛り上がるということもなかった。何とはなしに送り出すムードはできて、寄せ書きを書くための色紙はこっそり回ったりしていたけど、それよりももう話せなくなる彼と今の内に話しておこうという空気感は、あまり感じられなかった。

「今日は何読んでるの」

「『河童』」

「カ、カッパ?」

 中辻君は窓の外を見つめていた。その時の彼が何を思っていたのか、当時の私には知る由も無かったし、今の私にもまだ、分からない。両親のことが彼の念頭にあったのか、それ以外の何かがあったのか、憶測はできても、邪推にしかならない。

 ただ、それまでの中辻君と大きく違ったかと言えば、確か、そんなに変わらなかったように思う。はじめから、中辻君はこの世にあまり関心が無さそうで、この空間に居ることに価値を感じてなさそうだった。

「誰の本?」

「芥川龍之介」

「芥川賞を作った人だ!」

 彼は私の顔を見た後、はぁ〜、とわざとらしく長い溜め息をついた。

「よくもまあそんなあやふやな理解で喋れるね、尊敬するよ」

「あ、もしかして私褒められてる?」

「貶してるんだよ」

「な、なんでよ」

「芥川賞は彼の死を惜しんで友人の菊池寛が設けた賞だよ」

「なるほど?」

 名前がついてるからてっきり本人が準備したんだと思ってた。恥ずかしい。

「でも、それくらいふわふわした感覚で生きてる方が、案外幸せなのかもしれないな」

 中辻君はぱたりとページを閉じて、無造作に机の隅に放った。

「その、今読んでるのはどんなお話なの?」

「河童の世界に迷い込んだ男が語る話の聞き書き。男には人間の世界より河童の世界の方が合ってたみたいなんだけど、人間たちからしたら、ありもしない河童の世界について語るもんだから、精神病の患者だと思って病院に入院させられてるんだよ」

「中辻君は……河童、信じてるの?」

「さあ、どうだろう」

 頬杖をついたかと思うと、彼はノートにシャープペンシルで河童の絵を落書きした。そんなに多くないストロークで、よく特徴を捉えていた。

「会ってみたいとは思うな」

「そ、そしたら中辻君も河童の世界? に行っちゃうってこと?」

「え? あー、どうだろうな……俺は河童の世界にも馴染めないんじゃないか」

 うっすら目を細めて言う彼は、けれど嫌そうには見えなかった。

「でもそうだな、行けるなら、一度くらいは行ってみても良いかもな」

 そのやり取りから一週間して、本当に彼はいなくなっていた。『河童』が芥川の晩年の作品だと知ってから、私は彼を永遠に失ってしまったような気がした。


「カレが私の前に再び現れてくれたのは、忘れもしない、中学二年生になる少し前、冬の始まりだった」

 恍惚に満たされていく実花ちゃん。彼女は明らかにどこまでも中辻君のことを愛していて――それでいて、中辻君を見ていないように思えた。

「ご両親の仕事の都合で遠くの中学に進んだカレとまた逢えるなんて、私、もう運命以外の何ものでもないと思った。カレは小学校時代にまとっていた雰囲気とどこか違っていたけど、そんなの気にならなかった。すぐに告白した。他の誰かに先を取られる前に、この人は押さえておかなきゃダメだって本能が囁いた気がするの」

 小学校時代と中学時代の境界。実花ちゃんが教えてくれた「うらやましいな」と口にした無邪気さは、私と過ごした彼には見出せなかった。いつも彼にくっついている両親の仕事の事情とやらは、おそらく、両親の不仲とかかわりがあるに違いない。

「カレはとても優しかったけど、時々私の方を向いてない気がしたから、ちゃんと見てもらえるように、自分磨きに徹した。カレの好きな本を読んで、カレが好きな見た目になれるよう努力して、自分でも付き合っていることを誇りに思ってもらえるような自分であるよう努力したかな。私なんて要らないって言われないように、自分を全力で育てた。それで私を否定されたら、もうどうしようもないじゃんね」

 少し下がった切れ長の目が微笑を浮かべれば、ここにいる実花ちゃんの美貌が、生来のものを甘んじて受け入れているだけではないことが察せた。

(たくさん努力したんだね。彼の傍にいられるように)

「中学時代から今まで、ずっと付き合ってたんですか?」

「そうね。喧嘩は何度かしたけど、別れて復縁したりとかは、してない」

 そう信じたい気持ちがどれほど実花ちゃんの中で膨らんでしまったのか、私には想像もできなかった。今後増えることもない彼との写真についてどう頭が説明しているのか、なぜ偽りの笑顔を本物のように浮かべていられるのか、メカニズムを知りたい気持ちは募ってやまないけれど、この嫋やかな合理化を目の前にして、私は無粋な真似なんてできるわけがないと思った。

「ねえ、実花ちゃん」

「なあに、愛世ちゃん」

「彼氏さんのこと、好き?」

「うん。世界で一番、誰より、何より愛してる」

 ほんの少し目線を下にして、鎖骨の間に手を当てて、祈るように、反芻するように言う彼女は、誰がどう見たって、美しい。そしてこれ以上、彼女から何かを引き出そうとするのは失礼だと感じた。

 たとえ歪な無限の夢の中にいるのだとしても、実花ちゃんが幸せなら、どうして邪魔できるだろう。

 河童の世界にいた方が幸せな人がいるように、実花ちゃんには実花ちゃんの幸せな感覚と、認識がある。それを破壊してまで、私は自分を人間の世界の幸せに押し込みたくなかった。

「愛世ちゃんはまず、自分のことを大切に思ってあげたら良いんじゃないかな。自分を大事にしないで相手のことばかり追いかけてたら、例えば服がボロボロでも気にならなくなっちゃってて、結果的に相手にがっかりされちゃうから。愛される自分でいるために、自分を愛してあげてね」

 そんなポジティブな考え方、私にできるかな――そう言いかけて、中辻君の顔がちらついた。

〝俺は河童の世界にも馴染めないんじゃないか〟

 彼はきっと、彼自身のことが嫌いだった。もし、今みたいな思考ができる実花ちゃんが暗いばかりの中辻君と接していたら……かつて名前を褒めてくれた頃のイメージで止まっているとしたら、いつか二人の間には溝ができているんじゃ。

 でももう、本人に聞こうとは思えなかった。

「ありがとう。実花ちゃんにそう言ってもらえたら、何かもう、頑張るしかないと思えました!」

 私は実花ちゃんの敵かもしれない。だけど私はもう、実花ちゃんを純粋に敵だとは思えなくなっていた。少なくとも、倒したいとは思えない。

 だって私は、中辻君には告白していなかったから。運命を感じて勇気を出して踏み出したのは他でもない、実花ちゃんだ。それからの日々にどれだけの過ちがあったとしても、ある時一緒にいただけの私には、口を出せない。ましてや、私は小暮君の恋人ではあっても、中辻君の恋人にはなったことがないのだから。

「幸せな日々がずっと続いてほしいね」

 私はまっすぐに実花ちゃんの目を見た。ああ、何を遠くに感じることがあるんだろう。ここにいるのは、好きな人のために頑張る等身大の女の子。

 歪んでいても、私とあなたは、友だちだ。決して一緒にはいられない、仲間だ。

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