第27話 こころの名前

 彼はノートを開いて時系列を整理しだした。中辻(前の俺)から右に伸びていく矢印の上に、小学校時代、中学校時代……とバーが書かれる。

「前の俺と白井実花が出会った『らしい』のが小学校二年生の時。それで中学時代に俺は引っ越した。それが中一の時。で、また引っ越したのは……」

「二年生になる前」

「そうだったね。離婚した母親の方についていって……」

 彼は首をひねった。口元に人差し指と中指の第二関節を持っていくのが、彼の思案するポーズ。中辻君は後ろに少し身体を反らせて考え事をしていたから、二人が同じ身体を共有していようと、違うものは違う。

「白井実花とどこかでまた再会することになって、付き合ってるんだろうけど、それがいったいいつなのか、あんまり触れたくなかったのもあって、よく調べてない」

「かと言って馴れ初めをあの子に直接聞くのは……はばかられるなあ」

「無理はしないでほしい。絶対彼女、ヤバいと思うし」

「でもそこにヒントがあるなら、無下にするのももったいないのかなって思う。あ、でも待って。また一つ変な点に気が付いちゃったんだけど、実花ちゃんと中辻君って、別れたんだよね」

「だから俺が生まれてるね」

 あ、私絶対不細工な顔してる。眉間にシワを寄せて、不可解な二人の関係性について考えてしまっている。

「すっごい変な疑問なんだけど」

「今さらだよ」

「実花ちゃん、なんで『今でも付き合ってる』みたいな口ぶりだったんだろう」

 まるで今でも中辻君は生きていて、小暮君は全く瓜二つの別人で、という可能性は……いや、ない、ないない。

「前の俺が白井実花と別れるに至った理由、それが俺に与えた影響……ダメだな、パーツはあるのに、繋がっていく未来が見えない」

 小暮君は小暮(今の俺)を大学時代のバーの下に追加した。これで一旦、中辻君の方には終わりを示す矢印の先端がついた。

「もし……もしの話なんだけど」

 実花ちゃんのことを思い出すうち、私はある仮説を立てた。あの時、中辻君を神様かの如く語って聞かせてきた彼女は、盲目的なまでに彼を崇敬していた。そんな彼女が、もし彼を許せず、喧嘩別れするようなことになるんだとしたら。中辻君が病んだ原因が、似たような病疾に求められるんだとしたら。

「実花ちゃんの中ではまだ、中辻君は別の形で生きてたり、するんじゃないかな」

 彼女は確かに病んでいる。それを病理的に把握しようと名前をつけたとして、分かったことになるんだろうか。私たち一人一人が持つ性格や傾向の中で、特に強い部分や弱い部分にレッテルを貼って、分類する。それはコントロールする側にとって何か得だったとしても、当の私たちには時として間違った方に導いていく可能性はないだろうか。私たちが向き合っているのは、それぞれ個性的な人格を有した、一人の人間であることには変わりないはず――

「私、実花ちゃんともう一度話してみる。彼女からできるだけ昔のことを聞き出せたら良いな。まあ私も深く立ち入ってケガしたら嫌だから、探偵みたいなことはできないと思ってて」

「無理、してるわけじゃない、んだよね」

 まっすぐに見つめてくるその双眸に、いつかは気を楽にしてもらっていて、今は……今も、救ってもらっている。あの夜小暮君以外と呑んでいたら、私はもっと堕落していたり、何かとんでもないことに――

「これ、相当手の込んだドッキリ企画だったりしない? みーんな配役をしっかり決めてて、私がターゲットの」

 小暮君を信用していない、わけじゃない。でも何て言うか、何を信じたら良いのか、分からないところはある。何から何まで全部夢で、もしかしたら今この瞬間も、私の身体は眠っていて、脳だけが見せる泡沫の連続かもしれない。

「ちょっとさ、良いかな」

 小暮君はふいに立ち上がると、私の肩をとんとんと叩いた。彼はそのまま寝室へ向かっていく。そしてぽすっとベッドに腰を下ろしたかと思うと、今度はその脇を手のひらでとんとんと叩いた。

「えっ、ま、待って、いや、この前のはほら、雰囲気がそうだったからであって、そ、そんなに急に来られるのは心の準備が」

「何言ってるの、違うよ」

 彼の目はじとっとしていた。勝手に盛り上がっていたのは私だけらしい。

 長く息を吐いてから、私は彼の横手に座った。

 すると、彼は私の肩に頭をもたせかけてきた。

「夢じゃないよ。夢に、しないで」

 夢、とは口にしていないのに、まるで心を言い当てるかのようなやさしい物言いだった。そしてやはり、その心を動かすのは、小暮君の叫び――消えたくないという、願いなんだろう。

「うん、ごめんね、変なこと言って」

 この世界には、正しいものがあるって、ずっと信じてた。生き方も、死に方も、正解があるんだって信じてきた。でも、みんながみんな、そんなふうに生きられることはなくて、それぞれの思う妥当なラインというか――諦め、なのかな、許容、なのかな――を持って、日々を送っている。

「私はあなたの――小暮弓弦君の、彼女だから」

 私が知ろうとしているのは、真実ではない気がする。そんな輝いた魔法の産物ではなくて、ほろ苦い、ボタンの掛け違えの連続の結果の方が、よっぽど近いに違いない。

 ともすれば、誰も幸せにはなれないかもしれない。

 でも、私たちはそれを知りたいと思う。

 どうしてか、知らずにはいられない。

 この心の有り様もまた、名前をつけようとするのなら、つけられるのかもしれない。

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