第19話 傍に立つ者

 私は朝ご飯を作っていた。コグレの漢字は小暮だった。ふいに見えたスマホの通知画面に、その二文字が見えたのだ。それを知っただけで、私の心は舞い上がっていた。

 ほどんど空も同然の冷蔵庫の中から、まだ無事そうなベーコンを出して薄くスライスした後、フライパンの上にとっちらかす。換気扇を弱でつけてから点火する。油のはねる音、お肉の焼ける匂いが新鮮に映った。

(彼がいるからこんなことしてるのかな)

 自分のために料理をするなんていつ以来のことか。ひとり暮らしに手料理は必要ない。コンビニやスーパーでお弁当とか冷凍食品を買った方が安く済む。洗い物もしなくて良いし、シンクに投げられたお皿やお鍋が泣いているのを見て罪悪感に苛まれることもない。

 人並みかそれ以上には料理ができるのに、本気を出せば毎日お弁当だって用意できるのに、自分を活かすという選択肢がいつからか消えていた。

 こしょうを散らして、ぼんやりする。

 私は一人で生きていけない人間だと思う。根腐れを起こして早くに死んでしまうだろう。

 だからって、人の心の隙に付け入るような真似をして、自分のうろを埋めたってダメなのは分かっている。分かった上で、心が他の行動を許してくれない。

 遠くで衣擦れの音がする。キッチンへ続くドアに近づく気配を感じた。

 ガラガラとスライドされた向こうには、大きなあくびをして無防備な彼。

「あれ、料理なんて珍しいね」

 ミカちゃんは料理をしないのか。その時、ゾクッという嫌な感覚が私の全身を奔った。

(何、この電流みたいなの)

 彼と真逆の方向――私の右手に立つのは、私の知らない私。アイセじゃない。彼女は私より少しだけ美人で――ああ、何、こんなメイク、私はしたことがないのに。

「心配しないで。私はあなた。あなたは私。あなたよりもっと冷たくて、私の本心を語れるだけ」

 アイセとは明らかに違う。彼女は私を非難するばかりで、指針を示したりはしない。それに、ハッキリと喋る。まるで本当にすぐ傍に立っているみたいに。

「私は自分が思うよりずっと貪欲。ずっと後ろにいてあなたを扶けてくれるだけだと思ってた?」

 ああ、あなたは――

「ミカ?」

「あ、ごめん、ぼーっとしてた」

 まずい、ベーコンの端が焦げそうになっている。今ならまだカリカリで済みそうだ。

 急いでお皿の上に上げて、救出する。

 本当は目玉焼きでも作れたら良かったけれど、賞味期限との戦いに勝てる気がしない私には買って置いておく気が起こらない。

 結局高級食パン(虜になってからというもの、買い続けていた)を傍らに添えるだけ、という至極残念な始末。これでも立派な料理は名乗るし数年ぶりの快挙だけれど、いや、それはナルシシズムに程がある。

「これだけじゃ、残念だよね」

 控えめにくしゃっと先制攻撃で微笑むのは、私なりの精一杯の防御。

「ううん。朝から料理しようと思う時点で凄いよ」

 そう口にするのは中辻君なの? 小暮君なの?

 二人の思考回路がどれだけ異なっているのか分からない。ミカちゃんの影響がどこまで及んでいるのか、それによって比較なのか単純な感想なのか分かれる。

「あ、あっちで食べようか」

 彼女が傍に立つ前に、ここから離れたかった。

 でも、そんなことが許されることはなかった。

「ねぇ、見ないフリするのはやめて」

 私は必死に首を横に振る――振りたい。でも、彼が目の前にいる状況でそんな真似はできなかった。

「さっき私を襲った電流の正体、分かっているくせして、無視するんだ? アイセなら許してくれたかもね。でも私はそんなやさしさは見せない。私はちゃんと幸せになりたいから」

 ああ、私もまた狂って、おかしくなっているんだろうか。何とハッキリ言われていないだけで、この状況に陥っているのはどう考えたって変だ。普通じゃない。

「私はあなたに無視し続けられたアイセの行く末。自分の望みを叶えることをやめない私。私は私を司るあなたをちゃんと行くべきところへ押し込む。後悔なんてさせてやるもんか」

 振り切ろうとリビングへ行こうとするのに、あろうことか彼女は覗き込むようにその上半身を私の前に出した。

「いないことにしないで。私はあなた。あなたは私なんだから。さっきの感覚の名前をしっかり口にして」

(嫌、嫌、私はそんな醜いこと、したくない)

「どうしてあなたが醜くなるの? 本当に醜いのは自分じゃないと思ってるくせに」

 動悸がする。

 たすけて。わたしをいじめないで。あなたは、わたしじゃ、ないの。

「ちゃんと自分で認めて。ほら。私が感じたのは――」

 優越感――

 私は、ミカちゃんに勝てる。そして小暮君を――ううん、中辻君を手に入れる。

「よくできました」

 すぅ、と彼女は消えていく。我に返った私はお箸を持ったまま固まっていて、彼に怪訝そうに見つめられていた。

「料理なんてしたの久々だから、ちょっとぽわぽわしてた」

 二人はもう別れているはずなのに。どうして私は略奪愛みたいな背徳感をずっと抱えなきゃいけないんだろう――その答えさえ、もう知っているのに。可哀想なフリをしなければ、愛される術が分からない。

 私の傍に立った彼女の名前は、愛世。歪んだアイセの成れの果て。自分だけを愛する、始末の悪い女。

「そっか、そうだよね」

 ささやかに微笑む小暮君に、夢と幻想を見させてもらいながら、心の中ではこうやってこぼす私が心底嫌いだ。


 中辻君を、返して。

 私が大好きだった、窓辺で本を読む、彼を。

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