第22話 簡易幸福

 後悔のない初めてを迎えられる人は、どんな幸せな人だろう。

 追いかけていたものが、ふと気が付けばずっと遠い過去になっている。

(ミカちゃんは後悔したのかな。思い出して、後悔したりするのかな)

 正直、何をされているのか分からなかった。ただあなたは、決して酷い真似はしなかった。

 私が告げた願いに対して、ただ視線をそらして、「要るものを買ってくるから」とだけ口にして、外に出ていった。

 帰ってきたかと思えば、「まだその気があるなら」と改めて私の意志を確認してくれた。

 男のそれは捨てるもの。女のそれは失うもの。なんて話を大昔に聞いたことがあったけれど、果たして私は、どんな始まりを迎えたんだろうか。

 あなたはよく知っていた。けれどそれは染みついた記憶を手探りで進みながら見つけ出していくようなおぼつかなさの上にあった。彼は知っていたというのに、あなたは知らないというのは不思議で、嫉妬して良いのか、安堵して良いのか分からなかった。それでも身体は覚えているようで、やがてこなれていった。

 私は何となく、あなたが消えてしまいそうな気がして、思わず背中に爪を立ててしまっていた。決して何かに溺れたような感覚は、なかった。

 終わった後、どうだったかと聞くことははばかられた。

 それを穢らわしいと言う人がいるのも分かる気はする。何だか私が私でなくなるような感覚があって、その違和感は生命の危険とかそういうものに繋がっているような気がした。男性が同じようにそれを味わうのかは分からない。ただ、罪を犯すような表情をあなたが何度も垣間見せるから、私は自分を嫌いになりきれなかった。倒錯していたのかもしれない。捨てるのと、あげるのと、どう違うのか、今夜の私の決定を未来の私しか評価できないのは、あまりにも残酷な仕打ちだと思う。

 アイセも愛世も姿を見せなかった。この決定が間違いだと非難する私も、正しいと賞賛する私もいないのは、結局彼女たちが私の中から生まれ出たものであることを意味しているようだった。単に分からないんだ。みんな。

 洗面所から戻ってきたあなたは、そのままの姿で私の隣に寝転がって良いか尋ねてきた。私はか細い声で「良いよ」とだけ返した。

 あなたは私をそっと引き寄せると、胸元で抱きしめた。少し汗ばんだ彼の胸板を私は拒まなかった。特に好きにも嫌いにもならない彼の匂いにぼんやり包まれながら、私は眠気が立ち上がってくるのを感じた。

 あなたの言うミカは私の知るミカちゃんとは違う。ミカちゃんが彼の幻影の中に囚われている原理は分からないけれど、一つ謎が解けたことで、それほど憂慮すべき事項でないのだろうとは思った。

(後はこの微睡みに身を委ねるみたいに、全部なるようになると思えば良いのかな)

 楽になって良いのか。このやさしさに寄りかかってしまって良いのか。

 ゆっくりと後頭部を撫でられると、「もう良いんだよ」と言われているような気がした。

〝消さないで〟

 小暮君はきっとそう言っている。私の躊躇いは中辻君を消えたままにして良いのかという問いだから、うろうろすればするほど、あなたを消す可能性を膨らませることになる。実際、消えてしまった記憶を取り戻せるのかは全く定かではないけれど、私がはっきりしなければ、あなたはいつまでも安心できないだろう。

(そうだけど。そうなんだけど)

 あなたにあげてしまったというのに、彼を求めてしまう心がある。でも、彼はミカちゃんに紐付いていると思えば、あなたの方が良い気がした。

 身勝手の極み。

 あなたにおでこを押し当てて、意識よ、落ちろ、落ちろと心の中で独りごちた。

 私を求めてくれるのはあなたなのに。

 それが良いと言えない私は、最低だ。

 ここまでしておいて、うろたえるなんて。でも、一線を越える前は、越えた後の自分の気持ちなんて見えないから。

 お酒に溺れる前の私が今の私を見て何て言うだろうか。

「そんなの、分かってる癖に」

 目を瞑っていれば、姿は見えない。眠ってしまえば、声も聞こえない。だから私は酔って、酔いつぶれる。

 今度はお酒が恋に代わる。でもそれは、自分という範疇を越えて、他人を巻き込む。ああ、それで私は、ずっと逃げていたというのに。酒の悪魔に魅入られた私は、いよいよその制約を振り切ってしまった。

 簡単な幸せ。

 あなた――彼は女をよく知っているから。すぐに私の欲求を埋めてくれると知って、ラインを踏み越えた。

 ずっと、「あれで良かったのかな」だけを繰り返す第五の私を生むのと引き換えに。

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