第21話 あの夜のこと
「記憶を失った俺は、自分が自分だとはとても思えなかった。友人の前でも知り合いの前でも、俺は俺を上手く演じることはできても、俺には自分でないとハッキリ分かっていたんだ。だから、君を見て衝撃が奔った時、俺は自分の願いがようやく叶う気がした」
「願い……?」
何を言っているのか分からない――はずなのに、あなたが言葉を発するほどに、私の眼の前ではなく脳内に、あの夜の光景がちらつきはじめ、やがて確かな姿へと変わっていく。
この声、心の奥深くに沈み込んでいくような、やさしくて、かなしい声。
「私、もう消えちゃいたい」
そう。私はあの夜、消えたがっていた。無性に。
見知らぬあなたに相席を許すほど、私には全てがどうでも良かった。
「ねえ、あなたについていけば、私、どうにかなってしまえるかな」
「それも悪くはない話かもしれないけど、まずはどうしてそんなになってるのか、教えてくれないかな」
「分かんない。ただもう、終わりにしてしまいたい。ここに来る予定なんてなかったのに、気がついたらここで浴びるほどお酒を飲んでたの」
私は自分を捨てたがっていた。何故私はあの夜バーにいたのか。明白な答えなんてものは、なかった。
「君、名前は」
「アイセ。タナカ、アイセ。でもそんなの聞いてどうするの」
「さあ。ただ俺は、君に死んでほしくないと思ってる。正確には、俺の中の何かが」
「何言ってるのかさっぱり」
「俺にもさっぱりだ。変な質問だけど、以前に君と逢ったことは?」
「さあ。あなたみたいな綺麗な顔の人、知らない。会ってたら、絶対忘れてないと思う」
泥酔した頭でもあなたの顔は綺麗に見えた。それは多分、嘘ではない。
「そっか。でもきっと、俺は昔、君に逢ってる」
「他人のそら似じゃない?」
「それはない。今まで何の変化もなかったこの器に落ちた一滴に、ここまで追い詰められるなんてこと」
私にはあなたの詩人めいた物言いは到底理解できなかった。ただあなたの眼が、消えたくないと訴えていることに、何らかの信頼を抱いていた。
「あなた、消えたくないって顔をしてる。生きたいって顔。私とは違う。今すぐにでも死んでしまいたい私とは、明らかに違う。あなたに私の残りの人生を譲ってしまいたい」
こんなに饒舌に喋るのは私ではない。酔っていたとしても、ここまで流暢に喋れるのは明らかにおかしな話だった。むしろ、呂律が回らなくなる方がよっぽど多いというのに。
「君の人生は要らない。その代わり、君には僕の心の穴を埋める役割を果たしてほしい」
「具体的には何をしたら良いの」
「君――アイセさんはきっと
「じゃあ、私の名前は要らないね。私、誰になれば良い?」
人は簡単に死ねないことを、私はよく知っている。というより、私という人間の本質が、自ら死を選ぶことを良しとはしなかった。この歪んだ世界の中で、歪みきれない弱い私は、私でない何者かになることで、そこから抜け出そうとしていた。
「あなたの一番好きな人の名前、教えて。私をその人に成り代わらせて」
ああ。
私が捨てていたんだ。
あなたではなく。
私が。
あなたは深く思案してから、さびしげに口を開いた。
「ミカ――それが俺にとっての、一番大切な名前」
「じゃあ、今から私はミカね」
あなたは泣きそうな顔で私を見ていた。
とても優しい人だなって思ったのを、思い出す。
「思い出した。あの夜のこと、全部。小暮君の大事なミカは、私。私はあなたを消したりなんかしないよ」
その頭を、そっと撫でる。あの時、思わずそうしたのと一緒で。
「だからあなたの願いは、聞けないかな」
あなたの願い。それは、あなたの記憶が戻って、あなたの器に新しく芽生えた人格が、消えること。あなたもまた、ずっと思い悩んでいた。自分が誰で、何者であるかを。苦しむ自分が居なくなれば、きっと楽になれる。
でもその一方で消えたはずの人格に、都合よく舞い戻られることを、あなたは強く畏れている。第二のあなたは、あまりにも強く、存在したいと主張しているんだ。
「私を求めて。あなたという存在を、強く見せつけて。私にあなたを、刻みつけて」
中辻君は私を見ていない。私を見ているのは――あなただ。
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