第20話 彼からあなたへ

 Netflixのオリジナルドラマを垂れ流しながら、時々彼に視線を向けると、無邪気に笑ったりたまに微笑したり、その無垢っぷりはどこかで見たような、まるで知らないような奇妙な感覚に陥らざるを得なかった。

 主人格が新たに生まれた場合、しかも前の記憶の引き継ぎに失敗した場合、脳はどんな性格と行動を要求するのだろうか。

 山頭火の句集を出してみせた彼の中には朧気ながら中辻君がいる――のだろうか。それが同じ希求に基づいているならともかく、聞き馴染みのある作家の作品を何の気なしに手に取ることが私にだってあるように、たまたまということは有り得る。小暮君にとってミカちゃんが私に成り代わっていても問題ないように、中辻君の器を用いた全くの別人だと考えた方が得心はいく。

「変に突っ込んで聞いたらさ、ミカ嫌がるだろうから聞かないでいたけど、夕べ、何かあったんだよね。だから、僕を呼んでくれたんだよね」

 顔はモニターに向いたまま言った。本気で心配しているという感じを見せまいとするところには、彼の面影が見えなくもない。

 でも、「やさしさ」というのは普遍的なもの。何も中辻君に限らない。それを以て小暮君を中辻君と言い張るのなら、世界中の「やさしい」人は皆中辻君になってしまう。

(じゃあ、私はなんでミカちゃんに見えてるんだろう)

 シールの下の素顔が分かったことで、余計に分からなくなった。私も「やさしい」くらいの理由で彼にそう幻視されているんだとしたら、世界の認識は酷くあやふやになってしまう。でも、むしろそれが精神疾患を抱えている人にとっては普通のことかもしれない。彼の記憶や感覚が真っ当でないことはもう知っている。でも、精神病がどこまで人間の認知機能に影響を及ぼすかは、私にはまるで分からない。

「就活でまた、色々、ね」

 面接先でミカちゃんと会ったのは事実なんだから、全くの嘘ではない。真実からはだいぶ遠いけど……。

「やめちゃえば、なんて無責任すぎるね」

 やめる、か。頑張れって言われるより、よっぽど良い。

「ううん。私だってやめたくて仕方ないから。で、物凄い遠いところに逃げてしまいたい」

「こういう時、気の利いた言葉でもかけられたら良いのに。それこそ――過去の自分なら、できたのかな」

 思わず彼の横顔を見つめてしまった。

 自分が正しい存在ではない、という感覚。それがどれほど辛いのか、私には想像し得ない。

(私は彼を利用してるのに、私は彼に何もあげられてないどころか、彼を傷付けてる)

「もう十分救われてるよ、私」

「来るだけなんて、誰にだってできるよ」

「でも――」

 私には来てくれるその誰かが、そもそもいなかったから。たとえ幻影を追いかけているだけなんだとしても、全てがあぶくと化すとしても、縋らずにはいられない。

「でも、一番大事なのは、その来てくれるってことだから。貴重な時間を削るって、意外とできないことなんだよ?」

「ミカより大事なものなんて俺にはないから」

 やっと彼は私の方を向いた。私たちを繋ぎとめるくびきは確かに存在している。でもいったい、誰が、何のために始めたことなんだろう。

 全ての元凶は、どこに、誰に。

「君が本当のミカじゃないことは、もう気付いてる。いや、ずっと最初から、分かった上で、付き合わせてた」

(へっ?)

 そこにある微笑は、ドラマを見て浮かべているものとは違って、枯れかけの花が見せる最後の美しさのような、そんな辛さをたたえている。

「初めて俺――器としての俺が君に出逢った時の話をしよう」

 私の頭の上には疑問符が無数に浮かぶ。でも、あなたが嘘をついているとはとても思えなかった。

 その瞳の色合いは、中辻君とは全く違うというのに。

「俺の中の何かが君に、話をしたいと訴えかけていた。空っぽの俺に初めて、指針ができた瞬間だった」

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