第26話 勇気

 私はドキドキしながら絵画を観ていた。

 でも絵画よりも綺麗な顔が隣に立っている。私には巨匠の作品は現実の切り取りにしか思えない。熱心に書かれた右隣の解説文は、丁寧にその絵が描かれた背景を語ってくれるけれども、画よりも素晴らしいものを見つけてしまった私には、どうも胡散臭く感じられてしまう。

 そもそも画家たちは、本当に綺麗なものを見つけたから、絵筆を執ろうと思ったんじゃないだろうか。

 あまりに彼ばかり見つめているとおかしいと思って、絵の全体よりも細々とした描き込みに意識を向けることにした。タッチとか、色遣いとか。

 同じ画家の絵であっても、何なら同じ一枚でも、激しいところと穏やかなところがある。その一塗り一塗りは、均一なように見えて、実に不均質だ。

 この絵を完成させるのにかかった歳月がどれくらいかは分からない。一日なのか、一週間なのか、一年なのか。

 同じ一日でも、朝と夜とで気持ちは変わるだろう。デジタルと違ってメイキングはないけれど、気が乗った時とあまり乗らない時とで、きっと筆の進みは全然違ったに違いない。そもそも、構想の段階と完成の手前とで、心が一貫していたかも怪しい。

 油彩の下に睡る線画がどうなっていたのか、暴いてみたいと思った。

(こんな見方をする人なんてあんまりいないんだろう)

 画才はないけれど、鑑賞するのは好きだ。それを言語化するのも苦手だし、誰かと共有するのも恥ずかしいから、人と美術館に来るなんて幼い頃以来だ。

 そう意識したら急に絵画から気がそれて、フロアを一つの景色として瞳に映した。

 白いハンドバッグを肩にかけた綺麗な女性が近寄ったり遠ざかったりを繰り返している。丸ぶちメガネがファッションとしてよく似合っている。何か気付いたことを小さなノートに鉛筆で書いている様子を見ると、美大生あたりだろうか。

 あんな素敵な女の子になる道もあったんだろうか、私にも。彼といられるのに、私はまだ満足できない。

 色に溢れたゾーンを抜けると、青い鉛筆で描かれた習作群が立ち並ぶところに入った。私はこっちの方が好きだった。飾らず、その時その時の自分の一番大切なものを描き取る。これらには何日や何十日はかかっていないだろう。今その瞬間、画家が描きたかった最大の関心が素描されている。ドローイングというんだろうか。華やかな画集の表紙を飾る絵より、よっぽど好い。

「顔つきが変わったね。愛世はこういう方が好き?」

「絵に集中してたんじゃないの」

「美術館で愛世がどんな反応をするかも、俺のデートプランには含まれているんだよ」

「まあ、私も絵より小暮君見てる時間の方が長かったけどね」

 精一杯の切り替えしにあなたはくすりと微笑するだけだった。

「好きな作家の絵でも、別に好きじゃない絵はあるよな」

「あ、話題そらした。恥ずかしいんだ」

「俺にとってはこの顔が普通だからな、美術作品みたく尊ばれるとさすがに気恥ずかしくもなる」

「中辻君ならそんな返しはしなかったと思うよ」

 口をついて出た。あなたは確かに中辻弓弦の見目形をしているけれど、あそこまで意地悪じゃないし、私で遊んでやろうという悪戯心もない。それを成長のせいだけにするのは、納得いかない。

「でもほら、常識を身に付けたのかもしれない」

 あるいは、ミカちゃんに書き換えられてしまったのか。

「常識をよく知る男の人はこんな不思議な恋愛の仕方しますかねえ」

「事実は小説も奇なりって言うしさ」

 私は身勝手だ。ある時は中辻君に戻ってくれたら良いと思うのに、このまま記憶が戻らないまま、やさしさの塊みたいなあなたでいてくれたら良いと思ったりする。あるいはもっと普通なシチュエーションで出逢えたなら、ごく普通にあなたを好きになって、あなたも私を好きになってくれたら。就活に疲れてバーで吞んでいた私に相席を申し込んできたどこぞの若者が、何となく私とラブロマンスを繰り広げる。ああ、それなら良いじゃない。

 それがどうして。

 過去の面影に引きずられて目の前にいる人を愛せない私と。

 失った記憶にかき消されたくないのにそれが求める私を愛してみせるあなたと。

 自分を形作った人が変わっていくのを受け容れられずに壊れてしまった人と。

「本当のミカさんってどんな人なんだろうね」

「そもそも実在の人物かも分からないし、ひょっとしたらこんな風に絵画の中にいる幻想かもしれないって可能性もあるかもしれないよ?」

「だとしたら相当の夢想者じゃん」

 『私』というタイトルのついた作品の前に立ったあなたは、静かな声で言った。

「なあ愛世」

 とても鋭くて、心の奥に突き刺してくるようだった。

 けれど彼はそれ以上言葉を紡がず、美術館のエントランス近くにある喫茶店に入ってから続きを語りはじめた。

「声がするんだ。愛世といればいるほど、日増しにその声が強くなっていくんだ」

「声?」

 私で言うところのアイセとかのことだろうか。

「早く俺の記憶を取り戻してくれ、お前が手に入れようとしてる幸せを俺に寄越せって」

 急に此方を向いた小暮君の顔には、丸井君が見せてくれた写真に見えた冷酷さがあった。

「俺は厭だ。仮に記憶を失ってからの自分が残るのだとして、みんなはそれまでの俺を当たり前の存在として見る。下地にある俺のことを見て、『辛い時期を乗り越えたんだね』って言うに決まってる」

 彼は絵にいたく感動した鑑賞者のような表情を簡単に浮かべた。きっと私と出逢うまでの時間も、そうやって自分の身に覚えのない自分を演じ続けてきたんだろう。

 私は手軽な励ましの声をかけようとして、開きかけた口を閉じた。

 嘘から始めて、嘘で塗り固めて、それで何になるというんだ。

「それでもみんなの心には、記憶を失くす前の小暮君も間違いなくいるから。むしろ、ずっとずっとその時間の方が長いし、記憶がなくなるなんて俄には信じがたいから、小暮君だって以前の自分を演じてたんでしょ?」

「……そうだ。そうなんだよ。俺が俺を騙るならまだしも、愛世を巻き込んでしまったから、きっと本物の俺が身体を返せと言い出したんだ」

「ねえ、私たち、ちゃんと『ミカ』について探そう。絡まった糸をきちんと解いて、その上で、答えを出していこう? 私だって小暮君の中に正直中辻君を見出してしまうし、全ての根幹を知らなきゃいけないと思うの。もちろん……小暮君が嫌だって言うなら、無理強いはしないけど。でも、あの夜、私を見て何かに気付いたのに、私のことはミカって呼んだ。そこに何かヒントがあって、それは単に記憶が戻るとか戻らないとかを超えてると思うの」

「……あの白井実花がミカじゃないなら、もう十数年以上も前の誰かを探すことになるんだよ?」

「でも、私だってもう、ここまで来たら知りたいよ。もやもやした気持ちのまま、小暮君とどこかぎくしゃくした感じで過ごしたくない。ミカがミカちゃんじゃないからこそ、何か可能性があると思うの」

 彼はしばらく押し黙ったまま、伏せ目がちに呟いた。

「俺が愛世と初めて会ったのは、本当に中学校の時?」

 私は彼の勇気に敬意を表したいと心から思った。

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