第14話 信仰と嫉妬
「梶井基次郎は躁鬱の典型だね」
黄ばんだ図書室の文庫本を片手にそうこぼした中辻君を見ることなく、私はセミがうるさい窓の外を眺めていた。
家で節電のためにクーラー禁止令が出されたせいで学校に逃げてきた私は、教室で一人ポツンと本を読む彼の前に何となく座っていたのだった。
「ソーウツ? カイジ?」
「躁鬱はテンションが急上昇したり急降下したりする症状の人のこと。カイジは賭け事する漫画の主人公で、俺が言ったのは梶井ね。『檸檬』って小説の作者の名前」
「あー、ヨネヅの影響受けてたりする?」
「しないね。大正時代の人だし」
「昔じゃん」
「田中さんって江戸時代と大正時代一緒に思ってそう」
「あのね、社会の成績は普通に5なんだよ、私」
「俺は全部5だからその価値分かんないや」
「うわー、嫌な奴」
同じクーラー難民だと思ってシンパシー感じてたのに、あっさり裏切られて一気に嫌いになった。天才はこうやってすぐ人を見下す。ただ私は世界に興味がないだけなのに。
「でも、俺は梶井基次郎の足元にも及ばない気がする」
「ソーセキとかリューノスケってみんな天才なんでしょ」
「いや、そういう才能のことじゃなくて、歴史に遺るだけの強い魂っていうかな、人格のねばっこさ、みたいなものが俺には致命的に欠けてる感じがする」
「うわ、一気に難しいこと言い出すじゃん」
陰気なオーラを出して夏休みに独り読書してる時点でお察しだけど、ここまでキツいと同族でも嫌悪する感じより、隔たりの方を強く感じる。
でも、よく見るとそんなに悪い貌はしてない。睫毛は長いし、自然な二重は腹が立つくらいだ。
「田中さんはさ、エゴが強い方? それとも弱い方?」
「えー、まあまあなんじゃない?」
「俺が考えるに、歴史に遺る人たちって、良い方向悪い方向どっちにせよ、強烈なまでのエゴイストなんだよ。俺を認めろ、俺を見ろ、そう思ってて、時々声に出したり文章にしたり、何かもう魂レベルで強烈で、なんなら転生したり地縛霊になったりしてそう」
「意外と電波系?」
「あいにく俺は無神論者だよ。可能性の示唆をしているだけ」
そう言うと、中辻君は左手を銃の形にして、「バァン」と口にした。
「これで田中さんを殺せると思ったことはないね」
そこで夢は終わった。大親友との会話すらロクに思い出せない私には、それが現実だったのか脳内の生成物なのか判別できない。
ぐっしょりとした寝汗がサテン生地のパジャマを気持ち悪くしていて、寝起きとしては最悪レベルだ。
額に右手首の関節を押し当てて、ベッドから降りた。なんであんな夢を見たんだったか。こたつ机の上に横たわった缶チューハイの痕を見ると、だいたい察しがついた。
中辻君が言っていた『檸檬』とは、高校で再会した。ほとんどの生徒には、本屋をレモンで爆破する妄想で気持ちよくなるヤバい奴の話、って認識だったけれど、私は主人公が次の日も果物屋に行って、もうレモン一つではまったく心が軽くならないだろうという感想を抱いたのを覚えている。
混濁した記憶の中では、あらすじも覚束ないけれど、中辻君以外にそういう知的でちょっと致命的なタイプの人間とは関わり合いになった覚えはないから、おそらく夢の中身は正解なんだろう。時期とか、場所とかは、テキトーかもしれないとして。
「メイクだるっ……」
見事にむくんだ顔が洗面所の鏡の真ん中少し下にある。男は寝起きに顔も洗わないで電車に乗れる生き物だと知った時には、一生付き合える気がしなかった。果たして、中辻君もとい小暮君は、ちゃんと洗顔するんだろうか。
「あー、これが女の子たちが言ってた『良い男は女が育てる』ってことかぁ……」
母親が育てればマザコンになるだろうし、カノジョや妻が育てる側になったらなんで自分がってなるだろうから、つくづく神様はなんで男と女を作ったのか謎だ。
「純粋無垢で無知なあの頃に戻りたい……」
ブツブツ文句を言いつつも、下地が完成する。もはやルーチン化した作業だから特に楽しくはない、「普段メイク」。制服のリボンをいつまでも初々しくつけれないのと一緒だ。筆箱の中の可愛い文房具たちも、何気ない日常の一部になって、いつの間にか消えている。人生で使い切ったことのある消しゴムは一つもない。
「毎週サザエさん放送するのと一緒か」
義務。
化粧をほっぽり出して外に出るのは、私にとっては全裸で街中を歩くのに等しい。知恵の実を食べた瞬間から、恥辱を覚えたのと変わらない。どうも私にはフェミニズムは肌に合わないらしい。というより、「強いてくる」人たち、か。
いきなりの同級生からの情報提供の呼びかけに困惑してか、特に返信はなく、気が付けばガタンゴトンと列車の中。若そうなのに禿げ上がったおじさんが両手をビシッと上げて痴漢できないですよアピールをしているのを見ると、何だかな、って思いが募る。
ダメだ。今日はなんでこうも社会や自分の在り方に対しての問題提起をせずにはいられない。夢のせいか、ホルモンバランスか、ああ多分、全部だ。
自分を見つめ直してみたって事前に埋めていたスケジュールがいきなり変えられることはなく、私は二次面接を受ける予定の会社のビルの前に辿り着いた。
「あっ、えっと、この前カフェテリアでご一緒した――ごめんなさい、お名前、聞いてなかったですね」
(落ちたな)
私がどんなに強い勝負下着をつけたって、この花が微笑めばただの布っ切れだ。
「あ、どうも、白井さん……。私、田中です。田中、愛世……」
面接は顔にモザイクを、声にエフェクトをかけて執り行うべきだと思う、と思った瞬間、世にはびこる偏見や嫌悪感に、一気に納得がいった。自分を遥かに凌ぐ強さにあてられ続けたせいで、思想がひん曲がってしまったのだ。
そう言えば梶井も、自分の容姿にはあまり良い感情を抱いてはいなかったという。まあ、遺る著者近影を見ればそう簡単に女がなびくとは思えない。漱石だって、一番有名な頬杖をついた写真は、あばたを隠すために何度も修正を加えたらしいから、みんな何かに誰かに嫉妬しながら、段々悟ったり狂ったりしていったんだろう。
「お互いライバルだけど、頑張ろうね、田中さん」
あなたが落ちて私が受かる世界線はないと思うよ、とは言えず、「そうだね」としか返せなかった。
もとよりこの時点で面接官に見られていてもおかしくないのだから、尚更印象はよくしておかないと。
私はスッと白井さんから視線を外した。
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